第14話 恋人のフリ(3)
男は電柱の陰に身を隠しながら、スマホ越しに二人を見ていた。
泣いて、寄り添って、また歩き出す。
その全部が気に食わない。
「なんでだよ……」
喉の奥から漏れた声は、ほとんど怨嗟だった。
「結愛ちゃんは、あんなふうに笑う子じゃない」
「僕の前では、そんな顔しなかったのに」
いや、そもそも自分の前で笑っていないこと自体を、男は正しく認識できていなかった。
彼の中では、結愛はもう「自分のもの」に近い場所にいた。
だから、それを奪う存在は邪魔だった。
スマホ画面の中の氷凪青。
無表情で、冷たそうで、なのに結愛にあんなふうに近づかれている男。
「……氷凪青」
画面を強く握る。
「邪魔だ」
シャッター音が、また小さく鳴った。
◇◇◇
やがて、結愛の家の近くまで来る。
住宅街の一角。
見慣れた道に入ったところで、結愛が足を止めた。
「ここ」
青も立ち止まる。
視線を周囲へ向ける。
道路。
向かいの家の塀。
電柱。
細い路地の先。
人影は見えない。
だが、それで安全だと断定はできない。
「送った」
青が言う。
結愛は頷いた。
「うん」
さっきより少しだけ、表情が落ち着いている。
完全に不安が消えたわけではないだろう。けれど、ここまで一人ではなかったという事実が、確かに彼女を支えていた。
「今日はありがと」
「まだ終わってない」
青はいつもの口調で返す。
「しばらくは警戒する」
「……うん」
「手紙と写真は全部保管しておけ」
「してる」
「帰る時間も、しばらくはズラせるならズラした方がいい」
「わかった」
「一人で帰るな」
「それは……できるだけ頑張る」
「できるだけじゃない」
青が少しだけ眉を寄せる。
「危ないと思ったら、すぐ連絡しろ」
結愛は一瞬、目を丸くした。
「え、連絡していいの?」
「相談を受けた」
「それはそうだけど」
「なら対応する」
結愛は思わず笑った。
「青って、ほんと責任感の塊みたいだよね」
「そうか?」
「そうだよ」
それから少しだけ、いたずらっぽく目を細める。
「これ、外から見たら普通に彼氏っぽいけど」
「違う」
「否定早」
「誤解は困る」
「ふーん」
結愛は唇を尖らせてみせた。
「じゃあ、さっきの腕組みも?」
「対策だ」
「肩寄せたのも?」
「……対策だ」
「赤くなってたのは?」
「気のせいだ」
結愛は吹き出した。
「そこは気のせいで押し切るんだ」
「事実だ」
「はいはい」
こうしていると、ほんの少しだけいつもの日常に戻れた気がした。
結愛は玄関の方をちらりと見る。
今このドアを開ければ、家の中にはいつもの生活がある。
乃愛や琉生の声がして、母親が帰ってきていれば台所の音もするかもしれない。
その日常を守りたい。
青に相談した理由は、結局そこに尽きるのだろう。
「……青」
「なんだ」
「今日はほんとに助かった」
「そうか」
「うん」
結愛は少しだけ迷ってから、笑った。
「また明日」
青も短く返す。
「また明日」
そのたった一言が、不思議なくらい安心できた。
結愛はドアノブに手をかける。
けれど、その前にもう一度振り返った。
「青」
「なんだ」
「今日は……ほんとにありがと」
「気にするな」
「そこは『どういたしまして』でしょ」
「慣れてない」
「なにそれ」
結愛はくすっと笑う。
「じゃあ、また明日」
そう言って、今度こそ家の中へ入っていった。
ドアが静かに閉まる。
青はしばらくその場に立ったまま、周囲を見渡していた。
表通りには人影がない。
犬の散歩をしている老人の姿も、買い物帰りの主婦の姿も、この時間には見当たらなかった。
静かすぎるくらい静かだ。
だからこそ、少しの違和感でも目立つ。
青は視線を細い路地の先へ向ける。
何かが動いた気がした。
だが次の瞬間には、ただ夕暮れの影が伸びているだけに見える。
「……」
青は数秒だけそこを見つめ、それからゆっくり踵を返した。
今日のところは、これ以上動いても仕方がない。
証拠はある。
相手はおそらく、まだ距離を測っている段階だ。
ならば、こちらも冷静に対応するしかない。
そう考えながら歩き出した青の背後。
電柱の影に、ひとつの人影が残っていた。
スマートフォンを握る手。
画面には、黒金家の外観が映っている。
さらに、その前に立つ氷凪青の後ろ姿。
「……家まで来たのか」
低い声が漏れる。
その声には、怒りとも嫉妬ともつかない、濁った感情が混ざっていた。
「氷凪青……」
男は画面を見つめる。
さっき撮った、腕を組んで歩く写真。
結愛が泣きそうな顔で青に寄り添っていた瞬間の写真。
そして、家の前で笑っていた写真。
「邪魔だ」
その一言だけを残して、男はゆっくりとスマホを下ろした。
夕暮れの住宅街に、冷たい風が吹く。
その風の中で、男の視線だけが、黒金家の方をいつまでも離れなかった。




