第35話 振り向いてほしい人(2)
凛花は少しだけ遠くを見るようにして話し始める。
「最初は、ただ気になるだけだったの」
「気になる?」
「ええ。入学してすぐの頃から、あなた、やたら目立っていたでしょう」
「目立っていたつもりはない」
「つもりはなくても、目立っていたわ」
即答だった。
「無口なのに成績はいつも上位で、周りに媚びないのに、変に浮いてもいない。話しかけづらいのに、誰かが困っていたら放っておかない」
凛花は少しだけ笑う。
「そういう人、気になるに決まっているじゃない」
青は返事をしなかった。
何を返せばいいのか、よくわからなかったからだ。
「でも、近づき方がわからなかったの」
凛花が言う。
「あなた、普段は本当に勉強のことしか考えていないみたいだったし」
「否定はしない」
「でしょうね」
くすりと笑う。
「だから、勉強なら話せるかもしれないと思ったの。私がもっと上を取れば、いつかあなたが気にするかもしれない。あるいは、何かきっかけができるかもしれないって」
「それで、ずっと一位だったのか」
「ええ」
「すごい執念だな」
「今のは褒めてるの?」
「一応」
「一応、なのね」
凛花は呆れたように笑う。
けれど、その目は少し嬉しそうだった。
「本当はね」
凛花は声を少し落とす。
「もっと早く、普通に話しかければよかったのよ」
「話しかけづらかったか?」
「かなり」
「そうか」
「そうよ。青は自覚がないでしょうけど、教室でいつも静かにしていて、休み時間は本を読むか問題集を見ていて、近寄る隙がなかったもの」
「そんなつもりはなかった」
「だから、それが無自覚だって言ってるの」
凛花の言葉に、青は少しだけ考える。
たしかに自分から話しかけに行くことは少なかった。必要があれば話すが、必要がなければ話さない。それだけだと思っていた。
だが、それが周囲からどう見えるかまでは、あまり意識したことがない。
「でも」
凛花は少しだけ表情をやわらげる。
「生徒会で一緒に仕事をするようになって、青が思っていた以上にちゃんと周りを見ていることがわかった。書類の並び方ひとつにも気を遣うし、先生への言い方も丁寧だし、誰かが困っていたら何も言わずに手を貸す」
その言葉に、青は視線を少し逸らした。
褒められるのは苦手だ。
しかも凛花は、お世辞ではなく、本当に見たままを言っているのがわかる。
「だから」
凛花は一度だけ息を吸った。
「振り向いてほしかったの」
改めて、静かに言う。
「私のことも、ちゃんと見てほしかった」
青は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
凛花の言葉は派手ではない。甘い言い回しでもない。
それでも、まっすぐだった。
「……見てる」
気づけば、青はそう言っていた。
凛花の瞳が揺れる。
「え?」
「俺は、凛花をちゃんと見ている」
青は続けた。
「生徒会で仕事をしていても、勉強のことでも、今日みたいなときでも。凛花が真面目で、気を遣えて、無理をしてでも周りを整えようとする人間だってことは、わかっている」
そこまで言ってから、青は少しだけ言葉を探した。
「それに」
「……それに?」
「一緒にいて、落ち着く」
凛花は完全に止まった。
改札へ向かう人の流れの音だけが、二人の周囲をすり抜けていく。
「青」
「なんだ」
「それ、かなり破壊力があるって、自覚したほうがいいわ」
「そうなのか」
「そうよ」
凛花は片手で額を押さえた。
「今日だけで何回不意打ちするつもりなの……」
「不意打ちのつもりはない」
「ないから余計にひどいの」
その言い方がおかしくて、青はわずかに口元を緩めた。
凛花がその変化に気づいて、少しだけ目を丸くする。
「……今、笑った?」
「少し」
「ずるいわね」
「何がだ」
「青が笑うと、こっちの調子が狂うのよ」
「それは知らない」
「知らなくていいことを、そうやって増やしていくのね」
凛花はそう言いながらも、嬉しそうだった。
少しの沈黙のあと、ふと凛花が思い出したように言う。
「そういえば、さっき言いそびれたことがあるの」
「何だ」
「期末試験」
青はすぐに理解した。
「わざと点数を落とした話か」
「ええ」
凛花は観念したように頷く。
「今思うと、本当にどうかしていたと思うわ」
「少しな」
「少し、で済むの?」
「凛花らしくはない」
「でしょうね」
自分でも呆れているようだった。
「でも、本気だったの。塾よりも学校の夏期講習に行けば、青と同じ時間を過ごせるかもしれないと思って」
青は少しだけ黙った。
そこまで言わせるほど、自分は凛花に思われていたのか。
そう考えると、不思議な気持ちになる。
「怒らないの?」
凛花がそっと聞く。
「怒る理由がない」
「でも、試験で手を抜いたのよ?」
「感心はしない」
「それはそうでしょうね……」
「ただ」
青は凛花を見る。
「その理由が、俺と同じ講習に行きたかったから、というのは……」
「というのは?」
「少し意外だった」
凛花は一瞬だけきょとんとして、それから顔を赤くした。
「そんなに真面目に受け取らないでくれる?」
「事実だろ」
「そうだけど」
「なら仕方ない」
「仕方なくないわよ……」
凛花が小さく呻くように言う。
それから、少しだけ照れたまま笑った。
「でも、よかった」
「何がだ」
「無駄じゃなかったみたいで」
青は短く息をつく。
「次は手を抜くな」
凛花が顔を上げる。
「凛花を超えるのが、今の俺の目標だから」
その言葉は、帰り道で聞いたときと同じはずなのに、今あらためて凛花の胸に深く落ちていく。
ライバルとして見ている。
追いかける相手として見ている。
そして、ちゃんと特別視している。
そう思える一言だった。
「……うん」
凛花は静かに頷いた。
その頷きには、嬉しさと、決意と、少しの照れが混ざっていた。
そして、ここで終われば綺麗だったのに、凛花はまだ少しだけ攻めた。
「じゃあ、青」
「なんだ」
「もし私が次も一位だったら、何かご褒美くれる?」
青は少しだけ目を瞬かせる。
「ご褒美?」
「ええ」
「なぜだ」
「モチベーション向上のためよ」
「凛花にそれが必要か?」
「必要かもしれないわ」
凛花はほんの少し意地悪そうに笑う。
普段の彼女からはあまり見ない表情だった。
青は少し考える。
「……何がいい」
「え?」
「ご褒美だろう」
「考えてくれるの?」
「お前が言い出したんだろう」
凛花は一瞬だけ固まり、それから慌てて視線を泳がせた。
「そ、そうだけど……」
「なら、先に内容を決めたほうが公平だ」
「公平って、そういう問題かしら……」
凛花は困ったように笑いながらも、どこか楽しそうだった。
少し迷ってから、そっと言う。
「……じゃあ、一緒に勉強してほしい」
「勉強?」
「ええ。二人で」
青はすぐに頷いた。
「それなら今でもできるだろ」
「そういうことじゃないの」
「違うのか」
「違うけれど、半分は合ってるわ」
「よくわからない」
「青にはまだ難しいかもしれないわね」
「そうか」
「そこはもう少し悔しがってもいいところよ」
凛花がくすっと笑う。
その笑い方は、病室で見せていた生徒会長の顔とも、学校での完璧な優等生の顔とも違っていた。
もっと年相応で、柔らかくて、少しだけ甘い。
「でも」
凛花が続ける。
「本当に、一緒に勉強したいわ」
「わかった」
「え」
「花火大会の前後で、時間が合えば」
「……そんなにあっさり」
「嫌なのか」
「嫌じゃないわ」
凛花は即答してから、今度は自分で照れた。
「嫌じゃない、どころか……」
「どころか?」
「そこは聞き流しなさい」
「そうか」
改札の向こうで、電車の到着音が鳴った。
そろそろ本当に時間らしい。
凛花は息を整えて、少しだけ背筋を伸ばした。
「じゃあ、今日はもう行くわ」
「ああ」
「青」
「なんだ」
「さっき言ったこと、忘れないで」
「どれだ」
「全部よ」
凛花が少しだけ睨むように言う。
「振り向いてほしい人の話も、夏期講習のことも、ご褒美のことも」
「覚えておく」
「本当に?」
「ああ」
青は迷いなく頷いた。
凛花はその答えに安心したように微笑む。
「なら、よかった」
それから、一歩だけ改札のほうへ向かった。
だが、すぐには行かず、もう一度だけ振り返る。
「あと」
「なんだ」
「結愛ちゃんのことは、あまり私の前で褒めすぎないで」
青は一瞬だけ黙った。
「……やっぱり嫉妬か」
「だから、真顔で言わないでって言ってるでしょう!」
凛花が小声で抗議する。
その反応があまりにもわかりやすくて、青は今度こそはっきりと口元を緩めた。
「わかった」
「ほんとに?」
「気をつける」
「……ならいいわ」
凛花は頬を赤くしたまま、ようやく改札の中へ入っていった。
その背中はどこか軽い。
今日、ずっと抱えていたものを少しだけ言葉にできたからだろうか。
青はしばらくその場に立っていた。
駅前のざわめきの中で、胸の奥に残るのは不思議な感覚だった。
陽葵のことを思えば、現実は決して軽くない。受験もある。病気もある。花火大会の約束も、まだ確かなものではない。
それでも。
凛花の言葉を聞いた今、ただ重いだけではなかった。
自分を見てくれている人がいる。
自分に振り向いてほしいと願ってくれている人がいる。
その事実は、思っていたよりも胸に残る。
青は改札の向こうを一度だけ見て、それから静かに歩き出した。
夜風が、少しだけ心地よかった。




