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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
夏休み

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第32話 妹・陽葵登場

# 第32話 妹・陽葵登場


 八月に入ったばかりの週末だった。


 夏期講習のない土曜日の午後。強い日差しがアスファルトを照り返し、病院の白い外壁まで眩しく光っている。自動ドアの前を出入りする人々も、みな暑さから逃れるように足早だった。


 そんな総合病院の正面玄関の脇で、氷凪青は静かに立っていた。


 隣には椎名紬がいる。


 淡いクリーム色のカーディガンを肩に羽織り、下には細い肩紐の白いキャミソール。ふんわりした薄桃色のミニスカートが夏の風に揺れていて、いつもの制服姿とはまた違う柔らかさがあった。全体としては可愛らしいのに、体のラインは隠しきれず、青は視界の端に入るたびに落ち着かない気分になる。


 もっとも、本人はまったく気にしていないらしい。


「青先輩、まだですかね」


「もう少しだろう」


「黒金先輩はともかく、雪城先輩まで遅れるなんて珍しいですね」


「準備に時間がかかったんだろう」


「準備、ですか?」


 紬はきょとんとしたあと、すぐにふわっと笑った。


「女の子は、いろいろあるんですよ」


「お前も十分時間をかけていたように見えたが」


「えっ」


 紬の動きがぴたりと止まる。


「そ、それは、その……青先輩の妹さんに会うんですから、ちゃんとしていきたいなって……」


「そうか」


「それだけですか?」


「何がだ」


「もっとこう……似合ってる、とか」


 紬は少し身を寄せ、上目遣いで見上げてくる。


 この距離感に未だ慣れない。


 青は一度だけ紬の服装を見て、それから前を向いた。


「似合っている」


「……っ」


 たった一言で、紬の耳まで赤くなる。


「い、いきなり真面目に言わないでください……」


「聞かれたから答えただけだ」


「青先輩って、たまにそういうところ、ずるいです……」


 紬が小さく頬を押さえる。青には何がずるいのかよくわからなかった。


 そのとき、通りの向こうから二つの人影が見えた。


 先に気づいたのは紬だった。


「あ、来ました!」


 歩いてくるのは黒金結愛と雪城凛花。


 結愛は黒の薄手パーカーを軽く羽織り、その下に白いタンクトップ。ボトムスはデニムの短パンで、日に焼けた健康的な脚が夏らしくまっすぐ伸びていた。ギャルらしい華やかさがあるのにいやらしくならないのは、彼女の明るい性格のせいだろう。見るからに元気で、視界に入るだけで空気が少し賑やかになる。


 一方の凛花は、膝丈の水色のワンピース姿だった。余計な装飾は少ないのに、清楚という言葉がそのまま形になったような印象で、銀髪の涼やかさと相まって夏の光によく映える。上から薄い白のカーディガンを羽織っていて、病院という場所への気遣いも感じられた。


 結愛が手を振る。


「ごめーん! ちょっと遅れた!」


 凛花も小さく頭を下げた。


「待たせてしまってごめんなさい。お見舞いなのに、あまりにもラフすぎるのもどうかと思って……」


「遅刻するほど悩むなよ」


「……青にだけは言われたくないわ」


「なんでだ」


「あなたは最初から選択肢が少なすぎるのよ」


 凛花は少し呆れたように言ったが、表情はどこか柔らかい。


 結愛は青の顔を見てから、ふっと笑った。


「でもまあ、待ってる間、紬ちゃんと二人きりだったわけだ?」


「そうだが」


「へえー」


「その言い方、やめてくださいよぉ」


 紬が慌てたように割って入る。その様子を見て結愛がにやりとしたところで、ようやく何かに気づいたように目を丸くした。


「って、ちょっと待って。なんで紬ちゃんまでいるの?」


「え?」


 紬は本気で不思議そうに首を傾げる。


「だって、青先輩の妹さんですよ? 会いたいじゃないですか」


「そういうことじゃなくて!」


「え、違うんですか?」


「違わないけど、違うの!」


「難しいです……」


 結愛が頭を抱え、紬が困ったように笑う。そのやり取りを見ていた凛花が小さく肩を震わせた。


「結愛ちゃん、自分でも整理できていないのね」


「凛花までそんなこと言う!?」


「まあいい。行くぞ」


 青はそれだけ言って、先に自動ドアをくぐった。


「あ、ちょっと! おいてくなー!」


「待ってください、青先輩ー!」


 背後で結愛と紬の声が重なる。凛花は最後にもう一度服の裾を整えてから、静かに病院へ入ってきた。


   ◇


 病院の中は涼しかった。


 冷房の空気と消毒液の匂い。規則正しく並ぶ椅子。静かに行き交う看護師たち。明るいのに、どこか音が吸い込まれていくような空間。


 三人は自然と声の大きさを落とした。


「青」


 エレベーターを待ちながら、凛花が横顔を見上げる。


「陽葵さん、今日は体調は大丈夫なのよね」


「朝は熱も下がっていた。問題ない」


「そう」


 その短いやり取りの中に、凛花の本気の心配がにじんでいる。


 結愛も持ってきた紙袋を持ち直しながら口を開いた。


「なんかちょっと緊張してきたんだけど。青の妹とか、絶対いろいろ見透かされそう」


「見透かされるようなこと、あるのか?」


「あるから言ってんの!」


「ないだろ」


「それを青が言う!?」


 エレベーターの扉が開く。


 青はいつものように自然な動作で、先に三人を乗せた。


 その何気ない仕草に、結愛が一瞬だけ目を瞬かせる。凛花はもう慣れているのか、何も言わない。ただ少しだけ表情が優しかった。


 病室のある階へ上がり、廊下を歩く。


 青の足取りには迷いがない。


 何度も通った道なのだと、三人にはすぐわかった。


 結愛の胸の奥が、少しだけきゅっとした。


 青は普段、あまり自分のことを話さない。何を考えているのか、何を抱えているのか、見えそうで見えない。でもこうして当然のように病院の中を歩く後ろ姿を見ると、青の日常の一部に、自分たちの知らない重みがずっとあったのだと思い知らされる。


 凛花も同じことを感じているのか、いつもより静かだった。


 紬はそんな二人を見てから、青の背中に視線を戻した。自分が助けられたときからずっと思っていた。氷凪青は、誰かのために動くことを当たり前のようにやってしまう人なのだと。


「ここだ」


 青が足を止めた。


 個室の前。


 青はいつも通りの顔で扉を軽くノックし、そのまま開けた。


「陽葵、おまたせ」


 病室の中は明るかった。


 窓際のベッドに、パジャマ姿の少女が座っている。


 肩から流れる**茶色がかった長い髪は腰のあたりまであり、横で小さな髪留めでまとめられていた。**

 柔らかな髪が窓から差し込む夏の光を受けて、少しだけ明るく輝いている。


 目はくりっとしていて表情が豊かで、青と同じ顔立ちの面影がありながら、雰囲気はまったく違った。


 パジャマの上からでもわかるくらい、体つきは意外としっかりしている。結愛が思わず小さく呟いたほどだ。


「……青の妹、めっちゃ可愛いじゃん」


 紬も思わず頷く。


「髪、すごく長いですね……」


 凛花は少しだけ目を細めた。


「青とはずいぶん雰囲気が違うのね」


 青が夜の静けさなら、その少女は朝の光のようだった。


「おにいちゃん、やっほー!」


 ぱっと顔を輝かせて、力いっぱい手を振る。


 その明るさに、部屋の空気が一瞬で柔らかくなった。


 青は少しだけ目元を緩める。


「今日は元気そうだな」


「うん! 午前中ずっと退屈だったから、おにいちゃん来るの待ってた!」


「そうか」


 青はベッドの横へ歩み寄ると、持っていたバッグを棚の上に置いた。


 それから後ろを振り返る。


「こちら、同じクラスの黒金結愛さんと、雪城凛花さん。それと……陽葵と同じ二年の、椎名紬さんだ」


 そして三人に向かって言う。


「これが妹の陽葵だ」


 陽葵は一瞬だけきょとんとした顔になった。


 次の瞬間、その視線が三人を順番に見ていく。


 結愛。


 凛花。


 紬。


 そして、再び青。


「……お兄ちゃん」


「なんだ」


「友達連れてくるって言ってたけど」


「言ったな」


「全員女子じゃん!!」


 病室に元気な声が響いた。


 三人が同時に固まる。


 陽葵は身を乗り出した。


「どういうこと!? え、なに!? 誰が彼女なの!?」


 青は数秒だけ考えたような顔をしたあと、いつも通りに答える。


「ああ、悪い」


「何が!?」


「性別を言っていなかった」


「そこじゃないよ!」


 陽葵が勢いよくツッコみ、結愛が思わず吹き出した。


「ははっ、やっぱ青の妹だと思ったら違った。いや、でもそこツッコむんだ」


 凛花も口元に手を当てる。


「確かに今のは違うわね……」


 紬はくすくす笑いながら頭を下げた。


「はじめまして、陽葵ちゃん。椎名紬です。同い年なので、よかったら仲良くしてください」


「え、同い年!? ほんとに!?」


「はい」


「大人っぽい……」


「そ、そうですか?」


 紬が少し照れる。


 青は陽葵の枕元の位置を少し直しながら淡々と言った。


「みんな、陽葵の見舞いに来たいと言ってくれた。女子のほうが話しやすいかと思って連れてきた」


 それを聞いた瞬間、三人の視線が一斉に青へ向く。


 結愛、凛花、紬。


 三者三様に言いたいことがありそうな顔だった。


 青はそれに気づいていない。


「何だ」


「いや……青ってほんと青だなって」


 結愛が半分呆れ、半分笑いながら言う。


 陽葵はそんなやり取りを見て、にやにやと頬を緩めた。


「ふーん……」


 その含みのある声に、今度は青が少しだけ嫌な予感を覚える。


「とりあえず座って」


 青が言うと、三人はそれぞれ持ってきたものを取り出した。


 最初に動いたのは結愛だった。


「はい、陽葵ちゃん。これ、フルーツの盛り合わせ。病院で食べやすいかなって思って」


 透明なケースの中には、綺麗に切られた桃、メロン、ぶどう、オレンジが並んでいる。


 陽葵の目がぱっと輝いた。


「わあ……! すごい! おいしそう!」


「どれ好き?」


「桃!」


「だと思った」


 結愛が笑う。


 その明るさは、初対面の緊張を簡単に溶かしてしまう力があった。


 次に凛花が紙袋から細長い箱を取り出す。


「これはお花よ。病室にあっても邪魔になりにくいものを選んできたの」


 中から現れたのは、淡い色合いの小さなアレンジメントだった。白と水色を基調にした涼しげな花で、凛花らしい上品な選び方だ。


「きれい……」


 陽葵が思わず見とれる。


 凛花は少しだけ頬を緩めた。


「よかった。花瓶をお借りできるか、後で看護師さんに聞いてみるわ」


「ありがとう、雪城さん」


「凛花でいいわ」


「えっ、じゃあ凛花さん!」


 その呼び方に、凛花は一瞬目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「ええ」


 最後に紬が、おずおずと文庫本を差し出した。


「これは、その……もし退屈な時間があったら読めるかなって」


「本?」


「短編集なので、少しずつ読めると思います」


 陽葵は両手で受け取ると、嬉しそうに表紙を見る。


「ありがとう! 私、本好きだよ。入院してから読むもの増えたし」


「ほんとですか? よかったぁ……」


 紬は胸をなでおろした。その仕草でカーディガンの前が少し開き、青はなんとなく視線のやり場に困る。


 陽葵は三人からの見舞いの品を順番に眺めたあと、満足そうに笑った。


「みんな優しいね。わざわざ来てくれてありがとう」


「気にしないで」


「当たり前でしょ」


「こちらこそ、会えてうれしいです」


 三人がそれぞれ答える。


 青はその様子を見て、胸の奥の力が少し抜けるのを感じた。


 陽葵は普段から人懐っこいが、体調や気分の波で人と話したがらない日もある。今日はどうだろうと思っていたが、その心配は必要なかったらしい。


 むしろ——。


「それで?」


 陽葵がベッドの上でにこりと笑う。


「本命は誰?」


 青は無言になった。


 三人も一斉に青を見る。


 結愛は頬を引きつらせながらも興味津々で、凛花は表情を保っているようで耳が少し赤い。紬は期待と緊張が混ざったような顔でじっと見つめている。


 病室の空気が妙に静かになった。


「……本命ってなんだ」


「とぼけないでよ、お兄ちゃん」


「とぼけてない」


「じゃあ誰が一番特別なの?」


「そういうのはない」


「ほんとに?」


「ほんとだ」


「へえー」


 陽葵の目が完全に疑っている。


 結愛が咳払いした。


「ちょ、ちょっと陽葵ちゃん? 初対面でそこまで聞く?」


「だって気になるじゃないですか」


「それはそうだけど!」


 凛花も平静を装いながら口を開く。


「陽葵さん、その質問は少し青には難易度が高いわ」


「難易度?」


「恋愛に関する理解が……その、致命的に低いから」


「凛花、ひどくない?」


「事実よ」


 紬もこくこく頷く。


「青先輩、そういうの本当に鈍いですからね」


「紬まで」


「え、じゃあみんなお兄ちゃんに振り回されてる感じ?」


 その言葉に三人がぴたりと止まる。


 青は嫌な予感を強くした。


 陽葵は楽しそうに笑った。


「なるほどねー」


「何を納得した」


「いろいろ」


「答えになってない」


「お兄ちゃんも答えてないからおあいこだよ」


 青は言い返せず、視線を逸らした。


 結愛がそれを見て、肩を震わせる。


「やば。青、押されてんじゃん」


「身内だからな」


「へえ、青って身内には弱いんだ」


「……別に弱くない」


「今のちょっと弱かったよ?」


 結愛がからかうように笑う。


 そのまま病室の空気は和んでいったが、外から歩いてきた熱気もまだ残っていて、しばらくすると結愛がうちわ代わりに手で首元をあおいだ。


「うー、やっぱ暑い。病院入って涼しくなったけど、ここまで歩いた分がまだ残ってる」


「わかります……」


 紬も小さく頷く。


 陽葵が二人を見て笑った。


「暑かったでしょ。上着脱いでも大丈夫だよ?」


「いいの?」


「うん。ここ私しかいないし」


「じゃ、お言葉に甘えて」


 結愛が薄手のパーカーのファスナーを下ろし、さっと脱いだ。


 中から現れたのは白いタンクトップ。肩や鎖骨がすっきり見えて、スポーティで健康的な色気がある。肌見せは多すぎないのに妙に目を引くのは、結愛の明るい空気と抜群のスタイルが合わさっているせいだろう。


「ふー、生き返る」


 そう言って髪をかき上げる仕草が、やけに絵になる。


 続けて紬も遠慮がちにカーディガンを脱いだ。


「私も、ちょっとだけ……」


 下は白のキャミソール。肩紐は細く、ふんわりした雰囲気と相まって妙に危うい。しかも紬の場合、柔らかな体つきの主張が強く、青は反射的に目を逸らした。


 逸らしたはずなのに、一瞬見えてしまった情報が頭に残る。


「……」


 結愛がにやりとした。


「なに?」


「別に」


「今、見たよね?」


「見てない」


「絶対見た!」


 紬も首を傾げる。


「青先輩?」


「何だ」


「少し顔、赤いですよ?」


「気のせいだ」


「気のせいじゃないと思います」


 凛花はそんなやり取りを見ながら、手元のカーディガンの裾をぎゅっとつまんでいた。


 ほんの少しだけ、胸の奥が落ち着かない。


 結愛と紬が上着を脱いで、青がわかりやすく動揺した。そこに気づいてしまったせいで、自分だけ何もしていないことが妙に意識に上ってしまう。


 もちろん、ここで同じように脱ぐつもりはない。病院という場所でもあるし、そもそも自分はそういうことを張り合う性格ではない。


 ——ない、はずなのに。


 陽葵はその微妙な空気を見逃さなかった。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「思春期だね」


 一瞬で病室が静まり、そのあと結愛が吹き出した。


「ははっ、言われてるし!」


 紬も手で口元を隠して笑う。


「ふふ……」


 凛花は視線を逸らしつつも、肩が小さく揺れていた。


 青だけが真顔のまま答える。


「違う」


「違わないよー」


「違う」


「じゃあ今のは何?」


「暑かっただけだ」


「病室涼しいよ?」


「……陽葵」


「はーい」


 陽葵は素直に返事をしながら、全然反省していない顔だった。


 病室に笑いが広がる。


 青は小さく息を吐いた。


 騒がしい。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、こんなふうに陽葵が遠慮なく笑って、誰かとすぐ打ち解けているのを見ていると、それだけでこの日連れてきてよかったと思えた。


「そうだ、お兄ちゃん」


 陽葵がふと思い出したように言う。


「飲み物ほしい。みんなの分も」


「何がいい」


「私はりんごジュース」


「私は麦茶ー」


 結愛がすぐに手を挙げる。


「私はお水で大丈夫です」


 紬が控えめに言う。


「私は……」


 凛花が少し迷う。


「オレンジジュース」


「わかった」


 青は立ち上がった。


 その瞬間、陽葵がいたずらっぽく目を輝かせる。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「戻ってくるまでに、本命決めといてね」


「決めない」


「逃げた」


「逃げてない。買いに行くだけだ」


「そのタイミングが逃げなの!」


 青は返事をせず、財布だけ持って病室を出た。


 扉が閉まる。


 数秒の静寂。


 そして次の瞬間、病室の中で四人の笑い声が重なった。


「逃げたね」


 陽葵が断言する。


「うん、逃げたわね」


 結愛が即答した。


「見事に逃げました」


 紬もくすっと笑う。


 凛花は少しだけ口元を緩めた。


「青にしてはわかりやすかったわ」


 そこから、女子だけの時間が始まった。


   ◇


 自販機の前で飲み物を選びながら、青は無意識に病室の方向を見ていた。


 別に心配しているわけではない。


 ただ、陽葵が三人に変なことを言っていないかだけが少し気になる。


 いや、少しではないかもしれない。


 りんごジュース、麦茶、水、オレンジジュース、自分の分のブラックコーヒー。


 五本を袋に入れて戻る途中、廊下の向こうから、かすかに笑い声が聞こえた。


 陽葵の声だ。


 その中に結愛の明るい笑い声、紬の柔らかな笑い声、凛花の控えめな笑い声も混ざっている。


 青は足を止めた。


 笑っている。


 それだけのことなのに、胸の奥にじわりと熱が広がる。


 最近、陽葵があそこまで声を上げて笑うのを、いつ見ただろう。


 青は少しだけ視線を落としてから、病室の扉を開けた。


「ただいま」


「おかえり、お兄ちゃん!」


 真っ先に反応した陽葵は、さっきよりもさらに機嫌がよさそうだった。


 結愛は笑いすぎたのか目尻に涙をためている。


「やばい、青。結愛さんの話おもしろすぎ」


「何の話だ」


「学校だと、お兄ちゃんそんなキャラなんだね!」


「どんなだ」


「『別に』『そうか』『問題ない』ばっかり言ってるって!」


 陽葵が身振りまでつけて真似をする。


 結愛がさらに笑った。


「しかもさー、絶妙に女子を勘違いさせること言うくせに、本人だけ全然わかってないの」


「それは青先輩らしいですね」


 紬も楽しそうに頷く。


「昨日も講習のあと、私が少し疲れてたら、青が『無理はするな。送る』って……」


 凛花が静かに付け足す。


「それをあの顔で、何の含みもなく言うのよ」


 陽葵がぱちぱちと瞬きをしたあと、満面の笑みになった。


「えっ、お兄ちゃん、それモテる人の言動じゃん!」


「違う」


「違わないよ!」


 青は呆然としたまま飲み物を配った。


「りんごジュース」


「ありがと」


「麦茶」


「はーい」


「水」


「ありがとうございます」


「オレンジジュース」


「ええ」


 最後に自分のコーヒーを持ったまま、青は小さく息をつく。


「数分でずいぶん仲良くなったな……」


 その呟きに、陽葵がにっと笑う。


「みんな優しいもん」


「それに、青の話題が強かったのよ」


 結愛が肩をすくめる。


「青先輩、学校だと割とネタに困りませんし」


「不本意だ」


「でも、ほんとに」


 凛花が陽葵を見る。


「陽葵さんが楽しそうでよかった」


 その言葉に、陽葵は少しだけ目を丸くした。


 それからふわっと笑う。


「うん。すごく楽しい」


 まっすぐな声だった。


 青はその横顔を見る。


 頬が少し赤い。さっきまで大笑いしていた名残だろう。けれどその表情は、病室にいることを忘れそうになるほど明るい。


 陽葵がこんなふうに笑っているのを見られるなら、この騒がしさも悪くない。


 そう思ったときだった。


 陽葵が急に真面目な顔をして、三人を順番に見た。


「じゃあ、せっかくだから聞いていい?」


 その声色の変化に、結愛が少し身構える。


「な、何?」


「みんな、お兄ちゃんのことどう思ってるの?」


「ぶっ」


 結愛が盛大にむせた。


「陽葵ちゃん!?」


「だって気になる!」


「気になるけど、聞き方が直球すぎるの!」


 紬もあわあわし始める。


「わ、私ですか!? え、えっと、その……優しい、です……」


「それだけ?」


「か、かっこいいです……」


「うんうん」


 陽葵が満足そうに頷く。


 次に視線が結愛へ向いた。


「結愛さんは?」


「え、あたし!? いや、その……青は、まあ、頼れるし?」


「うん」


「ちゃんとしてるし?」


「うんうん」


「……優しいし」


「うんうんうん」


「顔もいいし」


「へえー」


「待って、今のなし!」


 結愛が耳まで赤くして叫ぶ。陽葵は楽しそうに笑いながら、最後に凛花を見る。


「凛花さんは?」


 凛花は一瞬だけ言葉を失った。


 だが、逃げることはしなかった。


「青は……」


 静かな声。


「とても誠実な人よ」


 結愛も紬も、そして陽葵も、自然と口を閉じる。


「誰かが困っていたら放っておけないのに、自分がしたことは大したことじゃないと思っている。そういうところを、私は尊敬しているわ」


 真っ直ぐで、飾りのない言葉だった。


 青はコーヒーの缶を持ったまま、わずかに目を見開く。


 自分の知らないところで、こんなふうに見られていたのかと思うと、落ち着かない。


 陽葵はそんな兄の反応も見逃さず、にっこり笑った。


「そっか」


 その一言だけで、なぜか全部わかった顔をする。


「陽葵」


「なに?」


「その顔をやめろ」


「やだ」


「即答だな」


「だって面白いもん」


 病室の中にまた笑いが広がる。


 青は再びため息をついたが、それでもさっきよりずっと穏やかな気分だった。


 窓の外では、真夏の陽射しがまだ強い。


 けれど病室の中には、それとは違う温かさが満ちていた。


 陽葵が笑っている。


 結愛も、凛花も、紬も笑っている。


 それを見ているだけで、青の胸の奥にあった張り詰めたものが、少しだけほどけていく。


 ——陽葵が、あんなふうに笑うのを見たのは、久しぶりな気がした。


 青は誰にも聞こえないほど小さく息をつき、手の中の缶コーヒーを見下ろした。


 騒がしい。


 でも、悪くない。


 むしろ——たぶん、すごくいい日だった。


 そう思った。


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