第32話 妹・陽葵登場(2)
三人も一斉に青を見る。
結愛は頬を引きつらせながらも興味津々で、凛花は表情を保っているようで耳が少し赤い。紬は期待と緊張が混ざったような顔でじっと見つめている。
病室の空気が妙に静かになった。
「……本命ってなんだ」
「とぼけないでよ、お兄ちゃん」
「とぼけてない」
「じゃあ誰が一番特別なの?」
「そういうのはない」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「へえー」
陽葵の目が完全に疑っている。
結愛が咳払いした。
「ちょ、ちょっと陽葵ちゃん? 初対面でそこまで聞く?」
「だって気になるじゃないですか」
「それはそうだけど!」
凛花も平静を装いながら口を開く。
「陽葵さん、その質問は少し青には難易度が高いわ」
「難易度?」
「恋愛に関する理解が……その、致命的に低いから」
「凛花、ひどくない?」
「事実よ」
紬もこくこく頷く。
「青先輩、そういうの本当に鈍いですからね」
「紬まで」
「え、じゃあみんなお兄ちゃんに振り回されてる感じ?」
その言葉に三人がぴたりと止まる。
青は嫌な予感を強くした。
陽葵は楽しそうに笑った。
「なるほどねー」
「何を納得した」
「いろいろ」
「答えになってない」
「お兄ちゃんも答えてないからおあいこだよ」
青は言い返せず、視線を逸らした。
結愛がそれを見て、肩を震わせる。
「やば。青、押されてんじゃん」
「身内だからな」
「へえ、青って身内には弱いんだ」
「……別に弱くない」
「今のちょっと弱かったよ?」
結愛がからかうように笑う。
そのまま病室の空気は和んでいったが、外から歩いてきた熱気もまだ残っていて、しばらくすると結愛がうちわ代わりに手で首元をあおいだ。
「うー、やっぱ暑い。病院入って涼しくなったけど、ここまで歩いた分がまだ残ってる」
「わかります……」
紬も小さく頷く。
陽葵が二人を見て笑った。
「暑かったでしょ。上着脱いでも大丈夫だよ?」
「いいの?」
「うん。ここ私しかいないし」
「じゃ、お言葉に甘えて」
結愛が薄手のパーカーのファスナーを下ろし、さっと脱いだ。
中から現れたのは白いタンクトップ。肩や鎖骨がすっきり見えて、スポーティで健康的な色気がある。肌見せは多すぎないのに妙に目を引くのは、結愛の明るい空気と抜群のスタイルが合わさっているせいだろう。
「ふー、生き返る」
そう言って髪をかき上げる仕草が、やけに絵になる。
続けて紬も遠慮がちにカーディガンを脱いだ。
「私も、ちょっとだけ……」
下は白のキャミソール。肩紐は細く、ふんわりした雰囲気と相まって妙に危うい。しかも紬の場合、柔らかな体つきの主張が強く、青は反射的に目を逸らした。
逸らしたはずなのに、一瞬見えてしまった情報が頭に残る。
「……」
結愛がにやりとした。
「なに?」
「別に」
「今、見たよね?」
「見てない」
「絶対見た!」
紬も首を傾げる。
「青先輩?」
「何だ」
「少し顔、赤いですよ?」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないと思います」
凛花はそんなやり取りを見ながら、手元のカーディガンの裾をぎゅっとつまんでいた。
ほんの少しだけ、胸の奥が落ち着かない。
結愛と紬が上着を脱いで、青がわかりやすく動揺した。そこに気づいてしまったせいで、自分だけ何もしていないことが妙に意識に上ってしまう。
もちろん、ここで同じように脱ぐつもりはない。病院という場所でもあるし、そもそも自分はそういうことを張り合う性格ではない。
——ない、はずなのに。
陽葵はその微妙な空気を見逃さなかった。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「思春期だね」
一瞬で病室が静まり、そのあと結愛が吹き出した。
「ははっ、言われてるし!」
紬も手で口元を隠して笑う。
「ふふ……」
凛花は視線を逸らしつつも、肩が小さく揺れていた。
青だけが真顔のまま答える。
「違う」
「違わないよー」
「違う」
「じゃあ今のは何?」
「暑かっただけだ」
「病室涼しいよ?」
「……陽葵」
「はーい」
陽葵は素直に返事をしながら、全然反省していない顔だった。
病室に笑いが広がる。
青は小さく息を吐いた。
騒がしい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、こんなふうに陽葵が遠慮なく笑って、誰かとすぐ打ち解けているのを見ていると、それだけでこの日連れてきてよかったと思えた。
「そうだ、お兄ちゃん」
陽葵がふと思い出したように言う。
「飲み物ほしい。みんなの分も」
「何がいい」
「私はりんごジュース」
「私は麦茶ー」
結愛がすぐに手を挙げる。
「私はお水で大丈夫です」
紬が控えめに言う。
「私は……」
凛花が少し迷う。
「オレンジジュース」
「わかった」
青は立ち上がった。
その瞬間、陽葵がいたずらっぽく目を輝かせる。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「戻ってくるまでに、本命決めといてね」
「決めない」
「逃げた」
「逃げてない。買いに行くだけだ」
「そのタイミングが逃げなの!」
青は返事をせず、財布だけ持って病室を出た。
扉が閉まる。
数秒の静寂。
そして次の瞬間、病室の中で四人の笑い声が重なった。
「逃げたね」
陽葵が断言する。
「うん、逃げたわね」
結愛が即答した。
「見事に逃げました」
紬もくすっと笑う。
凛花は少しだけ口元を緩めた。
「青にしてはわかりやすかったわ」
そこから、女子だけの時間が始まった。
◇
自販機の前で飲み物を選びながら、青は無意識に病室の方向を見ていた。
別に心配しているわけではない。
ただ、陽葵が三人に変なことを言っていないかだけが少し気になる。
いや、少しではないかもしれない。
りんごジュース、麦茶、水、オレンジジュース、自分の分のブラックコーヒー。
五本を袋に入れて戻る途中、廊下の向こうから、かすかに笑い声が聞こえた。
陽葵の声だ。
その中に結愛の明るい笑い声、紬の柔らかな笑い声、凛花の控えめな笑い声も混ざっている。
青は足を止めた。
笑っている。
それだけのことなのに、胸の奥にじわりと熱が広がる。
最近、陽葵があそこまで声を上げて笑うのを、いつ見ただろう。
青は少しだけ視線を落としてから、病室の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん!」
真っ先に反応した陽葵は、さっきよりもさらに機嫌がよさそうだった。
結愛は笑いすぎたのか目尻に涙をためている。
「やばい、青。結愛さんの話おもしろすぎ」
「何の話だ」
「学校だと、お兄ちゃんそんなキャラなんだね!」
「どんなだ」
「『別に』『そうか』『問題ない』ばっかり言ってるって!」
陽葵が身振りまでつけて真似をする。
結愛がさらに笑った。
「しかもさー、絶妙に女子を勘違いさせること言うくせに、本人だけ全然わかってないの」
「それは青先輩らしいですね」
紬も楽しそうに頷く。
「昨日も講習のあと、私が少し疲れてたら、青が『無理はするな。送る』って……」
凛花が静かに付け足す。
「それをあの顔で、何の含みもなく言うのよ」
陽葵がぱちぱちと瞬きをしたあと、満面の笑みになった。
「えっ、お兄ちゃん、それモテる人の言動じゃん!」
「違う」
「違わないよ!」
青は呆然としたまま飲み物を配った。
「りんごジュース」
「ありがと」
「麦茶」
「はーい」
「水」
「ありがとうございます」
「オレンジジュース」
「ええ」
最後に自分のコーヒーを持ったまま、青は小さく息をつく。
「数分でずいぶん仲良くなったな……」
その呟きに、陽葵がにっと笑う。
「みんな優しいもん」
「それに、青の話題が強かったのよ」
結愛が肩をすくめる。
「青先輩、学校だと割とネタに困りませんし」
「不本意だ」
「でも、ほんとに」
凛花が陽葵を見る。
「陽葵さんが楽しそうでよかった」
その言葉に、陽葵は少しだけ目を丸くした。
それからふわっと笑う。
「うん。すごく楽しい」
まっすぐな声だった。
青はその横顔を見る。
頬が少し赤い。さっきまで大笑いしていた名残だろう。けれどその表情は、病室にいることを忘れそうになるほど明るい。
陽葵がこんなふうに笑っているのを見られるなら、この騒がしさも悪くない。
そう思ったときだった。
陽葵が急に真面目な顔をして、三人を順番に見た。
「じゃあ、せっかくだから聞いていい?」
その声色の変化に、結愛が少し身構える。
「な、何?」
「みんな、お兄ちゃんのことどう思ってるの?」
「ぶっ」
結愛が盛大にむせた。
「陽葵ちゃん!?」
「だって気になる!」
「気になるけど、聞き方が直球すぎるの!」
紬もあわあわし始める。
「わ、私ですか!? え、えっと、その……優しい、です……」
「それだけ?」
「か、かっこいいです……」
「うんうん」
陽葵が満足そうに頷く。
次に視線が結愛へ向いた。
「結愛さんは?」
「え、あたし!? いや、その……青は、まあ、頼れるし?」
「うん」
「ちゃんとしてるし?」
「うんうん」
「……優しいし」
「うんうんうん」
「顔もいいし」
「へえー」
「待って、今のなし!」
結愛が耳まで赤くして叫ぶ。陽葵は楽しそうに笑いながら、最後に凛花を見る。
「凛花さんは?」
凛花は一瞬だけ言葉を失った。
だが、逃げることはしなかった。
「青は……」
静かな声。
「とても誠実な人よ」
結愛も紬も、そして陽葵も、自然と口を閉じる。
「誰かが困っていたら放っておけないのに、自分がしたことは大したことじゃないと思っている。そういうところを、私は尊敬しているわ」
真っ直ぐで、飾りのない言葉だった。
青はコーヒーの缶を持ったまま、わずかに目を見開く。
自分の知らないところで、こんなふうに見られていたのかと思うと、落ち着かない。
陽葵はそんな兄の反応も見逃さず、にっこり笑った。
「そっか」
その一言だけで、なぜか全部わかった顔をする。
「陽葵」
「なに?」
「その顔をやめろ」
「やだ」
「即答だな」
「だって面白いもん」
病室の中にまた笑いが広がる。
青は再びため息をついたが、それでもさっきよりずっと穏やかな気分だった。
窓の外では、真夏の陽射しがまだ強い。
けれど病室の中には、それとは違う温かさが満ちていた。
陽葵が笑っている。
結愛も、凛花も、紬も笑っている。
それを見ているだけで、青の胸の奥にあった張り詰めたものが、少しだけほどけていく。
——陽葵が、あんなふうに笑うのを見たのは、久しぶりな気がした。
青は誰にも聞こえないほど小さく息をつき、手の中の缶コーヒーを見下ろした。
騒がしい。
でも、悪くない。
むしろ——たぶん、すごくいい日だった。
そう思った。




