第20話 近すぎる距離
# 第20話 近すぎる距離
黒金結愛のストーカー事件が解決した翌朝。
氷凪青は、いつもより少し早い時間に家を出ていた。
春とはいえ朝の空気はまだ冷たい。通学路には同じ制服の学生や、急ぎ足の会社員が行き交っている。
青は特に急ぐでもなく、いつも通りの歩幅で駅へ向かっていた。
昨日の出来事を思い返す。
結愛のストーカー。
公園での対峙。
そして——キス。
青は歩きながら小さく息を吐いた。
(……問題は解決した)
それだけだ。
感情の整理など特に必要ない。
合理的に考えれば、ただの事件処理だった。
改札を通り、階段を上がり、ホームに出る。
そこで青は、すぐに見つけた。
長い銀髪。
朝の光を受けて、淡く輝いている。
雪城凛花だった。
星嶺高校の生徒会長。
学年一位。
そして——青の数少ない、自然に会話できる相手。
凛花は青に気づくと、静かに微笑んだ。
「おはよう、青」
青は軽く頷く。
「おはよう」
二人は並んで電車を待つ。
凛花が誰かと通学することは、普段ほとんどない。
生徒会長という立場もあり、周囲から一目置かれている存在だからだ。
だが今日は違う。
青が隣にいる。
ホームには朝の通勤客が増え始めていた。
サラリーマン、大学生、高校生。
人の流れが少しずつ膨らんでいく。
その少し離れた場所。
柱の影から、こちらを見ている男がいた。
帽子を深くかぶり、スマートフォンを手にしている。
男の視線は——凛花に向いていた。
しかし次の瞬間。
男の表情が変わる。
凛花の隣に、見知らぬ男子が立っていることに気づいたからだ。
男は小さく呟く。
「……なんで今日は男と一緒なんだ」
その声には、苛立ちが混じっていた。
「彼氏か……?」
男の指がスマートフォンを強く握る。
しかし青と凛花は、その視線に気づくことはなかった。
やがて、遠くから電車の音が近づいてくる。
ホームにアナウンスが流れる。
電車が滑り込んできた。
ドアが開く。
人の流れに押されながら、二人は車内へ入った。
その瞬間——
青は思わず言葉を漏らした。
「……この時間、こんなに混むのか」
車内は満員だった。
隙間がほとんどないほど人が詰まっている。
凛花は落ち着いた様子で答える。
「ええ、いつもこんな感じよ」
「この時間帯は特にね」
電車が発車する。
ぐっと人の体が揺れた。
その瞬間——
後ろから押される。
青はとっさに腕を伸ばした。
凛花の肩の横に腕を出し、壁を作るように体勢を変える。
凛花の背後にスペースを確保したのだ。
結果として——
二人の距離は、一気に近くなった。
胸と胸が触れそうな距離。
凛花は目を瞬かせた。
「青……?」
青は短く答える。
「問題ない」
「押される」
合理的判断。
ただそれだけ。
しかし。
電車が揺れる。
凛花の体がわずかに青に触れた。
凛花の頬が少し赤くなる。
(ち、近い……)
顔が熱い。
だが、青の表情は変わらない。
青も内心では思っていた。
(……近いな)
しかし状況的に仕方ない。
むしろ守る位置としては合理的だ。
青は周囲を確認しながら立っている。
凛花は少し俯いた。
(守ってくれてる……)
その事実が、妙に嬉しい。
電車が大きく揺れた。
その拍子に凛花の体が青の胸に軽く当たる。
「……っ」
凛花は慌てて体勢を整える。
青は特に気にした様子もない。
「大丈夫か」
「え、ええ……」
凛花は視線を逸らした。
(落ち着きなさい……)
(ただの満員電車よ……)
しかし心臓は落ち着かない。
数駅進み、少しずつ人が降りていく。
車内に空間が生まれた。
青と凛花は自然と向かい合う形になった。
だが距離はまだ近い。
吊革のすぐ内側。
互いの顔がよく見える距離だ。
凛花は少しだけ目を上げた。
青の顔がすぐ目の前にある。
(近い……)
(顔……近すぎる……)
青もわずかに視線を逸らす。
(……落ち着かないな)
沈黙が流れる。
普段なら普通に会話するはずなのに。
今日は妙に言葉が出ない。
電車の揺れ。
レールの音。
それだけが響いていた。
やがてアナウンスが流れる。
「まもなく——星嶺高校最寄り駅——」
青が言う。
「着くな」
凛花
「ええ」
電車が止まる。
ドアが開いた。
二人はホームへ降りる。
朝の光が差し込み、さっきまでの密集した空気が一気に抜けた。
凛花は小さく息を吐いた。
「今日は……大丈夫だったわ」
「ありがとう」
青は頷く。
「今日はな」
少し歩きながら青が言う。
「また明日もよろしく」
凛花の心臓が一瞬跳ねた。
(また明日も……?)
それはつまり。
(毎日……一緒に通学……?)
凛花は表情を崩さないように答える。
「ええ」
だが内心では思っていた。
(毎日一緒に通学できたら……)
(きっと嬉しいわね……)
二人は並んで学校へ向かった。
そして教室。
ドアを開けると——
黒金結愛が元気に手を振った。
「おはよー!」
青
「おはよう」
凛花
「おはよう」
結愛は二人を見て首をかしげる。
「……あれ?」
「二人一緒に登校?」
凛花はすぐに答えた。
「違うわよ」
「たまたま同じ電車だっただけ」
結愛
「ふーん」
少し疑う目。
だがすぐに笑顔に戻る。
「青、昨日はありがとね!」
「また遊びにきてね!」
凛花の思考が止まる。
(遊びに……?)
(昨日はストーカー事件のはずでは……?)
そこへ葉山颯が割り込んできた。
「なになに?」
「昨日、青と結愛ちゃん遊んだの?」
「俺も呼んでよー!」
青は即答する。
「遊んでない」
「仕事だ」
凛花は内心で頷く。
(そうよね)
(生徒会の仕事としてストーカー退治を……)
しかし結愛が笑う。
「えーいっぱい遊んだじゃん」
「乃愛と琉生、めっちゃ喜んでたよ!」
「また会いたいって言ってた」
凛花の頭の中に疑問符が浮かぶ。
(……乃愛?)
(……琉生?)
(新しいギャル……?)
颯が興味津々で聞く。
「やっぱ遊んでたんじゃん!」
「可愛かった?」
青は淡々と答える。
「なりゆきだ」
「乃愛は可愛かった」
結愛は嬉しそうに笑う。
「乃愛に伝えとくね!」
「絶対喜ぶよー!」
凛花の思考はさらに混乱する。
(るいより……のあ派……?)
(黒金さん……それでいいの……?)
完全に誤解が広がっていた。
その時、チャイムが鳴る。
ガラッ。
教室のドアが開いた。
如月雫が入ってくる。
「はい、席につきなさい」
「ホームルームを始めます」
生徒たちは席へ戻る。
授業が始まった。
凛花はノートを開きながら、ふと青の横顔を見た。
(昨日……黒金さんの家に……)
(乃愛……琉生……)
(青は一体、何をしていたの……?)
青はいつも通り無表情で板書を書き写している。
何も変わらない。
しかし凛花の胸の奥には、わずかなモヤモヤが残っていた。
そして——
時間は過ぎ。
授業が終わる。
チャイムが鳴り、教室は放課後の空気に変わる。
凛花は静かに立ち上がった。
(今日も……青と話せるかしら)
そんなことを思いながら。
新しい放課後が、ゆっくりと始まろうとしていた。




