第14話 恋人のフリ(2)
校門を出て、通学路へ入る。
夕方の空は、少しずつ橙色を深くしていた。部活帰りの生徒たちが前後を通ることもあるが、少し離れると人通りはぐっと減る。
並んで歩いているだけなのに、結愛は妙に意識してしまう。
さっき自分で「青しか頼れない」と言った。
あれは本音だった。
家族には心配をかけたくない。先生に言うのはまだ大ごとにしたくない。友達に相談したら、それこそ真凛あたりはすぐ騒ぎそうだし、余計に不安にさせる。
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのが青だった。
不思議だった。
冷たく見えることもあるし、口数だって少ない。なのに、いざという時に一番頼れるのが青だと、結愛はもう知ってしまっていた。
しばらく無言が続いたあと、青が口を開く。
「結愛」
「ん?」
「嫌かもしれないが」
結愛は首を傾げる。
「なに?」
青は周囲を一度見てから言った。
「もう少しくっついて歩いてくれ」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
だが、青は落ち着いた声で説明を続ける。
「ストーカーがいる可能性が高いなら、こっちが一人ではないと見せた方がいい」
「恋人と一緒にいるように見えれば、抑止力になるかもしれない」
結愛の心臓が、大きく跳ねた。
(恋人……!?)
(ちょ、待って待って)
(言ってることはわかる。わかるけど)
(それを青の口から言われるの、破壊力やばいんだけど……!)
頭の中では大騒ぎなのに、表面上は何とか平静を装う。
「……わ、わかってるわよ」
そう返しながら、結愛は青の腕に手を伸ばした。
最初は遠慮がちに触れて、それから意を決して、ぎゅっと絡ませる。
ぴたりと距離が詰まる。
青の腕越しに感じる体温。
制服越しでもわかる硬さ。
結愛の頬が一気に熱くなる。
けれど、驚いたのは青も同じだったらしい。
「……」
ほんのわずかに肩が固まる。
結愛はそれを見逃さなかった。
「何、その反応」
「いや」
「近かった?」
「……近い」
「青がくっつけって言ったんじゃん」
「言った」
「じゃあ文句言わない」
「文句ではない」
青はそう言いながらも、耳が少し赤くなっていた。
その変化に気づいた結愛は、思わず笑ってしまう。
「ふふっ」
「何だ」
「別に」
「そうか」
青はそれ以上追及しない。
だが結愛の方は、もう少しこの状況を楽しみたくなっていた。
「ねえ、青」
「なんだ」
「こういうの慣れてるの?」
青が首を傾げる。
「こういうの?」
「恋人のフリ」
その瞬間、青はかなりはっきりした口調で言った。
「慣れてるわけないだろ」
「彼女いたことないし」
結愛は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そっか」
その一言だけで、なんだか胸が軽くなる。
自分でも単純だと思う。
でも、嬉しいものは嬉しい。
結愛はわざと少し意地悪そうな顔をした。
「でもさ」
「何だ」
「この前やってたよね?」
「……何を」
「恋人のフリ」
青は数秒黙った。
そのわずかな間だけで、結愛には答えがわかった。
「ほら、紬ちゃんと」
「……」
「紬ちゃんの仲間外れ解決するためにさ」
「彼氏っぽく振る舞ってたじゃん」
青は真顔のまま前を向いている。
結愛は少しだけ口元を緩めた。
「慣れてないって言う割には、あの時けっこうサマになってたけど?」
「あれは……」
青がようやく口を開く。
しかし、続く言葉はひどく曖昧だった。
「……あれはあれだ」
結愛は吹き出した。
「なにそれ!」
「説明になってないんだけど!」
「状況が違う」
「どう違うの?」
「紬の時は、あいつの学校復帰が優先だった」
「今は」
青は少しだけ視線を横に向ける。
「結愛の安全確保だ」
結愛は一瞬、笑うのを忘れた。
そんなふうに真面目な顔で言われると、心臓に悪い。
「……ふーん」
なんとかそれだけ返して、さらに青の腕に体を寄せる。
青の足がわずかに止まりそうになる。
「おい」
「対策だから」
「……そうか」
「なに、嫌?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあいいでしょ」
結愛は得意げに言う。
青は小さく息を吐いた。
それが諦めなのか受け入れなのかはわからない。けれど、腕を振りほどこうとはしなかった。
その事実だけで、結愛は十分幸せだった。
(やば……)
(これ、恋人のフリっていうか、私が一人で舞い上がってるだけじゃん)
そんなことを思いながらも、離れる気にはなれない。
青の隣は不思議と安心する。
それはさっき相談を聞いてもらったからだけではなくて、もっと前から少しずつ積み重なってきたものなのだろうと、結愛はぼんやり思った。
少し歩いたところで、青が低く言った。
「結愛」
「ん?」
「周囲を見ろ」
「え?」
「気配を感じたら、すぐ言え」
結愛はきょとんとする。
「今、いると思う?」
「断定はできない」
青は周囲の家並みや電柱、交差点の先まで視線を走らせながら続ける。
「でも、あいつが実際についてきているなら、今日も来る可能性は高い」
さっきまで少し浮かれていた結愛の気持ちが、すっと現実へ引き戻される。
「……そっか」
「怖いか」
青の問いは短かった。
結愛は少しだけ迷ってから、正直に言う。
「……うん」
青はそれ以上何も言わない。
ただ、歩く速度をわずかに落とした。
自然に、結愛が置いていかれないように。
そのさりげなさに、結愛は胸が熱くなる。
「青」
「なんだ」
「ありがと」
「まだ何も終わってない」
「そういうとこ」
「何がだ」
「……やっぱいい」
結愛は苦笑した。
青は本当に、自分がどれだけ人を救っているのか、まるで自覚がない。
◇◇◇
そんな二人の後方。
少し離れた電柱の陰に、人影があった。
スマートフォンを握る手が、じっと二人を追っている。
画面には、腕を組んで歩く結愛と青の姿。
「……なんだ、あいつ」
低い声が漏れる。
スマホを持つ指先に力がこもる。
「僕の結愛ちゃんに」
「なんであんなに……」
言葉の最後は、怒りと粘ついた執着に溶けた。
画面を指で拡大する。
結愛が笑っている。
青に寄り添いながら。
その光景が、ひどく気に入らない。
「ベタベタして」
「調子に乗るなよ……」
小さなシャッター音。
カシャ。
また一枚、写真が増える。
男は少しだけ場所を変え、再び二人を追った。
目立たないように、一定の距離を保ちながら。
その視線には理性より先に、歪んだ独占欲が滲んでいた。
◇◇◇
「……ねえ、青」
「なんだ」
「もしさ」
「うん」
「ほんとに後ろからついてきてたら、どうするの?」
歩きながら、結愛は小さな声で尋ねた。
青は即答しなかった。
数秒だけ考えてから、答える。
「まずは相手を確認する」
「そのあと?」
「状況次第だ」
「曖昧」
「相手の出方がわからない以上、断定的な行動は危険だ」
「……なるほど」
結愛は頷いたあと、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でもさ、青って、いざとなったら私のこと守ってくれそうだよね」
「相談を受けた以上、守る」
それは、あまりにも迷いのない答えだった。
結愛は思わず足を止めかける。
「……そういうの、普通に言うんだ」
「事実だからな」
「事実でも、普通はそんなサラッと言えないの」
「そうか」
「うん」
青は理解したような、していないような顔で前を向いている。
結愛はそっと笑った。
(ほんとにずるい)
(そういう顔で、そういうこと言うの)
頬の熱がまた戻ってくる。
結愛は誤魔化すように話題を変えた。
「そういえばさ、青ってほんとに恋愛興味ないよね」
「ない」
「即答だ」
「今は必要ない」
「勉強優先?」
「それもある」
青の横顔は淡々としていた。
だが、その言葉の奥にある理由を、結愛は全部は知らない。
妹のことも、家のことも、青はあまり人に話さない。
だからこそ、余計に知りたくなる時がある。
でも今は、それを聞く場面ではないと思った。
「まあ、青らしいか」
「そうか」
「でもね」
「なんだ」
「青が彼氏だったら、たぶん安心感すごいと思う」
青が少しだけ視線を動かした。
「意味がわからない」
「そこだよ」
「どこだ」
「そういうとこ」
「よくわからない」
結愛は堪えきれずに笑った。
「ははっ。もういいや」
青は首を傾げるだけだ。
会話は噛み合っていないようで、どこかちゃんと繋がっている。
その不思議な心地よさに、結愛は少しだけ救われていた。
◇◇◇
住宅街に入る。
道はだんだん静かになり、人通りも減った。
夕暮れの色が濃くなっていく。家々の窓には明かりがつき始め、どこかの家から夕食の匂いが漂ってくる。
結愛はその空気に、いつもなら安心するはずだった。
けれど今日は、逆にそれが怖かった。
ここには乃愛と琉生がいる。
母親が帰ってくる前に二人で家にいることもある。
もし本当に変な相手がこの辺まで来ているのだとしたら。
もし家を特定されていたら。
もし、自分だけじゃなく、家族にまで目を向けられたら。
その想像は、何度考えても慣れなかった。
結愛の腕に、少し力がこもる。
青はそれに気づいたらしい。
「どうした」
「……いや」
「顔色が悪い」
「そんなことない」
「ある」
短く断言されて、結愛は苦笑した。
「青ってこういう時、変に鋭いよね」
「見ればわかる」
「……そっか」
結愛は少しだけ唇を噛んだ。
ここでまた弱音を吐くのは格好悪い気もした。
でも、青になら言ってもいいかもしれない、とも思った。
「……家、近いから」
「うん」
「だから逆に、ちょっと怖くなってきた」
青は黙って聞いている。
急かさないし、余計な相槌も打たない。ただ、ちゃんと聞いている気配だけがある。
それが、結愛には話しやすかった。
「私さ、手紙とか写真の時は、まだ我慢できたんだよ」
「自分が気持ち悪い思いするだけなら、なんとかなるかなって」
「でも……」
声が少し揺れる。
「もし、乃愛とか琉生に何かあったらって思うと……」
そこで言葉が詰まった。
視界が滲む。
結愛は慌てて目を逸らしたが、もう遅かった。
ぽろりと涙が落ちる。
「……ごめん」
声がうまく出ない。
「私、ほんとダサいよね」
「さっきから泣いてばっかで」
「全然、平気じゃないくせに」
結愛は笑おうとしたが、失敗した。
「家族に危険が及ぶの、ほんと無理で……」
「乃愛も琉生も、まだ小さいし」
「もし何かあったらって思うと……」
言い切る前に、また涙がこぼれる。
腕を組んだままだったせいで、うまく顔も隠せない。
結愛は自分でも困っていた。
こんなふうに泣くつもりじゃなかった。
青の前では、少しはいつも通りでいたかった。
けれど、口にしてしまうと駄目だった。
青は足を止める。
結愛もつられて立ち止まった。
住宅街の角。
電柱の脇。
人通りはない。
青は結愛の顔を見て、それから静かにポケットからティッシュを取り出した。
「使え」
「……ありがと」
受け取ったティッシュで目元を押さえる。
青は少しだけ考えるように黙ったあと、低く言った。
「大丈夫だ」
結愛が顔を上げる。
青の表情はいつもと変わらない。
けれど、その声は妙に真っ直ぐだった。
「結愛の家族には近づかせない」
「俺が対処する」
大きな声ではない。
熱く叫ぶような言い方でもない。
ただ、当然のことを確認するように。
それでも、その一言は結愛の胸に深く落ちた。
「……青」
「何だ」
「そういうの、さらっと言うの、反則」
「反則?」
「うん」
結愛は涙で濡れた目のまま、少しだけ笑った。
「めちゃくちゃかっこいいから」
青は少しだけ視線を逸らした。
「事実を言っただけだ」
「その事実がかっこいいの」
「よくわからない」
「だろうね」
結愛は鼻をすする。
泣きながら笑うみたいな、変な顔になっている自覚はあった。
でも、さっきまで喉の奥に詰まっていた恐怖は、少しだけ軽くなっていた。
青がいる。
それだけで、全部は無理でも、少なくとも一人ではないと思えた。
「歩けるか」
「うん」
「無理なら少し休む」
「そこまでじゃない」
「そうか」
青は短く頷く。
結愛は一度深呼吸してから、もう一度青の腕にしがみついた。
「……おい」
「対策だから」
「さっきより強い」
「今は怖かった後だから、これくらい必要なの」
「理屈がおかしい」
「青にだけは言われたくない」
「なぜだ」
「自分で気づいてないからなおさら」
結愛はそう言って、少しだけ青の肩に頭を寄せた。
青の身体がまたわずかに固まる。
「……近い」
「だから対策」
「それで通す気か」
「通す」
青は数秒黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった」
諦めたらしい。
その反応が可笑しくて、結愛はくすっと笑う。
笑えるなら、まだ大丈夫だと思えた。
◇◇◇
その様子を、少し離れた場所から見つめる視線がある。




