第17話 恋人の証明(2)
男子生徒がびくっと肩を揺らす。
「この前の子じゃない?」
「二年の佐藤くんでしょ?」
男子生徒——佐藤は目を丸くした。
「え……覚えてくれてたんですか」
「そりゃ覚えてるわよ」
結愛は少し身を乗り出した。
「校舎裏で同じ高校の男子と喧嘩してたじゃん」
「止めたの、私だし」
青が横目で結愛を見る。
「喧嘩?」
「うん」
結愛はあっさり頷いた。
「なんか同学年っぽい男子と揉めててさ」
「見てられなかったから止めただけ」
そして軽く拳を握って、えへんと胸を張る。
「こう見えて私、喧嘩強いから」
ガッツポーズまでしてみせる。
青は少しだけ間を置いて言った。
「……そうか」
「その反応なによ」
「いや、納得した」
「どこに?」
「結愛なら止めそうだ」
その言い方が妙に自然で、結愛は少しだけ照れた。
だが今はそれどころではない。
結愛は再び佐藤に向き直る。
「じゃあ」
「手紙と写真、佐藤くんだったんだ」
今度の笑顔は、まったく笑っていなかった。
佐藤は一瞬たじろぐ。
「そ、それは……」
「はい」
観念したようにうつむき、それから顔を上げた。
「でも、悪気はなくて!」
「黒金先輩を見てたくて!」
「好きで好きで仕方なくて!」
その言葉に、青の目がわずかに細くなる。
結愛ははっきりと言った。
「それ、悪気ないで済む話じゃないから」
佐藤は怯んだが、それでも必死に言葉を続けた。
「だ、だって……あの日、助けてもらって」
「僕、あの時ほんとに嬉しくて」
「黒金先輩、すごくかっこよくて」
「それで……」
言い淀む。
だが次の瞬間、勢いのまま叫んだ。
「僕、黒金先輩が好きです!」
「付き合ってください!」
公園に、ひどくまっすぐな告白が響いた。
青は黙っている。
結愛もすぐには答えなかった。
ほんの数秒の沈黙。
夕方の風だけが吹く。
やがて結愛は、きっぱりと言った。
「ごめんね」
「今、青と付き合ってるから」
佐藤は顔を歪めた。
「嘘だ!」
「それ、付き合ってるふりですよね!?」
青の方を指さす。
「さっきだって、止めに入らなかったらキスしてなかった!」
「そんなの証拠にならない!」
その言葉に、結愛は少しだけ考えるように青を見た。
青は嫌な予感がした。
「……結愛」
「なに?」
「まさか」
「そのまさか」
結愛はにっこり笑った。
嫌な予感は当たる時ほど当たる。
青が言葉を続ける前に、結愛は青の制服の胸元を軽く掴んだ。
「嘘じゃないよ」
佐藤に向かってそう言いながら、結愛は青を引き寄せる。
そして——
青の唇に、自分の唇を重ねた。
一瞬。
ほんの一瞬のはずなのに、時間が止まったように感じた。
青の思考が完全に止まる。
「…………っ!?」
声にならない。
体が固まる。
結愛が離れると、青はまばたきすら忘れたようにそこに立っていた。
佐藤は目を見開いたまま、数秒遅れて悲鳴みたいな声を上げる。
「わあああああ!? や、やめてください!!」
半泣きだった。
結愛はそんな佐藤に向かって、少しだけ大人びた笑みを浮かべる。
「私ね」
「自分より強い人が好きなの」
そう言って、隣の青を親指で示した。
「だから、佐藤くんはまず青より強くなって」
「そしたら、また告白してきて」
佐藤は唇を震わせた。
「む、無理です……」
「だろうね」
結愛はあっさり言った。
「でも、もう手紙とか写真とか、つけたりとかはダメ」
「次やったら本気で怒るから」
その声色は、いつもの明るい結愛ではなかった。
佐藤は完全に圧されていた。
「はい……」
泣きそうな声で返す。
そして最後にもう一度だけ青を見た。
悔しそうで、情けなさそうで、でもどこか諦めた目だった。
「……わあああ」
結局、そんな情けない声を上げながら、佐藤は走って公園を出ていった。
その背中を見送りながら、結愛は小さく息を吐いた。
「……終わった?」
青はまだ固まっている。
「青?」
返事がない。
「おーい」
結愛が顔の前で手を振る。
「青ー?」
そこでようやく、青がびくっと肩を揺らした。
「わっ……」
「びっくりした」
「いや、こっちが言いたいんだけど」
結愛は呆れたように笑う。
「なによ、そんなに嫌だった?」
青は視線を泳がせた。
「嫌とかじゃない」
「じゃあなに?」
「……キスのふりだけの約束だっただろ」
結愛は少し目を丸くしてから、吹き出した。
「なにそれ」
「ふりだけじゃ、あの感じだと納得しなかったでしょ」
「それは、そうだが……」
「じゃあ必要経費」
「キスは経費に入らないと思う」
「細かい男はモテないぞー」
「別にモテなくていい」
青はそう言ったが、耳まで赤くなっている。
結愛はその様子が可笑しくてたまらなかった。
「青さ」
「なんだ」
「もしかして」
「なんだ」
「ファーストキスだった?」
青は一瞬黙った。
そして、観念したように言う。
「……そうだが」
結愛の目が大きくなる。
「えっ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「うそ、ちょっと待って」
結愛は急に顔を赤くした。
さっきまで余裕ぶっていたのに、急に自分の方が動揺してくる。
青は視線を逸らしたまま続けた。
「その……」
「初めてが俺だったら悪いと思った」
結愛は思わず吹き出した。
「ぷっ」
「なにそれ」
「やさしすぎでしょ」
「笑うところか?」
「だって真顔で言うんだもん」
そして少しだけ胸が痛くなるくらい、嬉しかった。
自分のことより、相手の“初めて”を気にする。
そういうところが、ほんとうに青らしい。
結愛は咳払いして、少しだけ強がるように言った。
「ファーストキスだと思った?」
「……違うのか」
「違うから、心配しないで」
青は少しだけ肩の力を抜いた。
「そうか」
「うん」
だがその直後、結愛の心の中で別の声が叫んでいた。
(うそです)
(私も初めてです)
(むしろめっちゃファーストキスです!)
もちろん口には出さない。
出せるわけがない。
そんなことを言ったら、今度こそ青が固まるどころでは済まない気がした。
結愛は熱くなった頬を誤魔化すように、ベンチの背にもたれた。
心臓がまだうるさい。
唇に残った感触が、今さらになって意識される。
自分からしたくせに、思い出した途端に恥ずかしくなってきた。
「……でも」
結愛が小さく言う。
「結果的にはうまくいったでしょ」
青も少しだけ落ち着きを取り戻したのか、冷静な声に戻る。
「そうだな」
「佐藤の行動は止まる可能性が高い」
「高い、じゃなくて、絶対止まるって」
「なぜそう言い切れる」
「だって最後、完全に心折れてたもん」
「そうか」
「そうなの」
結愛は笑った。
さっきまで感じていた不快な恐怖は、もうかなり薄れていた。
完全に消えたわけではない。
でも少なくとも、正体もわからないまま怯えていた時よりはずっとマシだ。
「……ありがとね、青」
「何がだ」
「助けてくれて」
青は少しだけ目を細める。
「相談を受けたから対応しただけだ」
「それを普通にできるのがすごいの」
「そうか」
「ほんと、そこだよ」
結愛は苦笑する。
青は相変わらず、自分がどれだけ人を救っているかをわかっていない。
けれど、その無自覚さごと好きになってしまっている自分がいる。
結愛は立ち上がった。
「じゃ、帰ろっか」
青も立ち上がる。
公園の外を見ると、空はもうかなり暗くなり始めていた。
二人は並んで歩き出す。
さっきまでのように腕を組むか少し迷って、結愛は結局また青の腕に手を回した。
青がちらりと見る。
「まだやるのか」
「恋人のフリ、続行中ですー」
「もう必要ないだろ」
「いいの」
「よくない」
「じゃあ離してほしい?」
そう聞くと、青は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……別に、そうは言ってない」
結愛は目を丸くして、それからにやっと笑う。
「へえ?」
「うるさい」
「もしかして慣れてきた?」
「慣れてない」
「じゃあ我慢してる?」
「……」
「図星だ」
「結愛」
「はいはい、からかいすぎましたー」
結愛はくすっと笑う。
青の反応が少しずつ増えてきたのが、妙に嬉しかった。
それはきっと、自分との距離が少しだけ縮まった証拠だと思えたから。
住宅街へ続く道を、二人はゆっくり歩いていく。
夕暮れはもう夜に変わり始めていた。
ストーカーの影は、もうどこにも見えない。
その事実に、結愛は心の底から安堵する。
そして同時に、少しだけ寂しいとも思った。
この“恋人のフリ”が終わってしまったら、また前みたいな距離に戻ってしまうのだろうか、と。
そんな考えを誤魔化すように、結愛は明るく言った。
「ねえ青」
「なんだ」
「今日のこと、紬ちゃんには言わないでね」
青がわずかに眉をひそめる。
「なぜ紬が出てくる」
「いや、なんか面倒なことになりそうだから」
「確かに」
「でしょ?」
「でも隠す必要があるか?」
「ある!」
結愛は即答した。
その勢いに、青が少しだけ目を見開く。
「……わかった」
「うん、よろしい」
結愛は満足そうに頷いた。
その横で青は、まだ少しだけ唇に残る感触を意識していた。
だが、それを口に出すことはなかった。
口に出したら最後、結愛にまた何を言われるかわからない。
だから青はただ前を向いて歩く。
結愛はそんな青の横顔を見ながら、そっと微笑んだ。
今日のキスは作戦だった。
そう。
あくまで作戦。
——そのはずなのに。
唇に残った熱だけは、どうしても作戦では片づけられそうになかった。
その夜以降、佐藤による結愛への手紙や写真、帰り道での尾行はぴたりと止まった。
少なくとも、ひとまず事件は終わったのだとわかるには十分だった。
けれど、結愛の中では別の問題が新しく始まっていた。
氷凪青との距離が、前より少しだけ近くなってしまったこと。
そして、その距離をもう前のようには戻したくないと、はっきり思ってしまったこと。
夕暮れの道を並んで歩きながら、結愛は誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……ほんと、ずるい」
「何か言ったか」
青が聞き返す。
結愛はすぐに笑って首を振った。
「ううん。なんでもない」




