第33話 約束の花火大会
# 第33話 約束の花火大会
笑い声の余韻が、まだ病室の中に残っていた。
窓の外では、八月の夕方の光がゆっくりと色を変え始めている。昼間の強い日差しは少しずつ和らぎ、白いカーテンの端がオレンジ色に染まっていた。
さっきまで陽葵は、結愛の話に大笑いしていた。
紬の持ってきた本をぱらぱらと眺めて、凛花の花を何度も見て、そのたびに嬉しそうに目を細めていた。
そんな時間も、もう終わりに近づいている。
青は壁の時計を見上げた。
「陽葵」
呼びかけると、ベッドの上の陽葵がすぐにこちらを見た。
「ん?」
「じゃあ、そろそろ俺たちは帰る」
その言葉に、陽葵の表情がほんの少しだけ止まった。
笑っていた口元が、わずかにしぼむ。
「……うん」
短い返事だった。
声は明るさを保っていたが、さっきまでの弾みはない。
青はその違いに気づいた。
本当なら、もっと話していたいのだろう。
もっと一緒にいたいのだろう。
だが、長居はさせられない。陽葵は楽しそうにしていても、疲れないわけではない。病院には病院の時間がある。
それはわかっている。
わかっているが、その少し寂しそうな返事を聞くと、胸の奥が小さく重くなった。
病室の空気が、ほんの少し静かになった。
その空気を変えたのは、やはり結愛だった。
「じゃあ次は、花火大会かね!」
ぱん、と手を打つような明るい声。
陽葵が顔を上げる。
紬も「おお」と小さく声を漏らし、凛花が目を瞬かせた。
そして青だけが、少し遅れて反応した。
「……花火大会?」
「そう」
結愛が、いかにも当然という顔で頷く。
「さっきみんなで話してたじゃん。ねー、陽葵ちゃん」
「うん!」
陽葵は一気に表情を明るくした。
「さっき約束したの。今度、花火大会行こうって」
「約束?」
青は眉をわずかに寄せる。
そんな約束は聞いていない。
その顔を見て、紬が少し肩をすくめた。
「えへへ……お話してたら、そういう流れになっちゃって」
「勝手だったかしら」
凛花が静かに言う。少し気にしているようだった。
だが陽葵は、そんなことは気にもしていない様子で続ける。
「ほんとはね、海にも行ってみたいんだけど」
そこまで言ってから、陽葵はちらっと青を見た。
「お兄ちゃん、絶対反対すると思って」
「当然だ」
即答だった。
一秒の迷いもなかった。
結愛が目を丸くする。
「うわ、即答」
紬も苦笑する。
「迷いがないですね……」
凛花は小さく息をついた。
「予想はしていたけれど、本当に早いわね」
陽葵は半分呆れたように頬を膨らませた。
「ほらね」
青は平然とした顔で言う。
「海は日差しが強い。人も多いし、体力も使う。今の陽葵には負担が大きい」
「う……」
「それに暑い」
「それは花火大会も暑いよ?」
「海ほどではない」
理屈としてはもっともだった。
少なくとも、兄としての判断としては。
だが、青はそこで一瞬だけ言いよどんだ。
「それに……」
「それに?」
陽葵が首を傾げる。
結愛がにやにやしながら先を待っている。
青はごくわずかに視線を逸らした。
「水着を着ないといけないし」
病室の空気が止まった。
一拍。
二拍。
最初に吹き出したのは結愛だった。
「なにそれ!」
腹を抱えるように笑いながら、結愛が青を見る。
「陽葵ちゃんの水着姿、他の男に見せたくないとか?」
「えーっ!?」
陽葵が目を丸くする。
「お兄ちゃん、そういう感じなの!?」
「違う」
青は即答した。
だが、今度の即答はさっきほど切れがよくなかった。
紬がふわっと笑う。
「青先輩、わかりやすいです」
「わかりやすくない」
「そうですか?」
紬はきょとんとしながらも、どこか楽しそうだった。
凛花も口元を隠して小さく笑う。
「少なくとも、海に反対する最後の理由としては、ずいぶん個人的ね」
「個人的じゃない。一般論だ」
「どこの一般論よ」
結愛がすかさずツッコむ。
「いやー、でもこれは重症だわ」
「重症?」
陽葵が問うと、結愛は大きく頷いた。
「うん。シスコン」
「違う」
また青が言い切る。
「違わないと思います」
今度は紬が、穏やかな笑顔で追撃した。
「青先輩、かなりシスコン寄りですよ」
「寄りってなんだ」
「かなりはかなりです」
「意味がわからない」
「お兄ちゃん、シスコンなの?」
陽葵が興味津々で身を乗り出す。
「違う」
「じゃあ、なんでそんなに海ダメなの?」
「危ないからだ」
「あと水着?」
「……それも含む」
「含むんだ」
結愛が楽しそうに笑う。
「やっぱ相当じゃん」
青はため息をついた。
「お前ら、面白がりすぎだろ」
「だって面白いし」
「面白いですね」
「ええ、とても」
結愛、紬、凛花の三人が見事に足並みを揃えた。
青はわずかにこめかみを押さえる。
陽葵はそのやり取りを見て、くすくすと笑っていた。
寂しそうな表情は、もうどこにもない。
それならそれでいい。
青がそう思いかけたところで、紬がまた悪気のない顔で口を開いた。
「じゃあ、青先輩は年下好きなんですか?」
結愛がぴくっと反応する。
「ちょ、紬ちゃん、その質問は……」
だが、すでに遅かった。
陽葵の目がきらりと輝く。
「たしかに! お兄ちゃん、どうなの?」
「どうってなんだ」
「だから、年下が好きなの?」
青は反射的に否定しようとした。
さっきからシスコンだの何だの好き勝手言われている。変な方向に話が転がる前に、きっぱり違うと言っておきたかった。
その結果。
「違う。俺は年上派だ」
言ったあとで、青は止まった。
自分が何を言ったのか理解するまで、一瞬かかった。
病室も止まっていた。
結愛が固まる。
紬が目を丸くする。
陽葵はぽかんと口を開けている。
凛花ですら、さすがに無反応ではいられなかった。
「……え?」
最初に声を出したのは結愛だった。
「青、今なんて?」
「いや」
「『俺は年上派だ』って言ったよね?」
「……言ったかもしれない」
「言ったよ!」
陽葵が食い気味に叫ぶ。
「お兄ちゃん、そうなの!? 年上好きなの!?」
「えっと……」
紬はわかりやすくしゅんとした。
「私は年下です……」
「いや、そういう話じゃない」
「でも年上派なんですよね……」
「だから違う」
青は即座に訂正した。
「冗談だ」
言い切る。
しかし、言い切るには少し遅かった。
結愛がじとっとした目を向ける。
「絶対冗談じゃない間があったでしょ、今」
「なかった」
「ありました」
紬が小さく手を挙げた。
「本音っぽかったです」
「紬」
「すみません」
まったく反省していない顔である。
陽葵はにまにまと青を見ていた。
「へえー……」
「なんだ、その顔は」
「別にー?」
「陽葵」
「でも意外。お兄ちゃん、そういう好みの話とか全然しなさそうなのに」
その言葉に、凛花が静かに視線を落とした。
そして、ほんの少しだけ間を置いて言う。
「……初耳ね」
短い一言。
けれど、その一言だけで十分に破壊力があった。
青はますます居心地が悪くなる。
結愛が面白がるように身を乗り出した。
「ねえねえ青、どんな感じの年上がいいわけ?」
「知らん」
「いや自分で言ったんでしょ!」
「冗談だと言った」
「じゃあ年下もいける?」
「そういう話じゃない」
「年上も年下もダメってこと?」
「そうじゃなくて――」
「お兄ちゃん、まさか同級生興味ない感じ?」
陽葵まで混ざってきた。
病室の中で質問が四方八方から飛んでくる。
青はわずかに眉をひそめた。
「……そんなことより」
「逃げた」
結愛が即座に言う。
「逃げてない」
「逃げてます」
紬も続く。
「きれいに逃げたわね」
凛花まで言った。
陽葵は堪えきれずに笑い出す。
「お兄ちゃん、弱ーい」
「弱くない」
「今のは弱いよ」
結愛がにやにやしながら言う。
青は一拍置いてから、強引に話題を変えた。
「……外出許可は出そうなのか」
その言葉で、病室の空気が少しだけ落ち着いた。
陽葵も笑みを少し引っ込めて、ベッドのシーツの端を指先でつまむ。
「うん……たぶん」
さっきまでの軽やかな声とは少し違う。
「一日だけなら、大丈夫だと思う」
思う。
その言い方に、青は小さく目を細めた。
確定ではないのだろう。担当医の判断もあるし、そのときの体調もある。外出は、本人の気持ちだけで決められるものではない。
楽しい約束の輪郭に、現実の影が少しだけ差した。
その空気を察して、凛花がやわらかく声をかける。
「陽葵ちゃん」
「うん?」
「無理はしないでね」
凛花の声は静かだったが、とても優しかった。
「花火大会は楽しみだけれど、体調のほうが大事よ」
結愛もすぐに続く。
「そうそう。しんどかったら、遠慮なくなしでいいからね? 約束破りとか思わないし」
「はい」
紬もこくりと頷いた。
「私もそう思います。約束より、陽葵ちゃんが元気なほうが大事です」
陽葵は三人の顔を順番に見た。
少しだけ目を丸くして、それからふっと笑う。
「……ありがとう」
その笑顔は、さっきまでの無邪気さとは少し違った。
嬉しさと、照れと、少しの安心が混ざったような顔だった。
青はその表情を見て、胸の内で小さく息をつく。
連れてきてよかった。
本当に、そう思った。
すると陽葵が、今度は少しだけ明るい声で言った。
「でも、もし行けたら、浴衣着たいな」
「あー、いいじゃん!」
結愛がぱっと顔を輝かせる。
「陽葵ちゃん、絶対似合うって」
「髪も長いですし、きっと可愛いです」
紬も笑顔になる。
凛花は陽葵の茶色い長い髪を見て、納得したように頷いた。
「ええ。髪留めも似合いそう。夏らしいものをつけたら、きっと綺麗ね」
「ほんと!?」
「ほんとよ」
陽葵の目が輝く。
そして、そんな盛り上がりの中で青だけが現実的なことを言った。
「浴衣は暑いだろ」
一瞬、全員が黙った。
それから、綺麗にそろってツッコミが入る。
「そこ!?」
結愛、紬、陽葵の三人が見事に重なった。凛花も遅れて小さく吹き出す。
青は少しだけ眉を寄せた。
「いや、事実だろ」
「そういう問題じゃないの!」
陽葵が呆れたように言う。
「お兄ちゃん、たまには雰囲気ってものを大事にしようよ」
「雰囲気で体調は管理できない」
「うわ、正論で殴ってきた」
結愛が肩を落としたふりをする。
紬はくすくすと笑いながら言った。
「でも、青先輩らしいです」
「そうね」
凛花も穏やかに頷く。
「こういうところが、いかにも青だわ」
なぜか全員に納得されて、青は少しだけ複雑な気分になった。
それでも、また病室に笑いが戻る。
陽葵の笑顔も、しっかりそこにあった。
しばらくして、看護師が一度顔を出し、そろそろ夕方の処置の時間が近いことをやんわりと伝えていった。
それで本当に帰る流れになる。
青は持ってきた荷物をまとめ、空になった飲み物の容器を片付ける。
凛花は窓辺に飾った花の位置を少し整えた。
「光が当たりすぎないように、少しこちらのほうがいいわね」
「ほんとだ。ありがとう、凛花さん」
「どういたしまして」
結愛はフルーツのケースを指差した。
「これ、ちゃんと食べなよ? 特に桃」
「うん、食べる!」
「よし」
紬はベッド脇の本を見て、少しだけ首を傾げた。
「もし難しかったら、無理して読まなくていいからね」
「ううん、読みたい。あとで読む」
「よかったぁ」
紬が安心したように笑う。
そうして見ると、ほんの数時間前までは初対面だったとは思えないほど、三人とも自然にこの病室に馴染んでいた。
陽葵もそれぞれに違う顔を見せている。
結愛には、すっかり懐いたようなくだけた笑顔。
凛花には、少し背筋を伸ばすような丁寧さ。
紬には、同い年らしい親しみの混じった明るさ。
その違いが見えるたびに、青は妙な気持ちになった。
自分の知らないところで、陽葵の世界が少し広がったようにも思えたからだ。
「じゃあ」
荷物を持った青が言う。
「また来る」
陽葵は一瞬だけ、さっきと同じような寂しさを目に浮かべた。
けれど今度は、それをすぐに笑顔で包む。
「うん」
それから、少しだけいたずらっぽく言った。
「次は花火大会の相談、ちゃんと進めといてね」
「任せなさい」
結愛がすぐに胸を張る。
「屋台の研究もしとく」
「研究って何だよ」
「大事でしょ、屋台は」
紬も楽しそうに手を合わせた。
「私、浴衣どうしようかな……」
「もうその話してるの?」
結愛が笑う。
凛花も、どこか穏やかな表情で言った。
「ええ、また来るわ」
青は短く頷いた。
「体調を見てからだ」
「わかってるよ」
陽葵はそう言って、ふっと笑う。
「それでも、約束があるだけで嬉しいから」
その言葉に、青は何も返せなかった。
結愛も紬も、凛花も、一瞬だけ言葉を失う。
病室の静けさが、今度は嫌なものではなく、温かいものとしてそこにあった。
青たちが扉のほうへ向かう。
そこで陽葵がふいに呼んだ。
「お兄ちゃん」
青が振り返る。
「なんだ」
陽葵はベッドの上で、まっすぐに青を見ていた。
さっきまで笑っていた顔とは少し違う。
でも、沈んでいるわけでもない。
ただ、ちゃんと伝えたいことがある顔だった。
「今日は、すごく楽しかった」
それだけだった。
短い言葉。
けれど青には、それで十分だった。
陽葵が、あんなふうに笑っていた理由が、全部その一言に入っている気がした。
青は少しだけ目を細める。
「……そうか」
「うん」
陽葵が頷く。
「また来てね」
「ああ」
青はそれだけ答えた。
それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。
◇
病室を出ると、廊下は少し静かだった。
さっきまでの笑い声が遠のいて、代わりに病院特有の落ち着いた空気が戻ってくる。エレベーターへ向かう足音が、白い床に小さく響いた。
結愛も紬も、さっきまでより少しだけ声を落としている。凛花は手元のバッグを持ち直しながら、何かを考えるように目を伏せていた。
青は歩きながら、ふと後ろを振り返りそうになった。
けれど振り返らなかった。
見なくてもわかる。
きっと陽葵は、また笑って手を振っている。
エレベーターに乗り、ロビーへ下りる。
正面玄関を抜けると、外の空気は昼間より少しだけやわらかくなっていた。
夕方の風が吹く。
青は立ち止まって、病院の建物を見上げた。
陽葵のいる部屋の窓がどこかはわかっている。けれど、ここから見ても、その姿は見えない。
それでも。
今日、陽葵が笑っていたこと。
楽しそうにしていたこと。
花火大会の約束ができたこと。
それだけで、この一日は十分意味があったと思えた。
もちろん、約束はまだ決まったわけではない。
外出許可が出るかどうかも、その日の体調もある。
無理はさせられない。
だが、それでも——。
花火大会。
本当に行けるなら、それがいいと思った。
陽葵が、あんなふうに笑っていたから。
夕暮れの空を見上げながら、青は静かにそう思った。




