第1話 高校三年生の春(3)
如月先生はチョークを置くと、教室を見渡した。
「では男子はどうしましょう」
再び沈黙。
当然だ。誰もやりたくない。
……と思った直後だった。
「氷凪がいいと思います」
後ろから聞き慣れた声。
俺は反射的に振り返った。
葉山が、いかにも善意ですという顔で手を挙げている。
「理由は?」と如月先生。
「成績優秀、真面目、責任感ある、先生受けもいい。完璧です」
「最後余計だ」
思わず口を挟むと、教室に小さな笑いが起きた。
葉山は肩をすくめる。
「いや、マジで適任でしょ」
周囲も否定しにくいのか、何人かが「まあ確かに」と頷いていた。
「氷凪くんならちゃんとしてくれそう」
「静かだし、まとめ役向いてそうだよね」
「いや静かすぎて逆に怖くない?」
「でも仕事はやりそう」
勝手なことを言っている。
最悪だ。
俺はすぐに断ろうと口を開く。
「いや、俺は――」
「氷凪くん」
如月先生が、まっすぐこちらを見る。
「学級委員の活動は、調査書や校内評価にも反映されます。進学にまったく無関係とは言いません」
その一言で、教室の空気が少しだけ変わる。
内申点。
調査書。
進学。
そこに関係するとなれば、話は別だ。
俺は一瞬だけ考える。
時間は取られる。面倒だ。
だが、受験に少しでもプラスになるなら、やる価値はある。
「……やります」
教室の何人かが意外そうな顔をした。
葉山が後ろで、してやったりという顔をしているのが気配で分かる。
「おお、即決」
「内申点強いな」
「氷凪くんってそういうの興味なさそうだったのに」
「受験ガチ勢だからだろ」
如月先生は軽く頷いた。
「ありがとう。助かります」
そのまま男子も決まりかけた、そのとき。
教室の横から、明るい声が上がった。
「先生ー」
視線が集まる。
黒金結愛が、まっすぐ手を挙げていた。
金色のメッシュが春の光を受けて揺れる。
彼女はにっと笑った。
「私も学級委員やりたいです」
一瞬、教室がざわめいた。
「え、黒金さん?」
「意外」
「どうした急に」
「学級委員ってキャラ変じゃない?」
そんな声が飛ぶ。
黒金は悪びれもせず言った。
「内申点、欲しいです」
そのあまりに率直すぎる理由に、教室に笑いが広がる。
だが、冗談で言っている顔ではない。
むしろ堂々としていた。
「いいとこの大学行きたいし。評定、大事じゃないですか」
その言い方が妙に現実的で、何人かが逆に感心したような顔になる。
「黒金さん、そういうのちゃんと考えてるんだ」
「そりゃ考えるでしょ」と本人は肩をすくめた。
普段の明るさの奥に、しっかりした芯がある。
たぶん、そういうところがこのクラスでも浮かずにいられる理由なんだろう。
如月先生も少しだけ困ったように目を細めた。
「参りましたね……。雪城さんで決まりかと思っていましたが」
黒板には、すでに『雪城凛花』の名前がある。
黒金はちらりと俺の方を見た。
……いや、気のせいか。
その視線の意味まで読む気はない。
「どうする?」と葉山が後ろで小声で囁く。
「知らない」
「モテる男は大変だねえ」
「違う」
「いや合ってる」
うるさい。
如月先生はしばらく考えたあと、なぜかこちらを見た。
「氷凪くん」
嫌な予感しかしない。
「どちらと一緒にやりたいですか?」
……何を言っているんだ、この先生は。
教室中の視線が俺に突き刺さる。
どちらを選んでも角が立つだろ、それは。
凛花は静かに立ったまま、無表情を崩していない。
黒金は分かりやすく期待した顔をしている。
葉山は絶対に面白がっている。
前の方の女子たちまで、完全に見物モードだ。
「え、どうするんだろ」
「これ答えづらすぎでしょ」
「氷凪くんかわいそう」
「でもちょっと気になる」
気になるな。
俺は数秒、言葉を失った。
どう答えても得がない。
沈黙が伸びる。
そして、その沈黙を破ったのは。
「いいですよ」
雪城凛花だった。
教室の空気が、ぴたりと止まる。
凛花はまっすぐ前を向いたまま、落ち着いた声で言う。
「私は譲ります」
「雪城さん?」
如月先生が確認するように呼ぶ。
「黒金さんがやりたいのなら、私は問題ありません」
その声音は穏やかで、いかにも大人びていた。
黒金が目を丸くする。
「え、本当? いいの?」
「ええ」
凛花は小さく微笑んだ。
「どうぞ」
それを見たクラスメイトたちが、感心したような空気になる。
「雪城さん大人……」
「さすがって感じ」
「余裕あるなあ」
「やっぱ格が違う」
そんな声が聞こえた。
黒金はぱっと表情を明るくし、勢いよく頭を下げる。
「ありがとう、雪城ちゃん!」
如月先生は軽く息をつき、結論を出した。
「では、女子の学級委員は黒金さんにお願いします。氷凪くんと一緒に、今年一年よろしく」
黒板の名前が書き換えられる。
氷凪青。
黒金結愛。
結愛は嬉しそうに「はいっ」と返事をした。
教室の空気も、どこか和やかになっている。
真凛が小さくガッツポーズしているのが見えた。
俺は特に何も言わず、ただ小さく息をついた。
面倒な役目が増えた。
それが率直な感想だ。
だが、その瞬間。
なぜかもう一度だけ、凛花の方を見てしまった。
彼女は静かに席へ座っていた。
横顔は変わらず整っていて、いつも通りの凛とした表情に見える。
誰が見ても、ただ自然に譲っただけのようにしか見えないだろう。
けれど。
その白い指先が、机の端をほんの少しだけ強く握っていたのを、俺は見逃さなかった。
……別に、それが何を意味するのかまでは考えない。
考える必要もない。
ただ、いつも完璧に見える雪城凛花にも、そういう小さな感情の揺れがあるのだと知っただけだ。
如月先生は何事もなかったように次の連絡事項へ進む。
「では次に、年間行事予定を配ります。春の模試日程、保護者面談、夏期講習、校内実力試験、文化祭、秋の記述模試、進路面談。三年生は行事も多いですが、どれも受験と無関係ではありません。配られたものは必ず目を通してください」
プリントが前から後ろへ回される。
紙の擦れる音が教室を満たす。
「特進コースは五月の校内実力試験から席次がかなりシビアに出ます。誰が何位だったか、隠そうと思ってもだいたい伝わります。ですから、今さら外聞を気にするくらいなら、最初から努力してください」
それは厳しい言い方だったが、事実でもある。
教室の空気が少しだけ引き締まる。
受験はまだ先のようで、もう始まっている。
如月先生は配布物の説明を終えると、最後に教卓の前で視線をめぐらせた。
「三年生は、誰にとっても特別な一年です。楽しいこともありますし、苦しいこともあります。ですが、できれば後悔の少ない一年にしてください。以上です」
静かな言葉だった。
なのに不思議と、それだけで教室全体に一本、芯が通った気がした。
ホームルームはそのまま、教科書の配布や提出書類の確認へ移っていく。
だが、教室のどこかにはまだ、さっきの余韻が残っていた。
黒金は上機嫌で真凛と小声で何かを話している。
「やば、結愛ほんとにやったじゃん」
「まあねー」
「内申点って便利な言い訳だね」
「うるさいし」
そんなやり取りが聞こえる。
葉山は後ろからシャーペンの先で俺の背中を軽くつついてきた。
「おめでと、学級委員様」
「うるさい」
「いやー、今年のA組も面白くなりそうだわ」
「そういう問題じゃない」
「青にとっては全部そうだよな」
全部、とは言わない。
ただ、余計な波は立たない方がいい。
そう思っているだけだ。
けれど、否定しきれない自分もいた。
新しいクラス。
新しい役目。
そして、今までより少しだけ近くなった人間関係。
望んだわけじゃない。
それでも、春は勝手に始まっていく。
窓の外では、風に揺れた桜の花びらが、校庭へ向かって静かに散っていた。
高校三年生。
人生を決める最後の一年が、こうして始まった。
そして。
雪城凛花は、誰にも気づかれないように小さく視線を伏せた。
本当は。
ほんの少しだけ。
氷凪くんと、一緒にやってみたかった。
そんな子どもっぽい感情を抱いたことが、自分でも少しだけ意外だった。
けれど、もう譲ると言ってしまった以上、今さらどうこう言うつもりはない。
今年は同じクラスだ。
それだけで、きっと十分。
……たぶん。
そう自分に言い聞かせながら、凛花は静かに教科書へ視線を落とす。
その横顔を見た者は誰もいない。
だから教室の誰も知らない。
学年一位の完璧な才女が、この春の始まりに、たった少しだけ心を揺らしていたことを。




