第35話 振り向いてほしい人(1)
# 第35話 振り向いてほしい人
駅前の灯りは、夕暮れの名残を少しずつ夜に溶かしていた。
改札へ向かう人の流れは途切れず、遠くから電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。コンビニの前では学生たちが笑い合い、車道にはヘッドライトの列が伸びていた。
そんな駅前の入口で、青と凛花は足を止めた。
「ここまででいいわ」
帰り道で交わした重い話のあとだったからか、最初の沈黙は少しだけ長かった。
けれど、不思議と苦ではない。
青の中にはまだ、さっき凛花に話した言葉の感触が残っていた。
陽葵のこと。
東都大学医学部を目指す理由。
間に合うかどうかという、不安。
ああいう話を誰かにしたのは、たぶん久しぶりだった。
しかも相手が凛花だったことに、自分でも少し驚いている。
凛花も同じなのか、すぐには改札へ向かわず、バッグの持ち手を両手で握ったまま、少しだけ青を見上げていた。
「青」
「なんだ」
「……さっきは、ごめんなさい」
「何がだ」
「いろいろ聞きすぎたかもしれないって、少し思ったの」
青は首を横に振る。
「気にするな」
その一言に、凛花の表情が少しだけ和らいだ。
「そう」
「むしろ……」
そこで青は少し言葉を止めた。
むしろ、話せてよかった。
そう思っている。
だが、そのまま口に出すには、まだ少し照れくさい。
凛花が小さく首を傾げた。
「むしろ?」
「いや」
「今のは『いや』じゃごまかせないわよ」
さっきまで重い話をしていた相手とは思えないくらい、凛花の返しが少し柔らかかった。
青は小さく息をつく。
「……話せてよかった」
短く言う。
けれど、それで十分だったらしい。
凛花はわずかに目を見開いてから、ふっと笑った。
「私も」
夜の手前の、やわらかな空気。
重い話の余韻はまだ残っている。だが、その上に少しずつ、別の温度が重なり始めていた。
ふと、凛花が視線を逸らしながら言う。
「……でも」
「なんだ」
「結愛ちゃんのこと、ずいぶん褒めていたわね」
青は一瞬だけ目を瞬かせた。
「さっきの話か」
「さっきの話よ」
「一般論だ」
「その一般論が、妙に具体的だったのよ」
凛花は平静を装っているようで、少しだけ唇を尖らせている。
それが珍しくて、青は思わず凛花の横顔を見た。
「一緒にいて飽きない、とか」
「事実だろ」
「家庭的、とか」
「事実だ」
「いいお嫁さんになる、とか」
「それも事実だと思う」
そこまで言ってから、青はようやく気づいた。
これはただ確認しているのではなく、少し拗ねているのではないか、と。
「……なんだ」
「なによ」
「いや、凛花がそういう言い方をするのは珍しいと思って」
「そうかしら」
「そうだ」
凛花は少しだけ視線を彷徨わせ、それから小さくため息をついた。
「だって、気になるもの」
「何がだ」
「……何が、って」
凛花がそこで言葉に詰まる。
そして、ほんのわずかに頬を染めた。
「私が、さっき何を言ったと思っているの」
その一言で、青の思考も少し止まった。
さっきの話。
私の振り向いてほしい人は、青、あなたなの。
その言葉が、改めて胸の奥に落ちてくる。
「……悪い」
「別に謝ってほしいわけじゃないの」
凛花はそう言ってから、今度は少しだけ困ったように笑った。
「ただ、あまりにも自然に結愛ちゃんを褒めるから、ちょっとだけ複雑だっただけ」
「複雑?」
「そうよ」
「なぜだ」
「そこを説明させるの?」
凛花がじっと見る。
青は数秒考えてから答えた。
「……もしかして、嫉妬か」
今度は凛花のほうが止まった。
夜風が、二人の間をすっと通り抜ける。
「青」
「なんだ」
「そういうことを、そんなに真顔で言わないで」
「違ったのか」
「違わないけれど!」
思わず声を上げてから、凛花ははっとして周囲を見た。近くを通った高校生らしい二人組が、少しだけこちらを見る。
凛花は耳まで赤くして、一歩だけ青から離れた。
「……もう」
その反応に、青は少しだけ困る。
自分は何かまずいことを言ったのだろうか。
だが、凛花の様子を見ていると、怒っているわけではないらしい。
むしろ、かなり動揺している。
「凛花」
「なに」
「怒ってるのか」
「怒ってはいないわ」
「そうか」
「ただ……青は、たまに不意打ちがひどいのよ」
「不意打ち?」
「そう」
凛花はこほんと咳払いして、少しだけ体勢を立て直した。
「でも、安心したわ」
「安心?」
「結愛ちゃんのことを、そういう意味で言っていたわけじゃないんでしょう?」
「ああ」
「ならいいの」
その返答はやけに素直で、青のほうが少し意外に思う。
凛花は自分で言ってから、さらに頬を赤くした。
「……何その顔」
「いや」
「また『いや』?」
「凛花が、思ったよりわかりやすいなと思って」
「わ、わかりやすくなんてないわ」
「今はかなりわかりやすい」
「青にだけは言われたくない」
それはその通りかもしれない。
青が返答に困っていると、改札前の電光掲示板に、凛花が乗る路線の発車時刻が表示された。
まだ数分ある。
だが、その数分が妙に大きく感じられた。
「……あのね」
凛花がもう一度、少し落ち着いた声で言った。
「さっきの続き、してもいいかしら」
「続き?」
「ええ」
凛花は視線をまっすぐ青へ向けた。
「私が、どうしてあなたに振り向いてほしかったのか」
青は黙って頷いた。




