第34話 秘密を知る夜
# 第34話 秘密を知る夜
病院の自動ドアが閉まる音が、背後で静かに響いた。
外に出ると、昼間の熱気は少しだけやわらいでいた。八月の夕方。空はまだ明るいが、西の端からゆっくりと橙色に染まり始めている。さっきまで病室に満ちていた笑い声が嘘みたいに、外の空気は静かだった。
青は一度だけ病院の建物を振り返った。
陽葵のいる病室の窓は、このあたりだったはずだ。
ここから姿は見えない。けれど、きっと今もあの部屋で、今日のことを思い出しているのだろう。結愛の話に笑っていた顔。花火大会の約束に目を輝かせていた顔。帰るとき、少しだけ寂しそうにしながらも、最後にはちゃんと笑っていた顔。
胸の奥が、じんわりと温かい。
同時に、その温かさが少しだけ苦しかった。
「青ー」
横から声が飛んできて、青は振り返った。
結愛が、いつもの調子で片手をひらひらと振っている。隣には紬、そして少し後ろに凛花。
「何ぼーっとしてんの」
「別に」
「出た、それ」
結愛が呆れたように笑う。
「今日は陽葵ちゃんに『別に』キャラだってバラされたんだから、ちょっとは別の返し考えなさいよ」
「そうか」
「ほらまた!」
紬がくすくすと笑った。
「でも、青先輩らしいです」
「らしいわね」
凛花も小さく頷く。
結愛は手を腰に当てて、大げさにため息をついた。
「まったく、今日の主役は陽葵ちゃんだったはずなのに、最後の最後で『俺は年上派だ』発言をぶっこんで全部持ってくんだから」
「持っていってない」
「持っていったっての」
結愛がにやりと笑い、凛花と紬の顔を順番に見た。
「ねえ、凛花、紬ちゃん。あれ絶対本音入ってたよね?」
「……どうかしら」
凛花は平静を装うように答えたが、耳が少しだけ赤い。
紬は素直に言った。
「本音っぽかったです」
「紬」
「すみません」
謝っているのに、全然悪いと思っていない笑顔だった。
青はため息をつく。
「お前ら、いつまでその話を引っ張るんだ」
「えー、だっておいしいもん」
「おいしくない」
「私はちょっと気になります」
紬が小さく手を挙げる。
「どんな年上が好みなんですか?」
「聞かなくていい」
「え、聞きたいです」
「俺は聞かれたくない」
「そこをなんとか」
「なんとかならない」
そんなやり取りに、結愛が声を立てて笑う。
「青が押されてるの、レアだわ」
「身内相手で消耗したあとだからだ」
「言い訳してる」
「してない」
病院から駅へ向かう道は、夕方ということもあって人通りがそこそこあった。買い物帰りの人、部活帰りらしい学生、犬の散歩をしている人。日常の中に、自分たちも溶け込んでいく。
少し歩いたところで、紬がふと立ち止まった。
「あ、私、こっちです」
交差点の向こうを指さす。
「今日はありがとうございました。陽葵ちゃん、すごく可愛かったです」
「そうだな」
「あと、青先輩」
「なんだ」
紬は少しだけいたずらっぽく笑った。
「年上派、覚えておきますね」
「忘れろ」
「無理です」
即答だった。
結愛が吹き出す。
「紬ちゃん強っ」
「では、また学校で」
紬はぺこりと頭を下げてから、軽い足取りで去っていった。スカートの裾と長い髪が夕方の風に揺れる。
その背中を見送ったあと、結愛が次に足を止めた。
「じゃ、あたしもここだわ」
駅へ向かう大通りから少し外れた方向を親指で示す。
「今日はありがとね、青」
「礼を言うのはこっちだ」
「ん」
結愛は一瞬だけ、からかいではない柔らかい顔をした。
「陽葵ちゃん、すっごい楽しそうだった」
「……ああ」
「それにさ」
そこでまた、結愛らしい笑みに戻る。
「凛花ちゃんもいたし、ちょうどよかったじゃん」
凛花が目を瞬かせる。
「ちょうど?」
「うん。青って変に溜め込むとこあるし。たまにはちゃんと話しなよ、ってこと」
「結愛」
「なに?」
「余計なお世話」
「知ってる」
結愛は悪びれもせず笑った。
それから凛花のほうへ少し顔を寄せて、小さな声で言う。
「じゃ、あとは任せた」
「……何をよ」
「さあ?」
凛花がわずかに頬を染める。結愛はそれを見て満足そうに口角を上げた。
「青」
「なんだ」
「凛花ちゃん、ちゃんと駅まで送ってきなよ」
「駅までは同じ方向だ」
「そういうことじゃないっての」
結愛は最後に手を振ると、くるりと背を向けた。
「じゃあねー。また月曜!」
明るい声が遠ざかっていく。
あとに残ったのは、青と凛花の二人だけだった。
◇
さっきまで四人で歩いていた道が、急に広く感じられた。
夕暮れの風が、わずかに涼しい。
結愛も紬もいなくなって、周囲の音が一段階だけ遠くなる。車の走る音、信号機の電子音、どこかの店から聞こえる食器の触れ合う音。それらの間を縫うように、二人の足音だけが静かに続いていた。
沈黙が続く。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
病院を出た直後の、あの小さな余韻がまだ残っているからかもしれない。陽葵の笑顔。花火大会の約束。帰り際の「今日は、すごく楽しかった」という言葉。
どちらからともなく、そのことを思い返しているような空気だった。
しばらくして、先に口を開いたのは凛花だった。
「青」
「なんだ」
青は前を向いたまま答える。
凛花は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……外出許可が必要ってことは」
さらに一歩分の間。
「陽葵ちゃん、相当悪いの?」
足が、ほんのわずかに止まりそうになった。
青は表情を変えないまま、視線だけを少し下げる。
その問いは、いずれ来るだろうと思っていた。凛花は勘がいい。今日の病室での会話だけでも、いくつかのことには気づくだろうとわかっていた。
それでも、実際に聞かれると胸の奥が小さく固くなる。
「……凛花が心配することじゃない」
出てきた言葉は、思ったよりも冷たかった。
自分でも少しだけわかった。
これは拒絶ではない。
ただ、うまく触れられたくないだけだ。
口にしてしまえば、現実の形がはっきりしてしまうから。
凛花は怒らなかった。
むしろ、その返答を聞いて、余計に表情をやわらかくした。
「心配するわよ」
真っ直ぐな声だった。
「青には、いろいろ助けられたし……」
少しだけ視線を落とし、それからまた青を見る。
「それに、陽葵ちゃんはあなたの大事な妹なんでしょう?」
青は何も答えない。
夕方の風が吹いて、凛花の銀髪を静かに揺らした。
「もしかして……」
凛花が続ける。
「東都大学の医学部を目指しているのは、陽葵ちゃんのため?」
青は足を止めた。
駅へ向かう途中の歩道橋の手前。人通りはあるが、二人の周囲だけ時間が少し遅くなったように感じる。
凛花も立ち止まる。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられる問いだった。
はぐらかすこともできる。否定することもできる。
けれど凛花は、興味本位で聞いているのではない。
それは、その目を見ればわかった。
青は小さく息をつく。
「……ああ」
認める声は、思ったより静かだった。
「気づいたか」
凛花の睫毛が、わずかに震える。
「助けたい人って……陽葵ちゃんのことだったのね」
「ああ」
青は歩き出しながら、淡々と続けた。
「小さい頃から体が弱かった。今も治療は続いてる」
言葉にしてしまうと、やはり少しだけ息苦しい。
「だから医者になろうと思った。それだけだ」
「それだけ、なんて」
凛花が小さく言う。
青は首を横に振った。
「別に大した話じゃない」
「大した話よ」
今度の凛花の声は、少しだけ強かった。
「自分の人生の進路を、誰かを助けたいって思いで決められることが、どれだけ大きいことか……青はたぶん、わかってない」
青は何も返さない。
返せなかった、と言ったほうが近いかもしれない。
そんなふうに言われたことは、ほとんどなかったからだ。
勉強を頑張る理由。医学部を目指す理由。それを説明すれば、たいていは「偉いね」とか「すごいね」で終わる。だが凛花の言葉は、それとは少し違っていた。
もっと近い場所まで来て、重さごと受け止めようとしてくる言葉だった。
それが、少しだけ怖い。
少しだけ、救われる。
「……けど」
気づけば、青は続きを口にしていた。
言うつもりはなかったはずなのに。
「間に合うかどうか」
その一言が、夕暮れの空気に落ちる。
凛花が息を呑んだのがわかった。
青は前を向いたまま続ける。
「今は状態が落ち着いてる日もある。けど、ずっとそうとは限らない。俺が医者になっても、そのときにはもう——」
「青」
強い声だった。
青は思わず足を止める。
隣を見ると、凛花がまっすぐこちらを見ていた。普段の静かな彼女とは少し違う、感情を表に出した顔だった。
「なに、後ろ向きなこと言ってるの」
青はわずかに目を見開く。
凛花は続けた。
「大丈夫よ」
言い切る。
「間に合うわ」
「凛花」
「私も手伝う」
迷いのない声だった。
青は一瞬だけ、返す言葉を失う。
「……凛花らしくないこと言うな」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「結愛みたいだ」
凛花は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「一緒にいるうちに、影響を受けちゃったのかもね」
夕暮れの光が、彼女の横顔をやわらかく染める。
「結愛ちゃんは、いつも明るくて前向きだもの」
「ああ」
青も自然に頷いた。
「そうだな。一緒にいて飽きないというか」
「ええ」
「ああ見えて家庭的だしな」
「……そうね」
「きっと、いいお嫁さんになるよ」
そこまで言ってから、青は隣の気配が一瞬固まったのに気づいた。
凛花が、ぴたりと足を止めている。
「凛花?」
「……え?」
ゆっくりと向けられた視線。
いつもの冷静さが少し崩れていた。
「青……結愛ちゃんのこと……」
「違う」
今度はかなり早く否定した。
「一般論だ」
「一般論……」
「結愛は結構モテるだろ」
「まあ、それはそうだけれど」
「凛花も、知的で美人だし、モテるだろ」
さらりと言われて、凛花の表情が今度は別の意味で止まる。
「……私は全然モテないわ」
「そんなことはない」
青は即答した。
「無愛想だもの」
「無愛想ではない」
「他人から見れば、そう見えることもあるわ」
「だとしても」
青は少しだけ考え、言葉を選ぶ。
「生徒会室でいつも一緒に仕事していて思うが、凛花は作業が正確だし、人にも気を遣っている」
凛花が黙る。
「周りをちゃんと見てるし、判断も早い。すごいと思って見ているよ」
そこまで言ったところで、ようやく青は凛花の様子がおかしいことに気づいた。
頬が赤い。
夕焼けの色だけでは説明がつかないくらい、はっきりと。
「……凛花?」
「そういうところよ」
「何がだ」
「そういうふうに、真面目な顔で言うところ」
凛花は視線を逸らし、わずかに唇を噛む。
「青は、たぶん自覚がないんでしょうけど」
「自覚?」
「ええ」
そして、少しの沈黙。
歩道橋の下を車が通り過ぎる音がした。空は橙から群青へ移り変わりつつある。
凛花が、静かに息を吸う。
「……実は」
その声が、いつもより少しだけ震えていた。
「私の、振り向いてほしい人は」
青は何も言わない。
言えない。
「青」
凛花がこちらを見上げる。
「あなたなの」
時間が止まったように感じた。
青の思考も、言葉も、一瞬だけ全部止まる。
「……俺?」
ようやく出てきたのは、あまりにも間の抜けた返事だった。
凛花は恥ずかしそうにしながらも、逃げなかった。
「ええ」
小さく頷く。
「あなた、いつも無口で勉強ばかりしてるじゃない?」
「否定はしない」
「でも、やることは丁寧で、まっすぐで……」
凛花の声は、最初こそ少し震えていたが、話し始めるにつれて少しずつ落ち着いていった。
「ずっと前から、こんなふうに話してみたいと思ってたの」
青は黙って聞く。
「どうしたら話すきっかけが作れるか、ずっと考えてた。私は、結愛ちゃんみたいに自然に距離を詰められるタイプじゃないから」
少しだけ苦笑する。
「だから、せめて勉強だけでも負けないようにって思ったの。いつかあなたが、勉強のことを聞いてくるかもしれないって」
青は目を見開いた。
「……それで、あそこまで」
「ええ」
凛花はどこか照れくさそうに笑う。
「でも結局、遠回りだったわね。結愛ちゃんみたいに、素直に友達になりたいって言えばよかった」
その言葉に、青の胸の奥で何かがふっと緩んだ。
「……俺も」
凛花が顔を上げる。
「俺も、ずっと凛花と話したいと思っていた」
「え?」
「勉強を一緒にしたいとも思っていたし、生徒会室で仕事してるときも、話しかけようか迷ったことは何度もある」
言いながら、少しだけ自分でも可笑しくなった。
「なんだ」
凛花が目をぱちぱちとさせる。
「なんだ、って?」
「似たようなことを考えてたのかと思って」
一瞬の沈黙のあと、凛花がふっと笑った。
「なんだ、一緒のこと思ってたのね」
「そうみたいだな」
「……似たもの同士ね、私たち」
「ああ」
二人は自然に顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に小さく笑う。
大きな声ではない。
けれど、こんなふうに肩の力を抜いて笑い合ったのは初めてかもしれなかった。
その空気を壊すのが惜しいように、少しのあいだ何も言わずに歩く。
さっきまでよりも、二人の間の距離が少しだけ近い。
凛花がふと、また口を開いた。
「あと……ごめんなさい」
「何がだ」
「期末試験」
青は首を傾げる。
「わざと、点数を落としたの」
数秒、意味が頭に入ってこなかった。
「……は?」
「塾じゃなくて、高校の夏期講習に、青と行きたくて」
凛花は視線を逸らしながら言う。
「だから、少しだけ」
「少しだけであの順位なのか」
「そこは今、突っ込むところ?」
「いや、気になった」
真面目に返されて、凛花は思わず笑ってしまった。
「ほんとに青ね」
「手を抜くのは感心しないが」
青は少しだけ息をつく。
「……次は、手を抜かないでくれ」
凛花がそっと見上げる。
「凛花を超えるのが、今の俺の目標だから」
その言葉を聞いた瞬間、凛花の表情がやわらかくほどけた。
「……うん」
短い返事だった。
けれどその一言に、嬉しさがきれいに滲んでいた。
駅前の明かりが近づいてくる。人通りも増えてきた。コンビニの前で立ち話をしている学生たち、改札へ急ぐ会社員、夜の匂いを乗せた風。
別れの時間が近い。
それでも、不思議とさっきまでのような寂しさはなかった。
今日、この帰り道で話したことが、二人の間に確かな何かを残していたからだ。
駅の入口の前で、凛花が立ち止まる。
「ここまででいいわ」
「ああ」
「今日は……ありがとう」
「俺のほうこそ」
青は少しだけ視線を上げる。
「凛花」
「なに?」
「さっきの話」
凛花の肩がわずかに揺れた。
さっきの話。振り向いてほしい人は、あなたなの——その言葉を思い出したのだろう。
青は少しだけ迷ってから言った。
「聞けてよかった」
凛花は目を見開く。
次の瞬間、ふわりと笑った。
「……そう」
「そうだ」
「じゃあ、言ってよかったわ」
改札の明かりが、凛花の横顔を照らしている。
いつもの完璧な生徒会長の顔ではない。少しだけ照れていて、少しだけ嬉しそうで、そしてとても綺麗だった。
「また学校で」
凛花が言う。
「ああ」
青が頷く。
「またな」
凛花は軽く手を振って、駅の中へ入っていった。
その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、青はしばらくその場に立っていた。
夕方はもう終わり、夜が来ている。
陽葵のこと。
医学部のこと。
花火大会のこと。
考えることはいくらでもある。
それでも今、胸の中にあるのは、重さだけではなかった。
凛花に、自分のことを話した。
凛花の気持ちも、聞いた。
それだけで、少しだけ前に進めた気がした。
青は夜空を見上げる。
まだ星は見えない。
けれど、今日の帰り道は、きっと忘れないだろうと思った。




