第29話 七月の空気
# 第29話 七月の空気
七月に入ると、学校の空気は目に見えて変わった。
ついこの前まで、校舎のあちこちに体育祭の熱が残っていたはずなのに、今はもう別の色に塗り替えられつつある。グラウンドから聞こえてくる声も、どこか切実だ。最後の大会を終えた三年生たちが、後輩に囲まれていたり、逆にまだ引退前の部活が最後の練習に力を入れていたりする。
廊下を歩けば、そんな話題が自然と耳に入る。
「先輩、三年間ありがとうございました!」
「お前ら、あとは任せたぞ」
「マジで引退かあ……」
部活をやっている生徒にとって、七月は一つの区切りなのだろう。
一方で、教室の中では別の意味で空気が変わっていた。
黒板の隅には、如月雫がチョークで簡潔に書いた文字が残っている。
『一学期期末試験まで あと10日』
その数字を見るたび、クラスのあちこちからため息が漏れる。
体育祭が終わったと思ったら、今度は期末テスト。
忙しい、という言葉で片づけるには少し味気ない。けれど、星嶺高校に通う三年生たちにとって、それはごく自然な流れだった。
窓際の一番後ろの席で、氷凪青はいつものように静かにノートを閉じた。
昼休み。
教室には弁当の匂いと、雑談のざわめきが満ちている。騒がしいというほどではないが、落ち着いているとも言いがたい。そんな中で青だけは、周囲から少しだけ切り離されたような静けさをまとっていた。
もっとも、それは本人が意識してそうしているわけではない。ただ、もともとそういう性格なのだ。
「はあああああ……」
大げさなため息が、すぐ近くで落ちた。
視線を上げると、黒金結愛が机に突っ伏していた。金メッシュの入った明るい髪がさらりと流れ、腕の間から半分だけ見える顔は、普段の快活さが嘘のようにしおれている。
その隣で、星崎真凛が呆れたように笑った。
「結愛、朝からそれ何回目?」
「だってさあ……」
結愛は机に頬を押しつけたまま、恨めしそうに声を漏らす。
「水泳、インハイだめだったー……」
「あー」
葉山颯が妙に納得したようにうなずいた。椅子をくるりと反対向きにして座っていた彼は、昼休みになるといつも以上に落ち着きがなくなる。
「黒金も水泳部引退かー」
「そうだよー。終わっちゃった」
結愛はそう言って、少しだけ顔を上げた。
いつもなら、悔しい出来事があっても明るく笑い飛ばしてしまうことが多い。だが、今日の結愛には少しだけ本物の寂しさがにじんでいた。三年間続けてきたものが終わるというのは、たぶん簡単なことではない。
青は特に何も言わず、その様子を見ていた。
すると、葉山がにやりと笑う。
「いやー、残念だなあ」
「何が?」
結愛が半目で睨む。
葉山はまったくひるまない。
「黒金の競泳水着姿も見納めかーってこと」
その瞬間、星崎が即座にツッコミを入れた。
「颯、それセクハラ」
「いやいやいや、違うって」
「どこが?」
「純粋にスポーツ選手としての感想」
「どの口が言うの」
教室の近くの席にいた何人かが、くすりと笑う。
結愛も呆れたように頬を膨らませた。
「最低なんだけど」
「えー、俺だけじゃないって」
葉山はそう言いながら、なぜか青の方を振り向いた。
「青もそう思うよな?」
数秒、沈黙。
青はペンを置き、淡々と言った。
「俺を巻き込むな」
「冷たっ!」
葉山が大げさに胸を押さえた。
結愛は吹き出す。
「ほらー、青だって引いてるじゃん」
「違う違う、青は照れてるだけ」
「違うと思う」
星崎が即答した。
そのテンポの良いやり取りに、周囲の空気が少しだけ明るくなる。体育祭の後から、クラスの雰囲気は以前よりも少しだけまとまりを増していた。A組として優勝したことが、目に見えない連帯感を生んだのかもしれない。
結愛は椅子に座り直し、ふっと息をついた。
「でも、ほんと終わったなあ」
「水泳、好きだったんだろ?」
珍しく青が先に口を開くと、結愛は少しだけ目を丸くした。
「ん? うん、好きだったよ」
「なら、寂しいだろ」
「……まあね」
結愛は笑った。
その笑みは明るい。けれど、青にはわかった。完全に吹っ切れているわけではないことくらいは。
「朝練とか、めっちゃしんどかったし。塩素で髪きしむし。大会前とかプレッシャーもあるし。でも、終わるとさ、なくなった感じするよね」
「それはわかるかも」
星崎が相づちを打つ。
「毎日あったものがなくなると、変な感じするよね」
「そうそう」
結愛は何度かうなずいたあと、ふいに葉山の方へ視線を向けた。
「颯はサッカー部引退?」
「あー」
今度は葉山が曖昧に頭をかいた。
「うん、負けた」
「そっか」
「初戦で強豪と当たってさ。まあ、くじ運が終わってた」
軽く笑って言っているが、悔しくないはずがない。けれど葉山は、しんみりした空気にすることをあまり好まない。
結愛もそのあたりはわかっているのか、深追いはせずに「そっか」とだけ言った。
すると星崎が、いかにも冗談っぽい調子で口を開く。
「慰めてあげよっか」
その瞬間、葉山の目が輝いた。
「ほんと?」
「いや、冗談だけど」
「真凛ちゃん優しい!」
「聞いてた?」
葉山は椅子ごと近づこうとして、星崎に机の端を押し返された。
「近寄んなよ、女たらし」
「そんなこと言わないでー!」
「うるさい」
「傷つくー!」
わざとらしく嘆く葉山を見て、結愛が声を上げて笑った。
青も小さく息を漏らす。
そのわずかな変化に、結愛が気づいたらしい。にやっと笑いながら身を乗り出してきた。
「青、今ちょっと笑ったでしょ」
「別に」
「笑ったよね?」
「気のせいだ」
「いや絶対笑ってた」
「結愛、しつこい」
「だってレアなんだもん」
結愛はそう言って、どこか嬉しそうに目を細めた。
青が笑うこと自体は珍しい。皆がそれを知っているからこそ、ほんの少し口元が緩んだだけでも、こうして話題になる。
葉山が机に肘をつきながら、ふと思い出したように言った。
「ていうかさ、青」
「何だ」
「お前って、体育祭のとき改めて思ったけど、走るの速すぎだろ」
結愛もすぐに乗ってくる。
「それ! ほんとそれ!」
「スウェーデンリレーも最後の全員リレーも、やばかったよね」
「まあな。あれは反則級」
葉山がうなずく。
「普通に陸上部のエースみたいだった」
青は一瞬だけ黙った。
結愛が首をかしげる。
「青って、陸上部だったんだよね?」
「前に少しだけ」
「少しだけって、あんな走れるのに?」
「昔の話だ」
短い答え。
それで会話は終わりだと示すような、淡々とした声だった。
結愛はそれ以上踏み込まなかったが、気にはなった。体育祭のときも感じていたが、青には時々、こういう線の引き方がある。普段は他人に深入りしないくせに、困っている人は助ける。なのに自分のことになると、必要以上に語ろうとしない。
不思議な人。
それが、結愛の中の氷凪青という存在だった。
少しの沈黙のあと、葉山がわざとらしく黒板の方を見上げる。
「……で、現実に戻るけど」
「戻らなくていいよ」
星崎が即座に言う。
「戻るんだよ。もうすぐ期末だぞ」
「あー、やめて」
結愛が顔をしかめた。
星嶺高校に通っている以上、勉強から逃げられないことは全員わかっている。それでも、改めて言葉にされると気が重くなるものだ。
「今回はほんとやばいかも」
星崎がぼそりとつぶやく。
「真凛、前も同じこと言ってたじゃん」
「でも今回の数学ちょっと難しくない?」
「それはわかる」
結愛もうなずく。
「古典もめんどいし」
「英語も長文増えてるしなあ」
葉山が大げさに肩を落とした。
「もう俺、サッカー引退した余韻に浸る暇もなく現実に殴られてるんだけど」
「知らないよ」
「真凛ちゃん冷たい」
いつもの調子で騒ぐ葉山を横目に、結愛がふっと真面目な顔になる。
そして、その視線が青へ向いた。
「青」
「何だ」
「今度、一緒に勉強しない?」
その言葉に、葉山が「お」と小さく声を漏らした。
星崎も面白そうに目を細める。
結愛はそんな周囲の反応を気にした様子もなく、自然な調子で続けた。
「週末とか。ほら、青いると安心だし」
「安心?」
「勉強会って言っても、颯がいると絶対途中でふざけるし」
「え、ひどくない?」
「事実じゃん」
「否定できないのが悔しい」
結愛はくすっと笑ってから、少しだけ声を柔らかくした。
「それに、青と一緒なら効率よさそう」
理屈としては自然だ。
学年二位の青がいれば、勉強会の質は確実に上がる。そう思うのは、結愛だけではないだろう。
けれど、その声には単なる勉強目的だけではない響きが、わずかに混ざっていた。
青はそれに気づいていない。
「週末か」
「うん。土曜でも日曜でも」
結愛が期待を隠さずに見つめてくる。
青はすぐには答えなかった。
そのときだった。
「あの……」
静かな声が、会話の端に差し込まれた。
振り向くと、そこには雪城凛花が立っていた。
昼休みになると、生徒会の用事や他クラスからの相談で席を外していることも多い彼女だが、今日は教室にいたらしい。長い銀髪がさらりと揺れ、その整った顔立ちには、いつもの凛とした空気がある。
ただ、その表情にはほんの少しだけ迷いも見えた。
「雪城?」
葉山が目を瞬かせる。
凛花は結愛を見て、それから青へ一瞬だけ視線を移し、少し控えめに言った。
「わたしも……一緒に勉強したい」
一瞬、空気が止まった気がした。
葉山がわかりやすく反応する。
「おお」
星崎も「へえ」と意味ありげな声を漏らした。
結愛は数秒きょとんとしたあと、ぱっと笑顔になる。
「ほんと? いいじゃん!」
その反応は明るく自然で、裏がなかった。結愛は元々そういうところがある。人を輪の中に入れることに躊躇がない。
「凛花も一緒にやろ」
「……うん」
凛花は小さくうなずく。
その仕草は相変わらず控えめだが、どこか嬉しそうでもあった。
「生徒会長まで参加する勉強会って、急にレベル高くない?」
葉山が冗談めかして言う。
「じゃあ颯、来なくていいよ」
星崎が即答する。
「ひどい!」
「どうせふざけるでしょ」
「多少はね」
「認めるんだ」
軽口が交わされる中、結愛と凛花の視線は自然と同じ方向を向いた。
氷凪青。
二人とも、最終的な返事を待っている。
青は机の上の教科書に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
わずかな間。
だが、結愛にはその沈黙がいつもより長く感じられた。
「青?」
結愛が呼ぶ。
青はゆっくり顔を上げた。
その表情はいつもと大きく変わらない。無表情に近く、落ち着いていて、余計な感情を見せない。
けれど、近くにいた結愛と凛花は、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
何かを考えているような、あるいは一瞬だけ言葉を選んでいるような、そんな小さな間だった。
「……ごめん」
青は静かに言った。
「週末はだめなんだ」
それだけ。
理由の説明も、言い訳もない。
短く、きっぱりとした断りだった。
結愛が目を瞬かせる。
「そっか」
口ではそう言えた。けれど、少しだけ胸の奥がきゅっとした。
楽しみにしていた、というほどではない。いや、たぶん少しはしていた。青と一緒に勉強できたらいいなと思っていたし、凛花も交えてみんなで集まるのも、きっと楽しいと思っていた。
だからこそ、あっさり断られると、わずかに寂しい。
「……そう」
凛花も小さく言った。
表情は崩さない。けれど、声がほんの少しだけ弱かった。
葉山が空気を読んだのか、珍しく軽口を挟まなかった。
星崎も、何も言わない。
沈黙が落ちる。
青はその沈黙を長引かせるつもりはなかったのだろう。鞄を手に取ると、椅子を引いた。
「先に帰る」
「あ、うん」
結愛が反射的に答える。
「また明日」
「……ああ」
青は短く返し、そのまま教室の後ろの扉へ向かった。
凛花が一瞬だけ「青」と呼びかけかけた気がしたが、声になる前にその背中は遠ざかっていく。
扉が開いて、閉まる。
それだけのことなのに、教室の空気が少しだけ静かになった。
「……忙しいのかな」
結愛がぽつりと言った。
「青、いつもなんか忙しそうだよな」
葉山が頬杖をつく。
「勉強とか?」
星崎が首をかしげた。
「でも青って、いつも勉強してるイメージあるし、今さら週末全部だめって感じでもなくない?」
「たしかに」
結愛はそう答えながら、さっきの青の表情を思い出していた。
大きく変わっていたわけではない。
けれど、ほんの少しだけ、視線を落としていた。
いつもの青なら、もっと事務的に断る気がする。
たとえば『用事がある』とか『無理だ』とか、それだけ言って終わるはずだ。なのに、さっきは妙に慎重だった。
まるで、触れられたくない何かを避けるみたいに。
「結愛?」
星崎に呼ばれ、結愛ははっと顔を上げた。
「あ、ごめん」
「何考えてたの?」
「別に」
そう言って笑ってみせる。
だが、隣にいた凛花は結愛以上に、青の様子を注意深く見ていた。
彼女は元々、人の感情の機微に敏感な方ではない。むしろ、自分の気持ちすらうまく言葉にできないことが多い。けれど、氷凪青に関してだけは、不思議と小さな違和感が心に残ることがある。
体育祭のあと、校門まで送ってくれたときもそうだった。
普段と変わらないようでいて、どこか深いところに何かを沈めているような目をしていた。
今日も同じだった。
「雪城?」
葉山の声に、凛花は我に返る。
「どうした?」
「え……?」
「なんか考え込んでたから」
「いえ……何でもないわ」
そう言って席につく。
けれど、本当に何でもないわけではなかった。
青には時々、見えない壁のようなものがある。
近づけたと思った次の瞬間には、するりと距離を戻してしまうような、静かな壁。
それを無理に壊したいとは思わない。
でも、少し気になった。
彼が何を抱えているのか。
なぜ時々、あんな目をするのか。
知りたいと思うこと自体が、もう十分すぎるほど特別な感情なのだと、凛花はまだ半分も自覚していなかった。
「まあ、勉強会はまた別の日でもいいんじゃね?」
葉山が空気を変えるように言う。
「そうだね」
結愛も頷いた。
「平日の放課後とかでもいいし」
「教室残る?」
星崎が聞く。
「図書室でもいいかも」
「それだと真凛寝そう」
「寝ないし」
「いや寝る」
少しずつ、いつもの調子が戻ってくる。
けれど青がいなくなった後の空気には、どこか小さな空白が残っていた。
それは彼の存在感が大きいから、というだけではない。
普段は必要以上に目立たず、口数も少なく、集団の中心にいるようなタイプでもないのに、いなくなると妙に静かに感じる。
氷凪青という人間は、そういう形で周囲に影響を残す。
本人はきっと気づいていないだろうが。
◇
教室を出た青は、そのまま人気の少ない廊下を歩いていた。
窓の外には、夏らしい光が広がっている。グラウンドからは運動部の声が聞こえ、どこか遠くでホイッスルの音もした。
体育祭のときと比べれば、空の高さが少し変わった気がする。
季節は確かに進んでいる。
青は足を止めず、階段へ向かった。
通り過ぎる教室からは、同じような会話が漏れてくる。
「今日部活最後なんだよな」
「うわ、泣きそう」
「その前に期末終わってほしい」
「無理だろ」
ありふれた日常の音だ。
それを聞きながら、青は静かに視線を落とした。
週末はだめなんだ。
それは事実だった。
だから嘘はついていない。
けれど、詳しく説明するつもりもなかった。
説明すれば余計な心配をかけるかもしれないし、そもそも自分の事情を人に話すのは好きではない。
必要がないことは言わなくていい。
それが、青の基本だった。
それでも、さっき結愛と凛花が一瞬だけ見せた表情は頭に残った。
結愛はわかりやすく少し残念そうで、凛花は表情こそ変えなかったものの、声がわずかに沈んでいた。
断ること自体に問題はない。
そう考える。
勉強会より優先すべき用事があるなら、そちらを優先するのは当然だ。
合理的に考えれば、それで終わりだ。
なのに、なぜか小さな引っかかりが残る。
青はそれを深く考えないようにした。
考えたところで意味はない。
自分がやるべきことは、最初から決まっている。
階段を下り、一階へ出る。
昇降口には、すでに帰り支度を始めている生徒たちが何人かいた。部活へ向かう者、委員会へ向かう者、まっすぐ帰る者。みんなそれぞれの日常を持っている。
青も靴を履き替え、校舎の外に出た。
むっとするような熱気が肌に触れる。
七月の空は明るく、雲の輪郭はくっきりしていた。
校門へ続く道を歩きながら、青はふと空を見上げる。
青い。
ただ、それだけだ。
それ以上の感想は特にない。
けれど、こうして空を見上げるのは嫌いではなかった。考えなくていいからかもしれない。
「氷凪くん」
不意に背後から声をかけられ、青は振り返った。
そこにいたのは同じクラスの男子で、体育祭の全員リレーで一緒に走った生徒だった。
「この前は助かった。最後、マジでかっこよかったわ」
「別に」
「いや、別にじゃないって。A組優勝できたの、氷凪くんのおかげもあるし」
「クラス全員で取った結果だ」
「そういうとこだよなあ」
男子は苦笑しながら手を振った。
「じゃ、また明日」
「ああ」
短いやり取り。
それだけで終わる。
青はそのまま歩き出した。
体育祭以降、自分に話しかけてくるクラスメイトは少し増えた気がする。けれど、急に交友関係が広がったわけではないし、それを望んでいるわけでもない。
今のままで十分だ。
葉山がいて、結愛がいて、凛花がいて、紬がいて、如月がいて。
自分の周囲には以前より確かに人が増えた。
そのこと自体は、事実として認識している。
だが、それが自分にとってどういう意味を持つのか、青はまだはっきり言葉にできていなかった。
恋愛に興味はない。
他人と必要以上に深く関わるつもりもない。
ただ、困っている人は放っておけない。
それだけのはずなのに、気づけば少しずつ、自分の日常に他人の存在が入り込んでいる。
結愛の明るさも、葉山の騒がしさも、凛花の不器用な真面目さも、もうすっかり見慣れたものになっていた。
それを心地いいと認めるのは、まだ少し違う気がする。
けれど、鬱陶しいと思わない時点で、たぶん以前とは違っている。
校門の外に出たところで、青は一度だけ立ち止まった。
背後には星嶺高校の校舎。
七月の光を浴びて、白い壁がまぶしく見える。
三年生の夏。
部活を終える者がいて、期末テストを前に焦る者がいて、体育祭の余韻をまだ引きずっている者もいる。
たぶん、皆それぞれに何かを抱えながら、日常を進めている。
青は鞄の持ち手を握り直した。
「……」
声には出さない。
ただ、そのまま静かに歩き出す。
どこへ向かうのかを、わざわざ説明する相手はいない。説明する必要もない。
蝉の鳴き声が、どこかで聞こえ始めていた。
いよいよ夏が来るのだと、そんなことを思う。
その夏が、自分にとってどんな意味を持つのかはまだわからない。
だが少なくとも、平穏なだけでは終わらない予感があった。
体育祭が終わっても、日常は止まらない。
むしろ、ここからまた新しく何かが動き始める。
そんな曖昧な予感だけを胸の奥に残して、氷凪青は七月の街へと足を進めた。
教室では今ごろ、葉山がまた騒いで、星崎が呆れ、結愛が笑い、凛花が静かにその輪の中にいるのだろう。
その光景が自然に頭に浮かぶ自分に、青はほんの少しだけ違和感を覚えた。
以前なら、教室を出た瞬間にすべてを切り離せていたはずだ。
なのに今は、置いてきた空気が背中に少しだけ残っている。
それが何なのか、名前をつけるつもりはなかった。
つけたところで意味はない。
大事なのは、目の前のことだ。
今やるべきことをやる。
余計なことは考えない。
そう決めている。
それでも、昼休みの最後に見た二人の表情だけは、妙にはっきりと脳裏に残っていた。
結愛の、少しだけ残念そうな笑顔。
凛花の、言葉にならない沈黙。
青はわずかに目を伏せ、それから何もなかったように前を向く。
空は高く、光は強く、季節は止まらない。
七月が始まったばかりだった。




