第33話 約束の花火大会(2)
その結果。
「違う。俺は年上派だ」
言ったあとで、青は止まった。
自分が何を言ったのか理解するまで、一瞬かかった。
病室も止まっていた。
結愛が固まる。
紬が目を丸くする。
陽葵はぽかんと口を開けている。
凛花ですら、さすがに無反応ではいられなかった。
「……え?」
最初に声を出したのは結愛だった。
「青、今なんて?」
「いや」
「『俺は年上派だ』って言ったよね?」
「……言ったかもしれない」
「言ったよ!」
陽葵が食い気味に叫ぶ。
「お兄ちゃん、そうなの!? 年上好きなの!?」
「えっと……」
紬はわかりやすくしゅんとした。
「私は年下です……」
「いや、そういう話じゃない」
「でも年上派なんですよね……」
「だから違う」
青は即座に訂正した。
「冗談だ」
言い切る。
しかし、言い切るには少し遅かった。
結愛がじとっとした目を向ける。
「絶対冗談じゃない間があったでしょ、今」
「なかった」
「ありました」
紬が小さく手を挙げた。
「本音っぽかったです」
「紬」
「すみません」
まったく反省していない顔である。
陽葵はにまにまと青を見ていた。
「へえー……」
「なんだ、その顔は」
「別にー?」
「陽葵」
「でも意外。お兄ちゃん、そういう好みの話とか全然しなさそうなのに」
その言葉に、凛花が静かに視線を落とした。
そして、ほんの少しだけ間を置いて言う。
「……初耳ね」
短い一言。
けれど、その一言だけで十分に破壊力があった。
青はますます居心地が悪くなる。
結愛が面白がるように身を乗り出した。
「ねえねえ青、どんな感じの年上がいいわけ?」
「知らん」
「いや自分で言ったんでしょ!」
「冗談だと言った」
「じゃあ年下もいける?」
「そういう話じゃない」
「年上も年下もダメってこと?」
「そうじゃなくて――」
「お兄ちゃん、まさか同級生興味ない感じ?」
陽葵まで混ざってきた。
病室の中で質問が四方八方から飛んでくる。
青はわずかに眉をひそめた。
「……そんなことより」
「逃げた」
結愛が即座に言う。
「逃げてない」
「逃げてます」
紬も続く。
「きれいに逃げたわね」
凛花まで言った。
陽葵は堪えきれずに笑い出す。
「お兄ちゃん、弱ーい」
「弱くない」
「今のは弱いよ」
結愛がにやにやしながら言う。
青は一拍置いてから、強引に話題を変えた。
「……外出許可は出そうなのか」
その言葉で、病室の空気が少しだけ落ち着いた。
陽葵も笑みを少し引っ込めて、ベッドのシーツの端を指先でつまむ。
「うん……たぶん」
さっきまでの軽やかな声とは少し違う。
「一日だけなら、大丈夫だと思う」
思う。
その言い方に、青は小さく目を細めた。
確定ではないのだろう。担当医の判断もあるし、そのときの体調もある。外出は、本人の気持ちだけで決められるものではない。
楽しい約束の輪郭に、現実の影が少しだけ差した。
その空気を察して、凛花がやわらかく声をかける。
「陽葵ちゃん」
「うん?」
「無理はしないでね」
凛花の声は静かだったが、とても優しかった。
「花火大会は楽しみだけれど、体調のほうが大事よ」
結愛もすぐに続く。
「そうそう。しんどかったら、遠慮なくなしでいいからね? 約束破りとか思わないし」
「はい」
紬もこくりと頷いた。
「私もそう思います。約束より、陽葵ちゃんが元気なほうが大事です」
陽葵は三人の顔を順番に見た。
少しだけ目を丸くして、それからふっと笑う。
「……ありがとう」
その笑顔は、さっきまでの無邪気さとは少し違った。
嬉しさと、照れと、少しの安心が混ざったような顔だった。
青はその表情を見て、胸の内で小さく息をつく。
連れてきてよかった。
本当に、そう思った。
すると陽葵が、今度は少しだけ明るい声で言った。
「でも、もし行けたら、浴衣着たいな」
「あー、いいじゃん!」
結愛がぱっと顔を輝かせる。
「陽葵ちゃん、絶対似合うって」
「髪も長いですし、きっと可愛いです」
紬も笑顔になる。
凛花は陽葵の茶色い長い髪を見て、納得したように頷いた。
「ええ。髪留めも似合いそう。夏らしいものをつけたら、きっと綺麗ね」
「ほんと!?」
「ほんとよ」
陽葵の目が輝く。
そして、そんな盛り上がりの中で青だけが現実的なことを言った。
「浴衣は暑いだろ」
一瞬、全員が黙った。
それから、綺麗にそろってツッコミが入る。
「そこ!?」
結愛、紬、陽葵の三人が見事に重なった。凛花も遅れて小さく吹き出す。
青は少しだけ眉を寄せた。
「いや、事実だろ」
「そういう問題じゃないの!」
陽葵が呆れたように言う。
「お兄ちゃん、たまには雰囲気ってものを大事にしようよ」
「雰囲気で体調は管理できない」
「うわ、正論で殴ってきた」
結愛が肩を落としたふりをする。
紬はくすくすと笑いながら言った。
「でも、青先輩らしいです」
「そうね」
凛花も穏やかに頷く。
「こういうところが、いかにも青だわ」
なぜか全員に納得されて、青は少しだけ複雑な気分になった。
それでも、また病室に笑いが戻る。
陽葵の笑顔も、しっかりそこにあった。
しばらくして、看護師が一度顔を出し、そろそろ夕方の処置の時間が近いことをやんわりと伝えていった。
それで本当に帰る流れになる。
青は持ってきた荷物をまとめ、空になった飲み物の容器を片付ける。
凛花は窓辺に飾った花の位置を少し整えた。
「光が当たりすぎないように、少しこちらのほうがいいわね」
「ほんとだ。ありがとう、凛花さん」
「どういたしまして」
結愛はフルーツのケースを指差した。
「これ、ちゃんと食べなよ? 特に桃」
「うん、食べる!」
「よし」
紬はベッド脇の本を見て、少しだけ首を傾げた。
「もし難しかったら、無理して読まなくていいからね」
「ううん、読みたい。あとで読む」
「よかったぁ」
紬が安心したように笑う。
そうして見ると、ほんの数時間前までは初対面だったとは思えないほど、三人とも自然にこの病室に馴染んでいた。
陽葵もそれぞれに違う顔を見せている。
結愛には、すっかり懐いたようなくだけた笑顔。
凛花には、少し背筋を伸ばすような丁寧さ。
紬には、同い年らしい親しみの混じった明るさ。
その違いが見えるたびに、青は妙な気持ちになった。
自分の知らないところで、陽葵の世界が少し広がったようにも思えたからだ。
「じゃあ」
荷物を持った青が言う。
「また来る」
陽葵は一瞬だけ、さっきと同じような寂しさを目に浮かべた。
けれど今度は、それをすぐに笑顔で包む。
「うん」
それから、少しだけいたずらっぽく言った。
「次は花火大会の相談、ちゃんと進めといてね」
「任せなさい」
結愛がすぐに胸を張る。
「屋台の研究もしとく」
「研究って何だよ」
「大事でしょ、屋台は」
紬も楽しそうに手を合わせた。
「私、浴衣どうしようかな……」
「もうその話してるの?」
結愛が笑う。
凛花も、どこか穏やかな表情で言った。
「ええ、また来るわ」
青は短く頷いた。
「体調を見てからだ」
「わかってるよ」
陽葵はそう言って、ふっと笑う。
「それでも、約束があるだけで嬉しいから」
その言葉に、青は何も返せなかった。
結愛も紬も、凛花も、一瞬だけ言葉を失う。
病室の静けさが、今度は嫌なものではなく、温かいものとしてそこにあった。
青たちが扉のほうへ向かう。
そこで陽葵がふいに呼んだ。
「お兄ちゃん」
青が振り返る。
「なんだ」
陽葵はベッドの上で、まっすぐに青を見ていた。
さっきまで笑っていた顔とは少し違う。
でも、沈んでいるわけでもない。
ただ、ちゃんと伝えたいことがある顔だった。
「今日は、すごく楽しかった」
それだけだった。
短い言葉。
けれど青には、それで十分だった。
陽葵が、あんなふうに笑っていた理由が、全部その一言に入っている気がした。
青は少しだけ目を細める。
「……そうか」
「うん」
陽葵が頷く。
「また来てね」
「ああ」
青はそれだけ答えた。
それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。
◇
病室を出ると、廊下は少し静かだった。
さっきまでの笑い声が遠のいて、代わりに病院特有の落ち着いた空気が戻ってくる。エレベーターへ向かう足音が、白い床に小さく響いた。
結愛も紬も、さっきまでより少しだけ声を落としている。凛花は手元のバッグを持ち直しながら、何かを考えるように目を伏せていた。
青は歩きながら、ふと後ろを振り返りそうになった。
けれど振り返らなかった。
見なくてもわかる。
きっと陽葵は、また笑って手を振っている。
エレベーターに乗り、ロビーへ下りる。
正面玄関を抜けると、外の空気は昼間より少しだけやわらかくなっていた。
夕方の風が吹く。
青は立ち止まって、病院の建物を見上げた。
陽葵のいる部屋の窓がどこかはわかっている。けれど、ここから見ても、その姿は見えない。
それでも。
今日、陽葵が笑っていたこと。
楽しそうにしていたこと。
花火大会の約束ができたこと。
それだけで、この一日は十分意味があったと思えた。
もちろん、約束はまだ決まったわけではない。
外出許可が出るかどうかも、その日の体調もある。
無理はさせられない。
だが、それでも——。
花火大会。
本当に行けるなら、それがいいと思った。
陽葵が、あんなふうに笑っていたから。
夕暮れの空を見上げながら、青は静かにそう思った。




