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恋愛偏差値ゼロから始まる青春〜守れなかったものと、救われた心の話〜  作者: nime


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第2話 席替えと距離

# 第2話 席替えと距離


 学級委員が決まったあとの教室には、独特の熱が残っていた。


 さっきまで自分には無関係だと思っていた話題に、急に当事者として名前を刻まれたせいだろう。黒板の右端に書かれた『学級委員 氷凪青 黒金結愛』の文字が、やけに目につく。


 別に誇らしいわけではない。


 ただ、今後の面倒が一つ増えたという事実が、無言でそこにあるだけだ。


 教室のあちこちでは、まださっきの流れを引きずった会話が続いていた。


 「結愛、やったじゃん」


 「まあね」


 「絶対『内申点ほしいです』だけじゃないでしょ」


 「うるさいって真凛」


 黒金結愛は、席へ戻りながら親友の星崎真凛に肘で小さく小突かれていた。真凛は完全に面白がっている顔だ。結愛もいつものように強気に返しているが、耳が少し赤い。本人は隠せているつもりなのかもしれないが、あれは分かるやつには分かる。


 ……いや、別に分かったところでどうもしないが。


 後ろから、葉山颯がシャーペンで俺の肩を軽くつついた。


 「おい、青」


 「何」


 「学級委員、おめでとうございます」


 「別にめでたくない」


 「でも内申点つくんだろ?」


 「それ以外の利点が薄い」


 「らしいねえ」


 葉山は楽しそうに笑った。こいつはいつだって他人事だ。


 「つーか、黒金さんと組むとか、普通の男子ならちょっとテンション上がる場面なんだけど」


 「普通じゃないんだろ、俺は」


 「その自覚があるなら話は早い」


 うるさい。


 俺は机の上に置いた参考書を開こうとして、すぐに手を止めた。教卓の前で、如月先生が次の連絡に移る気配を見せたからだ。


 「はい、私語はそこまで」


 穏やかな声だったが、不思議とよく通る。


 一言で教室が静まるあたり、この先生はやはりすごい。怒鳴らなくても空気を締められる。生徒に舐められないのに、必要以上に威圧的でもない。美人でクールで真面目。しかも説明が上手い。男子人気が高いのも当然だろう。


 「せっかく新しいクラスになりましたし、席替えをしましょう」


 一瞬で、教室の温度がまた変わった。


 「え、もう?」


 「席替えきた!」


 「窓側がいい!」


 「前列だけはやだ……」


 「私、一番後ろがいいなあ」


 「いや先生の目届かなくて逆にこわいでしょ」


 さっきまで『学級委員』という現実的な話題で盛り上がっていた生徒たちが、今度は一気に高校生らしい顔に戻る。席替えは、どこの学校でも妙に空気が動くイベントだ。


 勉強するには前でも後ろでも大差ないと思うが、世の中はそう単純ではないらしい。


 葉山が後ろから身を乗り出してきた。


 「青、隣女子だったらどうする?」


 「別に」


 「夢がない」


 「お前がありすぎなんだ」


 「だって高校三年の春だぞ? 席替えって青春イベントの代表格じゃん」


 「受験生の春だろ」


 「うわ、出たよ模範解答」


 葉山はげんなりしたように言ってから、にやっと口元をゆるめた。


 「でもまあ、青みたいなやつが席替えで修羅場に巻き込まれるのは、それはそれで見てみたい」


 「性格悪いな」


 「褒め言葉として受け取っとく」


 如月先生は教卓の横から小さな箱を取り出した。


 「くじ引きで決めます。窓側から二列、前から順番に。引いた番号の席に移動してください」


 黒板に簡単な座席表が書かれていく。


 六列ではなく、窓側から二列の整った配置。教室の広さに対して人数はやや少なめで、いかにも特進クラスらしいゆとりがある。席間が広いぶん、誰がどこに座るかが余計に目立つ。


 最前列の生徒から順番に、くじ引きが始まった。


 紙を開くたびに、あちこちで声が上がる。


 「うわ、最前列……」


 「いいじゃん、板書見やすいよ」


 「見やすいのは黒板だけで十分なんだけど」


 「窓側きた! 勝った!」


 「一番後ろとか神席じゃん」


 「でも如月先生の授業、一番後ろでも普通に当ててくるよ」


 「それは聞かなかったことにする」


 笑いが起こる。


 教室の中を行き来する音が、春のざわめきみたいに軽い。


 俺の順番が回ってきた。


 箱の中に手を入れると、折りたたまれた紙が何枚も指先に触れた。そのうちの一枚を取り出して開く。


 窓側、前から三番目。


 悪くない。


 前すぎず、後ろすぎず。集中するにはちょうどいい位置だ。


 俺は鞄を持って移動した。


 窓際から見える校庭には、散り始めた桜がまだ少し残っている。春の光が机の端に淡く差し込んで、白い木目をやわらかく照らしていた。


 席につき、参考書と筆箱を机の中へしまう。そのとき、右隣の席に鞄が置かれる音がした。


 顔を上げる。


 「あ、隣だ」


 黒金結愛だった。


 金髪メッシュの入った髪を指で軽く払って、彼女は机に鞄を置く。派手な見た目の割に、仕草そのものは意外と丁寧だ。キーホルダーの多いペンケースが机の上で小さく跳ねる。


 「氷凪くん、隣よろしくね」


 明るく、屈託のない笑顔。


 「よろしく」


 短く返す。


 それ以上話すこともないと思って、そのまま参考書を机の上に出した。


 黒金は俺の手元を見て、少しだけ目を丸くする。


 「え、もう勉強するの?」


 「するけど」


 「今?」


 「今」


 「席替え終わったばっかだよ?」


 「だから」


 「……氷凪くんって、思ってたよりずっと氷凪くんだね」


 「意味が分からない」


 「いや、なんかこう……想像の中の受験生って感じ」


 「受験生だからな」


 黒金は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出すように笑った。


 「そっか。うん、正論」


 その笑い方は、ギャルっぽい見た目に反してどこか素直だった。


 席替えはまだ続いている。


 その少しあと、右斜め前の席に誰かが座った。


 艶のある銀髪が、椅子を引く動きに合わせてさらりと揺れる。


 雪城凛花。


 彼女の席は、黒金の前。


 つまり俺から見れば、斜め右前。


 真正面ではない。けれど、視界に入ろうと思えば自然と入る距離だった。


 さらにその直後、後ろの席にどさっと座る音がした。


 「お、マジか」


 葉山だ。


 椅子の背にもたれながら、周囲を見回してにやにやしている。


 「青、すごい配置になったな」


 「何が」


 「右隣に黒金さん、斜め右前に雪城さん、後ろに俺」


 「最後いらない」


 「ひど」


 「そこは同意」と黒金が笑う。


 葉山はわざとらしく胸を押さえた。


 「二人して俺に厳しくない?」


 「葉山だからね」


 黒金の返答は早かった。


 「納得の速さやめて?」


 教室のどこかでまた笑いが起こる。席替え直後のクラスは、普段より会話のハードルが低い。


 如月先生はそんな様子を止めるでもなく、全員の移動が終わるまで教卓の前で静かに待っていた。こういう緩急のつけ方が上手いのだろう。締めるところは締めるが、生徒同士の空気が自然に回る場面では必要以上に口を出さない。


 全員の席が決まったところで、黒板に座席表が書き直されていく。


 俺の位置。


 右隣に黒金結愛。


 斜め右前に雪城凛花。


 真後ろに葉山颯。


 ……面倒なことになったな。


 そう思ったのは、賑やかになるからというより、視界と音が落ち着かなそうだからだ。右からは話しかけられそうで、後ろからは茶々が飛んできそうで、斜め前には学年一位がいる。


 集中できるかどうかだけが問題だ。


 「でもさー」


 黒金が机に肘をつきかけて、途中でやめた。たぶん如月先生の視線を思い出したのだろう。


 姿勢を正してから、少し声を落として続ける。


 「学級委員で隣って、なんかちょっとやりやすいかもね」


 「そうか?」


 「だって連絡取りやすいじゃん」


 「まあ」


 それは確かにそうだ。


 「ほら、プリント回すときとか、先生に呼ばれたときとか、いちいち探さなくていいし」


 「合理的だな」


 「でしょ?」


 黒金は得意げに笑った。


 こうして話してみると、見た目の印象ほど勢いだけで生きているわけではない。むしろ、会話の組み立て方は意外とちゃんとしている。


 葉山が後ろから口を挟む。


 「黒金さん、青の扱い分かってるじゃん」


 「何それ」


 「この人、『受験に役立つ』って言えばだいたい話聞くから」


 「それは知ってる」


 「知ってるんだ」


 「さっき見たし」


 黒金がさらっと言う。


 学級委員を引き受けた流れのことだろう。


 葉山は面白そうに笑った。


 「観察眼あるねえ」


 「葉山ほどじゃない」


 「俺は洞察力の塊だから」


 「軽薄の間違いでは」


 斜め右前から、静かな声が入った。


 雪城凛花だ。


 葉山が「うわ」と肩をすくめる。


 「雪城さん、今の聞こえてた?」


 「これだけ近ければ聞こえるでしょう」


 凛花は振り返らずに言った。背筋はまっすぐで、机の上に置かれた手元も乱れがない。話に参加しているのに、どこか一歩引いた静けさがある。


 黒金は少し嬉しそうに身を乗り出した。


 「雪城ちゃん、思ったよりちゃんと会話してくれるんだね」


 「失礼ね」


 「いや、なんかもっと、こう……近寄ると凍らされる系かと」


 「人を何だと思っているの」


 その返しに、葉山が笑いをこらえきれなくなる。


 教室の空気が少しだけやわらいだ。


 凛花は無表情に見えて、案外こういう会話を切り捨てない。


 ただ、自分から積極的に輪の中心へ入るタイプではないだけだ。


 そして今、彼女は落ち着いた顔をしながらも、内心では少しだけ困っていた。


 黒金は、自然に氷凪と話している。


 途切れない会話。


 ためらいのない距離。


 それが少し羨ましい。


 凛花は一年生の頃から、同じ学年にいる氷凪青という存在を意識していた。


 学年二位。無口。人付き合いを必要最低限で済ませるくせに、誰かが困っているといつの間にかさりげなく手を貸している。目立つことを避けているようでいて、結果として目立ってしまう人間。


 何度か話してみたいと思ったことはある。


 けれど、きっかけがなかった。


 凛花自身も、得意ではないのだ。何でもそつなくこなせるように見られがちだが、雑談だけは昔から苦手だった。何を話せば自然なのか分からない。変に意識すると、余計に言葉が出てこなくなる。


 だから今も、斜め後ろで交わされている青と黒金の会話を聞きながら、心の中で小さく羨ましがることしかできない。


 (いいな……)


 (私も、もう少し普通に話せたらいいのに)


 表情には出さない。


 出したつもりもない。


 だが、机の上に置いた指先がほんのわずかに動いたことを、もし誰かが見ていたなら気づいたかもしれない。


 黒金はペンケースを机の端に置き直すと、またこちらを見た。


 「氷凪くんって、志望校どこなの?」


 「東都大学」


 即答だった。


 黒金は一拍置いてから、ふっと笑う。


 「やっぱり」


 「何が」


 「いや、なんか氷凪くんって最初からそこしか見てなさそうだから」


 「実際そうだし」


 「ぶれないねえ」


 「黒金は?」


 聞き返すつもりはなかったが、会話の流れでそうなった。


 黒金は少し意外そうな顔をして、それから嬉しそうに口元をゆるめる。


 「一応、私も東都大」


 「へえ」


 「『へえ』だけ?」


 「そうなんだなって」


 「もっとこう、応援するとかないの?」


 「頑張れ」


 「雑っ」


 葉山が後ろで笑いを漏らす。


 「でも珍しいじゃん、黒金さん。東都大志望なんて初耳かも」


 「言ってないだけ」


 「なんで?」


 「見た目でバカだと思われがちだから」


 それは冗談半分だろうが、半分は本音かもしれない。


 実際、教室の何人かもその会話に反応していた。


 「黒金さん東都大なんだ」


 「すご」


 「意外じゃない? いや失礼だけど」


 「だからそういうのあるじゃん」


 黒金は肩をすくめる。


 「まあ、言われ慣れてるからいいけど」


 それでも声音は明るかった。


 無理をしている感じはない。ただ、軽く見られることにも慣れているのだろう。


 凛花はその会話を聞きながら、少しだけ視線を落とした。


 彼女もまた、言葉にしようとして飲み込む。


 (……私も、東都大学なのだけれど)


 もちろん、言おうと思えば言える。


 けれど、今ここでわざわざ自分から会話に入っていくのは、なぜか難しかった。黒金の自然な流れの中へ、自分だけが後から入るのは不器用さを晒すみたいで、ほんの少しだけ怖い。


 その沈黙を、葉山が軽い調子で破った。


 「そういえばさ、雪城さんって全国模試一位常連だよね」


 空気が一瞬で変わる。


 教室の近くの席の連中まで「え?」と反応した。


 黒金が目を見開く。


 「マジで?」


 俺も驚いて、斜め右前を見る。


 校内一位なのは知っていた。だが、全国模試までそのレベルだとは知らなかった。


 凛花は少しだけ間を置いてから、静かな声で答える。


 「常連というほどではないわ」


 「いや、十分でしょそれ」


 葉山が即座に突っ込む。


 黒金は素直に感心していた。


 「え、すご……。私、全国模試って一桁載っただけでも騒ぐやつかと思ってた」


 「騒ぐのは自由でしょう」


 「雪城ちゃんは騒がなそう」


 「騒がないわね」


 「だよね」


 黒金がけらけらと笑う。


 そのやり取りに、周囲もどこか納得したような空気になる。


 葉山は面白そうに俺をつついた。


 「青、ライバル近くにいるけど感想は?」


 「別に」


 「出た、無感情」


 「感情がないとは言ってない」


 「じゃああるんだ」


 「うるさい」


 凛花はその会話の続きに、小さく息を整えたあとで言った。


 「氷凪くん」


 名前を呼ばれて、俺は顔を上げる。


 凛花は振り返りはしなかったが、少しだけ横顔をこちらへ向けていた。


 「分からないところがあったら、教えるわよ」


 さらっとした口調。


 だが、教室の空気がほんの少しだけ止まる。


 黒金が「おお」と目を丸くし、葉山がにやにやし始める。


 俺は短く答えた。


 「大丈夫です」


 間髪入れずに。


 葉山が後ろで吹き出した。


 「冷たっ」


 黒金も苦笑する。


 「氷凪くん、それはちょっと冷たくない?」


 「今のままで足りてる」


 「いや、そういう問題じゃなくて」


 凛花は一瞬だけ黙った。


 失敗したかもしれない、と胸の奥で思う。


 せっかく自分から言えたのに、あっさり断られた。


 もちろん、表情には出さない。


 出さないが、内心はほんの少しだけへこんでいた。


 (……そうよね。いきなりすぎたかしら)


 (でも、断り方が本当に氷凪くんらしい……)


 黒金はそのやり取りを見て、少しだけ複雑な気分になる。


 雪城凛花。


 成績一位、見た目も完璧、育ちも良さそうで、男子からも女子からも一目置かれている存在。


 そんな相手が、自分から氷凪に話しかけた。


 その事実に、ちくりと胸のどこかが反応した。


 けれど次の瞬間、氷凪が一刀両断したので、妙に安心してしまった自分もいる。


 (この人、本当に誰に対してもこうなんだ……)


 それはそれでおかしくて、黒金は少し笑いそうになる。


 葉山は楽しそうに会話を転がした。


 「青ってさ、ほんと勉強以外に興味ないよな」


 「そんなことはない」


 「じゃあ何に興味あるの」


 「……」


 答える前に、葉山が先に言った。


 「勉強と妹」


 その瞬間、俺は振り返って葉山を睨んだ。


 葉山は「やべ」と言いながらも、どこかすまなそうではあった。


 黒金が目を丸くする。


 「妹いるの?」


 「いる」


 「何歳?」


 「高二」


 「へえ……」


 黒金の声が少しやわらかくなる。


 「うちも弟と妹いるから、なんか分かるかも」


 「そうか」


 「氷凪くん、お兄ちゃんしてるんだ」


 「別に普通だ」


 「普通って言う人ほどちゃんとしてるんだよね」


 「それは偏見だろ」


 「でも、なんか分かる」


 黒金は笑う。


 その会話を、凛花は静かに聞いていた。


 (妹……)


 氷凪くんの家族の話。


 初めて聞く情報だった。


 どんな子なのだろう。似ているのだろうか。氷凪くんが気にかけるくらいだから、きっと大切にしているのだろう。


 そんなことを考えてしまう自分に、凛花は少しだけ戸惑う。


 まだほとんど話したこともない相手なのに、知りたいと思ってしまう。


 それはたぶん、あまり合理的ではない。


 けれど、そういう理屈で割り切れない感情があることくらい、凛花だって知っていた。


 窓の外で、風が桜の花びらをひとひら運んでいく。


 それを見たのと同じタイミングで、如月先生が教卓を軽く叩いた。


 「はい、席も決まりましたね」


 教室がすっと静かになる。


 「では、今日から通常通り授業を始めます。三年生最初の授業だからといって手加減するつもりはありませんので、そのつもりで」


 何人かが小さく息を呑む。


 如月先生は淡々と、けれどどこか楽しげですらある調子で続けた。


 「席替えで盛り上がる気持ちは分かります。でも、皆さんがここにいる理由はそれだけではないでしょう」


 その一言で、教室の空気が引き締まる。


 さっきまでのざわめきが、すっと収束していくのが分かった。


 「教科書を出してください。現代文から始めます」


 一斉に、鞄や机の中から教科書が取り出される。ページをめくる音、筆箱を開ける音、椅子を引き直す音。そうした小さな生活音が重なり合って、教室は授業の形へ戻っていく。


 俺はすぐに教科書とノートを開いた。


 右隣では黒金が急いでルーズリーフを引っ張り出し、斜め右前では凛花がすでに準備を終えて静かに黒板を見ている。後ろでは葉山が「やべ、赤ペン忘れた」と小声で言っていたが、たぶん誰かから借りるのだろう。


 授業が始まる。


 如月先生の板書はきれいで、説明は無駄がない。読みの間の取り方も上手い。眠くならない授業をする教師は貴重だ。


 それでも、席替え直後の教室というのは、普段よりも少しだけ落ち着かない。視線の動きや気配に、どこか新しさが残っている。


 黒金は授業中こそ真面目だった。ノートの取り方も丁寧で、言葉の要点を掴むのが早い。見た目で判断するとたぶん損をするタイプだ。


 凛花は言うまでもなく隙がない。板書を写す速さも、先生の問いかけに反応するタイミングも正確だった。


 そして、そんな二人に挟まれた……いや、正確には、右隣と斜め右前に存在を感じながら、俺はひたすら授業に集中する。


 それが一番余計なことを考えなくて済む方法だった。


 午前の授業が終わり、短い休み時間になる。


 葉山が後ろからすぐに身を乗り出した。


 「青、今の席どう?」


 「普通」


 「その普通、信用ならないんだよな」


 「なら聞くな」


 黒金が笑う。


 「氷凪くん、だいたい全部普通って言うよね」


 「普通だからな」


 「じゃあ好きな食べ物は?」


 「普通」


 「絶対質問の意味分かってないでしょ」


 「分かってる」


 「分かったうえでそれなの?」


 「そう」


 葉山が腹を抱えて笑う。


 「黒金さん、青との会話は諦めた方が早いかも」


 「やだ、面白いもん」


 「面白い判定なんだ」


 黒金は肩をすくめる。


 「だって、見た目めちゃくちゃ冷たいのに、ちゃんと答えてはくれるし」


 「青ってそういうとこあるよね。無愛想だけど会話は切らない」


 「優しいの?」


 「どうだろ。たぶん性格的に、無視しきれないだけ」


 余計なお世話だ。


 だが、否定しづらいのも事実だった。


 凛花はその会話を聞きながら、少しだけ安心していた。


 氷凪が黒金にだけ特別に対応しているわけではない。ちゃんと会話しているが、特別近いわけでもない。


 そのことにほっとする自分がいて、同時に、そんなことに安心してしまう自分を少しだけ可笑しく思う。


 昼休みには、席替えの影響がさらに表に出た。


 近くの席同士で机を寄せる者、購買へ走る者、すでに単語帳を開く者。三年A組はにぎやかすぎはしないが、静かすぎるわけでもない。特進クラス独特の、落ち着いた温度感がある。


 黒金は弁当箱を開きながら、ふと俺を見た。


 「氷凪くん、お昼も勉強するタイプ?」


 「する日もある」


 「今日は?」


 「まだ決めてない」


 「じゃあ今決めて」


 「なんで」


 「話しかけていいか分かんないから」


 その言い方はあまりにもまっすぐで、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。


 葉山が後ろで「おお」と面白そうな声を出す。


 「……別に、話しかけるくらいなら自由だろ」


 そう答えると、黒金はぱっと笑った。


 「よし、許可もらった」


 「大げさだ」


 「大事だよ。氷凪くん、静かな時間の縄張り強そうだし」


 「犬か」


 「たとえ上手いじゃん、葉山」


 「俺言ってない」


 また笑いが起きる。


 斜め右前では、凛花が静かに弁当箱の包みを開いていた。会話に混ざりたいわけではない。……たぶん、そうではない。


 ただ、こうして斜め後ろから聞こえてくる何気ない会話が、思っていたより心地いいことに少し驚いていた。


 青の低い声。


 黒金の明るい返し。


 葉山の軽口。


 その三つが不思議と噛み合って、クラスの春の空気を形にしている。


 午後の授業が終わる頃には、新しい席の違和感はだいぶ薄れていた。


 人は案外、席ひとつで簡単に慣れていく。


 放課後。


 終礼が終わると、教室は一気に帰り支度の音で満たされた。椅子を引く音、机を閉じる音、鞄のファスナーを上げる音。夕方の光が窓から差し込み、教室の空気を少しだけ金色に変える。


 黒金は鞄を肩にかけながら、こちらを見た。


 「氷凪くん、また明日ね」


 「うん」


 「学級委員のこと、なんかあったら言って」


 「分かった」


 「よし」


 満足そうに笑って、黒金は真凛と一緒に教室を出ていく。


 斜め右前では、凛花が静かにノートを揃えていた。帰る準備をしているだけのはずなのに、その動作一つひとつが妙に整って見える。


 ふと、彼女が小さくこちらへ目を向けた。


 また一瞬だけ目が合う。


 けれど今度は、朝みたいにすぐ逸らされなかった。


 凛花はほんのわずかに会釈して、それから立ち上がる。


 俺も特に意味なく、軽く頷き返していた。


 葉山がそれを見逃すはずもない。


 「今の何?」


 「何が」


 「いやいや、雪城さんと自然にアイコンタクト成立してたけど」


 「大げさだ」


 「青にしては進歩だよ」


 「何の」


 「青春の」


 「要らない」


 葉山はけらけら笑った。


 「でもさ、今年のクラス、絶対面白くなるって」


 「そうでもないだろ」


 「いや、なる。断言できる」


 「根拠は」


 「俺の勘」


 「信用できないな」


 「ひどい。でもだいたい当たるんだよ、俺の勘」


 その言葉を適当に聞き流しながら、俺は窓の外を見る。


 校庭の向こう、夕焼けに染まる桜の木が見えた。朝よりも花びらが少し減っている気がする。


 高校三年生の春。


 たった一回の席替えで人生が変わるわけじゃない。


 そんなことは分かっている。


 けれど。


 少なくとも今日から、教室の景色は少し変わった。


 右隣には、明るく距離を詰めてくる黒金結愛。


 斜め右前には、話したそうで話せない雪城凛花。


 後ろには、無駄に騒がしい葉山颯。


 そして俺は、その真ん中で、できるだけいつも通りでいようとする。


 それがどこまで通用するのかは、まだ分からない。


 教室を出る直前、スマホが短く震えた。


 陽葵からだった。


 【お兄ちゃん、今日どうだった?】


 いつもの、短くて明るいメッセージ。


 俺は少しだけ考えてから、打ち込む。


 【席替えした】


 送る。


 すぐに返事が来た。


 【それ絶対なんかあったやつ】


 思わず、ほんの少しだけ口元が緩む。


 【別に】


 そう返してスマホをしまうと、葉山が不思議そうな顔でこちらを見ていた。


 「今、笑った?」


 「気のせいだ」


 「いや絶対笑った」


 「帰るぞ」


 「誤魔化したなー」


 うるさい。


 けれど、そのうるささすら、今日は少しだけ遠く感じた。


 新しい席。


 新しい距離。


 新しい春。


 高校三年生の一年は、まだ始まったばかりだった。


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