第1話 高校三年生の春(2)
春特有の浮ついた空気のなかにも、特進クラス特有の緊張感がある。久しぶりに会った友人と話し込む声のそばで、もう単語帳を開いている奴もいる。窓際の席では参考書を積み上げている男子がいて、その後ろでは女子たちが新しいクラスの顔ぶれを確認し合っていた。
「葉山いるじゃん、今年もよろしく」
「黒金さんもいるとか華あるな」
「いや雪城さんいる時点でA組って感じ」
「氷凪も同じクラスか。成績上位固まりすぎだろ」
「今年のA組、顔面偏差値も高くない?」
「お前そういうこと言うと雪城さんに冷たい目で見られるぞ」
「それはそれでご褒美」
「最低だなお前」
断片的な会話が飛び交う。
俺は自分の仮席に荷物を置き、窓の外を見た。
校庭の向こうに見える桜は、満開を少し過ぎている。春は嫌いじゃない。ただ、何かが始まる季節というのは、何かが終わる予感も一緒に連れてくるから苦手だ。
スマホが短く震えた。
陽葵からだ。
【お兄ちゃん、クラスどうだった?】
短い文面のあとに、なぜか太陽の絵文字がついている。
あいつらしい。
【普通】
それだけ返すと、すぐに既読がついた。
【絶対普通じゃないやつ】
【また帰ったら聞かせてね】
【無理しないで】
ほんの数文字なのに、なぜか少しだけ胸の奥がやわらぐ。
俺はスマホをしまい、参考書を取り出した。
そのとき、教室の前方が静かになった。
「みんな、おはようございます」
澄んだ声が、教室をすっと整える。
担任の如月雫先生が、教卓の前に立っていた。
眼鏡越しの涼しげな目元。落ち着いたピンク髪を後ろでひとつにまとめ、白いブラウスに紺のジャケットをきっちり着こなしている。教師としてはまだ若い方だが、姿勢の良さと隙のない所作のせいか、教室に入ってきただけで空気が締まる。
その一方で、男子人気が高いのも有名だった。
美人で、仕事ができて、説明が上手くて、公平。
無駄に甘くはないが、理不尽でもない。
だから余計に、密かな人気が出る。
「座って、座って。三年A組のホームルームを始めます」
その声に従って、ざわついていた教室が自然と静まっていく。
如月先生は出席簿を閉じ、教卓に両手を添えた。
「まずは、進級おめでとうございます。とはいえ、皆さんにとって三年生は『おめでとう』より『いよいよ』の方がしっくりくるでしょうね」
教室の何人かが苦笑する。
「知っての通り、星嶺は進学校です。今年も東都大学、京央大学、難関医学部、法学部最難関への受験者が多くなるでしょう。三年A組は特進コースの中でも特に上位のクラスです。自由な校風は変わりませんが、だからといって何をしてもいいわけではありません。結果はきちんと求めます」
やわらかな口調なのに、言葉の輪郭は明確だった。
こういうところが、この先生らしい。
「私は皆さんを必要以上に管理するつもりはありません。自分で考え、自分で選んで、自分で責任を取る。それができる人であってください。受験も、日々の行動も同じです」
前方の席の男子が小さく背筋を伸ばす。
「ただし、提出物の遅れ、授業中の私語、進路に関わる連絡の放置、このあたりには厳しくいきます。自由といい加減は違いますから」
「はい」と何人かが素直に返事をした。
葉山が後ろで小さく「さすが」と呟くのが聞こえた。たぶんあれは感心半分、見惚れ半分だ。
如月先生は黒板に今日の日付を書き、チョークを置いた。
「では、新学期ということもありますし、学級委員を決めましょう。男女一名ずつ。立候補がいればどうぞ」
しん、と教室が静まる。
誰もが、余計な仕事を増やしたくないのだろう。
受験学年で学級委員など、面倒の見本みたいなものだ。
しばらくして、女子の一人が控えめに手を挙げた。
「雪城さんがいいと思います」
その瞬間、教室の空気が「異議なし」に傾いたのが分かった。
「成績一位だし、真面目だし、学級委員に向いてると思います」
「うん、私も賛成」
「確かに」
「しっかりしてるしね」
あちこちから同意の声が上がる。
如月先生は一度、凛花に視線を向けた。
「雪城さん、どうですか?」
凛花は静かに立ち上がる。
「はい。わかりました。やらせていただきます」
簡潔で、無駄がない。
その答え方ひとつとっても、いかにも雪城凛花らしい。
教室のあちこちで小さな拍手が起こる。
俺は何となく、その横顔を見ていた。
相変わらず、隙のない表情だ。
けれど、気のせいか、ほんの少しだけ声がやわらかかったような気もする。
そのとき、凛花がこちらを見た。
目が合う。
澄んだ黒い瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。
俺は特に意味もなく視線を外し、机の上のシャーペンを整えた。
「じゃあ、女子の学級委員は雪城さんで決まりですね」
黒板に名前が書かれる。




