第19話 黒金家の夕食(1)
# 第19話 黒金家の夕食
キッチンから漂ってくる香りが、部屋の空気をゆっくりと満たしていく。
フライパンで焼かれた肉の匂いと、味噌汁のやさしい香り。家庭の食卓らしい温かさが、リビング全体を包んでいた。
ソファに座ったまま、氷凪青は膝の上の乃愛に絵本を読み終えた。
「――おしまい」
「もう一回!」
乃愛がすぐにそう言って、絵本を抱きしめる。
青は少しだけ間を置いてから、絵本を閉じた。
「続きはまた今度だ」
「えー」
「ご飯の時間だろ」
その言葉に、琉生がテーブルの方を見た。
「ほんとだ。腹減った」
ちょうどそのタイミングで、結愛が大皿を持ってキッチンから出てきた。
「はいはい、お待たせ」
テーブルの中央に、こんがり焼き色のついたハンバーグが並ぶ。
その横には彩りのいいサラダ、湯気の立つ味噌汁、白いご飯。
派手さはないが、丁寧に作られたことが一目でわかる食卓だった。
乃愛がぱっと青の膝から降りる。
「わあ、おいしそう!」
琉生も椅子を引きながら言った。
「今日は豪華じゃん」
結愛は少し得意げに胸を張る。
「まあね。青が来てるから」
青は立ち上がりながら、淡々と返した。
「別に気を使わなくていい」
「使うの」
即答だった。
その返しがいかにも結愛らしくて、青は何も言わず席についた。
四人でテーブルを囲む。
向かいに結愛、隣に乃愛と琉生。
結愛が手を合わせた。
「じゃ、食べよっか」
みんなで声を揃える。
「いただきます」
箸を取って、青はまずハンバーグを一口食べた。
肉汁と一緒に広がる、しっかりした旨味。
味付けも濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい。
食べた瞬間、青は正直に思った。
(うまい)
結愛がじっとこちらを見ている。
「どう?」
「……うまい」
その一言に、結愛の顔がぱっと明るくなった。
「でしょ?」
琉生がすかさず割って入る。
「お姉ちゃん、料理うまいんだぞ」
乃愛も元気よく続く。
「お嫁さんになれる!」
「乃愛!」
結愛が慌てて止めるが、乃愛はきょとんとしている。
青は味噌汁を口に運びながら、淡々と答えた。
「もう十分なれるだろ」
「っ……!」
結愛が一瞬固まる。
「な、何その自然な褒め方……」
「事実を言っただけだ」
「そういうとこよ、ほんと」
結愛は頬を赤くしながらご飯を口に運んだ。
琉生はその様子を見て、にやにやしている。
乃愛は何もわかっていない顔で、ハンバーグを幸せそうに頬張っていた。
しばらく穏やかな食卓の時間が流れる。
結愛はふと、青に視線を向けた。
「ごめんね」
「何が」
「弟と妹の世話、してもらって」
青はサラダを口に運びながら答える。
「大丈夫だ」
「慣れてるから」
「慣れてる?」
結愛が首をかしげる。
「青も妹いるんだっけ?」
青の箸が、ほんの少しだけ止まった。
結愛は気づかないまま聞く。
「何歳なの?」
数秒の沈黙。
その空気の変化に、琉生も乃愛も自然と静かになった。
青は視線を落としたまま、小さく答える。
「……十六歳」
少し間を置いてから、付け足すように言った。
「高二、かな」
その最後の言い方に、結愛はわずかに違和感を覚えた。
“かな”。
まるで、今そこにいない誰かの時間を遠くから数えているような響きだった。
だが結愛は、その違和感を深く追及しなかった。
「へえ。じゃあ乃愛たちより、だいぶ上のお姉さんなんだ」
「ああ」
「どこの高校?」
再び、少しだけ間が空く。
青は静かに答えた。
「フェリスノア女学院」
結愛が目を見開いた。
「え?」
「フェリスノアって、あの名門女子校?」
琉生も思わず声を上げる。
「すげー!」
乃愛はきょとんとした顔で青を見る。
「それってすごいの?」
琉生が得意げに言う。
「すごいんだよ。頭いいお嬢様学校みたいなとこ」
乃愛はさらに目を丸くした。
「じゃあ青のお姉ちゃん、すごい人?」
「妹だ」
青が淡々と訂正する。
「あ……ごめん」
乃愛は素直に謝った。
青は小さく首を振る。
「別にいい」
結愛は少し前のめりになる。
「いいなぁ。名門女子校とか、なんか憧れる」
「そうか」
「今度会わせてよ」
その言葉に、青の動きがわずかに止まった。
結愛は明るい調子のままだったが、青の表情は少しだけ沈んでいた。
視線が食卓の上に落ちる。
「……機会があったらな」
その声音は、いつもの淡々としたものに聞こえるのに、どこかだけ温度が低かった。
結愛は、その変化にようやく気づく。
だが問いただすことはしなかった。
代わりに、少しだけ柔らかく笑って言う。
「うん。約束ね」
青は短く答えた。
「……ああ」
それ以上、妹の話題は広がらなかった。
けれどその一瞬だけ、青の中に別の時間が流れていた。
病室の白い天井。
細い指。
「お兄ちゃん」と笑う声。
青は無言で味噌汁を口に運ぶ。
結愛は、そんな青をちらりと見た。
何か事情があるのだろうとはわかった。
だからこそ、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、わざと少し明るい声を出す。
「乃愛、ちゃんと野菜も食べなさい」
「えー」
「えー、じゃない」
「青ー」
乃愛が助けを求めるように見上げてくる。
青はサラダの皿を乃愛の前に少し寄せた。
「一口食べたら、ハンバーグ食べていい」
「ほんと?」
「ああ」
乃愛は少し悩んでから、レタスを一枚つまんで口に入れた。
「……たべた」
「偉いな」
そう言うと、乃愛はぱっと顔を明るくした。
「えへへ」
結愛が目を丸くする。
「何それ、私が言っても全然食べないのに」
琉生が笑った。
「青の言うことは聞くんじゃね?」
「なんでよ」
「知らね」
乃愛は得意げに言った。
「青、やさしいもん」
その一言に、結愛は少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
そう。
青はこういうところがずるい。
本人は何も特別なことをしていないつもりなのだろう。
けれど、気づけば自然に相手の懐へ入って、安心させてしまう。
それが子供相手でも同じなのだ。
食事は和やかに進んでいった。
琉生は部活の話をし、乃愛は学校であったことを一生懸命話す。
青は多くを語らないが、適切なところで相槌を打ち、ときどき短く返す。
「それでさ、今日先生に怒られて――」
「お前、またか」
「だってしょうがないだろ」
「しょうがなくない」
そんな琉生とのやり取りに、結愛が笑う。
乃愛がご飯粒を頬につけたまま話し始めると、青が何も言わずティッシュを取って拭いてやる。
「じっとしてろ」
「ん」
「食べながらしゃべるからだ」
「えへへ」
結愛はその様子を見て、また胸が熱くなった。
ほんの数十分前まで、この人は家の外にいた他人だった。
それなのに今はもう、ずっと前からこの家にいたみたいに馴染んでいる。
それが嬉しくて、少しだけ怖い。
――自分だけが、この光景をずっと見ていたいと思ってしまうから。




