第14話 恋人のフリ
# 第14話 恋人のフリ
放課後。
結愛との話を終えたあと、氷凪青は一度、生徒会室へ戻ってきていた。
廊下には、すでに下校する生徒たちの足音がまばらに響いている。窓の外では、運動部の掛け声が遠く聞こえ、夕方の光が校舎の白い壁を薄く染めていた。
青は生徒会室の扉の前で一瞬だけ立ち止まり、軽くノックしてから中へ入る。
生徒会室の中は静かだった。
数分前まで青と凛花が一緒に作業していた机の上には、まだ書類が広がっている。コピー用紙の端を押さえる透明な文鎮、開いたままのファイル、整然と並べられたペン。生徒会長らしい几帳面な空気が、そのまま部屋の中に残っていた。
雪城凛花は机に向かっていたが、扉の音で顔を上げた。
「……氷凪くん?」
予想していなかったのだろう。ほんの少しだけ目を見開く。
青は短く言った。
「雪城さん。すみません、急用ができました。今日は先に帰ります」
凛花は一瞬だけ視線を揺らした。
「急用、ですか」
「はい」
青の返答は簡潔だった。だが、いつもの簡潔さの中に、今日は少しだけ急ぎの気配がある。
凛花はすぐにそれを感じ取った。
「……わかりました」
「すみません」
「いえ」
青は軽く頭を下げ、そのまま踵を返す。
けれど、扉に手をかける直前で、ふと動きを止めた。
「……あ」
振り返る。
凛花が書類を持ったまま首を傾げた。
「どうしましたか?」
青はわずかに間を置いてから言った。
「雪城さん、相談があると言っていましたよね」
その言葉に、凛花の肩がほんの少し揺れた。
「……ええ」
「急ぎですか」
凛花は言葉に詰まる。
本当を言えば、急ぎではない。
けれど、先延ばしにしたい相談でもなかった。
中間試験の順位発表のあと、ようやく作れた二人きりの時間。そこでも結局言い出せず、今日こそはと思っていた。
それでも——今の青に呼び止めるようなことはしたくなかった。
青は今、明らかに誰かのために動こうとしている。その表情を見ればわかる。
「……明日でも大丈夫です」
凛花はそう言った。
言ってから、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
青は静かに頷く。
「すみません。では、明日。必ず」
「はい」
青はもう一度軽く頭を下げ、生徒会室を出ていった。
扉が閉まり、部屋の中に静寂が戻る。
紙をめくる音も、ペンを走らせる音も、しばらく生まれなかった。
凛花は立ったまま、閉じた扉を見つめる。
「……急用」
ぽつりと呟く。
思い出すのは、少し前の光景だった。
黒金結愛が、生徒会室に顔を出したこと。
そして、青がそのまま彼女と一緒に出ていったこと。
黒金結愛。
明るくて、誰とでも距離が近くて、教室の中心にいるような女の子。
自分とは正反対のタイプ。
凛花は自分でも気づかないうちに、書類の端を少し強く掴んでいた。
(……あんなに急いで)
(黒金さんと何かあったのかしら)
数秒、沈黙。
脳裏に浮かんだ言葉に、自分で驚く。
(……まさか)
(デート?)
「……っ」
凛花ははっとして、小さく息を呑んだ。
自分で考えて、自分で動揺する。
「……私は何を考えているの」
低く呟き、視線を逸らす。
そんなはずはない。
氷凪青は、そういう人ではない。
それに、黒金結愛の相談かもしれない。急ぎの事情なのかもしれない。そう考える方が自然だ。
頭ではそう理解している。
けれど、胸の奥のざわめきは、理屈だけでは収まらなかった。
凛花はゆっくり椅子に腰を下ろす。
開いたままの書類に目を落としたが、文字が頭に入ってこない。
青が「明日。必ず」と言った声だけが、妙にはっきり耳に残っていた。
「……必ず、か」
そう呟いて、凛花はそっと書類を閉じた。
今日はもう、これ以上集中できそうになかった。
◇◇◇
校門の前では、結愛がスマートフォンを見ながら立っていた。
だが、画面に映るメッセージを本当に読んでいるわけではない。視線はしょっちゅう校舎の方へ向き、またスマホに戻る。それを何度も繰り返している。
(まだかな……)
さっきは勢いで平気な顔をして別れたけれど、実際のところ、少し心細かった。
相談したことで少し楽にはなった。
けれど、ストーカーかもしれない相手が今もどこかで見ているかもしれない、という事実は消えない。
そんな状態で一人で校門に立っていると、どうしても周囲の視線が気になる。
誰かが通るたびに反応してしまいそうになる自分が、少し嫌だった。
その時。
「待たせた」
後ろから、聞き慣れた低い声がした。
結愛は勢いよく振り返る。
「青」
顔を見た瞬間、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「ごめん、待った?」
「いや」
青はいつもの表情のまま首を横に振る。
「生徒会室に戻っていただけだ」
「そっか」
結愛は笑ってみせた。
「ううん、今来たとこ」
ありがちな返しだな、と自分で思ったが、青は特に気にした様子もない。
「そうか」
それだけ言って、自然に歩き出す。
結愛もその隣に並んだ。
校門を出て、通学路へ入る。
夕方の空は、少しずつ橙色を深くしていた。部活帰りの生徒たちが前後を通ることもあるが、少し離れると人通りはぐっと減る。
並んで歩いているだけなのに、結愛は妙に意識してしまう。
さっき自分で「青しか頼れない」と言った。
あれは本音だった。
家族には心配をかけたくない。先生に言うのはまだ大ごとにしたくない。友達に相談したら、それこそ真凛あたりはすぐ騒ぎそうだし、余計に不安にさせる。
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのが青だった。
不思議だった。
冷たく見えることもあるし、口数だって少ない。なのに、いざという時に一番頼れるのが青だと、結愛はもう知ってしまっていた。
しばらく無言が続いたあと、青が口を開く。
「結愛」
「ん?」
「嫌かもしれないが」
結愛は首を傾げる。
「なに?」
青は周囲を一度見てから言った。
「もう少しくっついて歩いてくれ」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
だが、青は落ち着いた声で説明を続ける。
「ストーカーがいる可能性が高いなら、こっちが一人ではないと見せた方がいい」
「恋人と一緒にいるように見えれば、抑止力になるかもしれない」
結愛の心臓が、大きく跳ねた。
(恋人……!?)
(ちょ、待って待って)
(言ってることはわかる。わかるけど)
(それを青の口から言われるの、破壊力やばいんだけど……!)
頭の中では大騒ぎなのに、表面上は何とか平静を装う。
「……わ、わかってるわよ」
そう返しながら、結愛は青の腕に手を伸ばした。
最初は遠慮がちに触れて、それから意を決して、ぎゅっと絡ませる。
ぴたりと距離が詰まる。
青の腕越しに感じる体温。
制服越しでもわかる硬さ。
結愛の頬が一気に熱くなる。
けれど、驚いたのは青も同じだったらしい。
「……」
ほんのわずかに肩が固まる。
結愛はそれを見逃さなかった。
「何、その反応」
「いや」
「近かった?」
「……近い」
「青がくっつけって言ったんじゃん」
「言った」
「じゃあ文句言わない」
「文句ではない」
青はそう言いながらも、耳が少し赤くなっていた。
その変化に気づいた結愛は、思わず笑ってしまう。
「ふふっ」
「何だ」
「別に」
「そうか」
青はそれ以上追及しない。
だが結愛の方は、もう少しこの状況を楽しみたくなっていた。
「ねえ、青」
「なんだ」
「こういうの慣れてるの?」
青が首を傾げる。
「こういうの?」
「恋人のフリ」
その瞬間、青はかなりはっきりした口調で言った。
「慣れてるわけないだろ」
「彼女いたことないし」
結愛は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そっか」
その一言だけで、なんだか胸が軽くなる。
自分でも単純だと思う。
でも、嬉しいものは嬉しい。
結愛はわざと少し意地悪そうな顔をした。
「でもさ」
「何だ」
「この前やってたよね?」
「……何を」
「恋人のフリ」
青は数秒黙った。
そのわずかな間だけで、結愛には答えがわかった。
「ほら、紬ちゃんと」
「……」
「紬ちゃんの仲間外れ解決するためにさ」
「彼氏っぽく振る舞ってたじゃん」
青は真顔のまま前を向いている。
結愛は少しだけ口元を緩めた。
「慣れてないって言う割には、あの時けっこうサマになってたけど?」
「あれは……」
青がようやく口を開く。
しかし、続く言葉はひどく曖昧だった。
「……あれはあれだ」
結愛は吹き出した。
「なにそれ!」
「説明になってないんだけど!」
「状況が違う」
「どう違うの?」
「紬の時は、あいつの学校復帰が優先だった」
「今は」
青は少しだけ視線を横に向ける。
「結愛の安全確保だ」
結愛は一瞬、笑うのを忘れた。
そんなふうに真面目な顔で言われると、心臓に悪い。
「……ふーん」
なんとかそれだけ返して、さらに青の腕に体を寄せる。
青の足がわずかに止まりそうになる。
「おい」
「対策だから」
「……そうか」
「なに、嫌?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあいいでしょ」
結愛は得意げに言う。
青は小さく息を吐いた。
それが諦めなのか受け入れなのかはわからない。けれど、腕を振りほどこうとはしなかった。
その事実だけで、結愛は十分幸せだった。
(やば……)
(これ、恋人のフリっていうか、私が一人で舞い上がってるだけじゃん)
そんなことを思いながらも、離れる気にはなれない。
青の隣は不思議と安心する。
それはさっき相談を聞いてもらったからだけではなくて、もっと前から少しずつ積み重なってきたものなのだろうと、結愛はぼんやり思った。
少し歩いたところで、青が低く言った。
「結愛」
「ん?」
「周囲を見ろ」
「え?」
「気配を感じたら、すぐ言え」
結愛はきょとんとする。
「今、いると思う?」
「断定はできない」
青は周囲の家並みや電柱、交差点の先まで視線を走らせながら続ける。
「でも、あいつが実際についてきているなら、今日も来る可能性は高い」
さっきまで少し浮かれていた結愛の気持ちが、すっと現実へ引き戻される。
「……そっか」
「怖いか」
青の問いは短かった。
結愛は少しだけ迷ってから、正直に言う。
「……うん」
青はそれ以上何も言わない。
ただ、歩く速度をわずかに落とした。
自然に、結愛が置いていかれないように。
そのさりげなさに、結愛は胸が熱くなる。
「青」
「なんだ」
「ありがと」
「まだ何も終わってない」
「そういうとこ」
「何がだ」
「……やっぱいい」
結愛は苦笑した。
青は本当に、自分がどれだけ人を救っているのか、まるで自覚がない。
◇◇◇
そんな二人の後方。
少し離れた電柱の陰に、人影があった。
スマートフォンを握る手が、じっと二人を追っている。
画面には、腕を組んで歩く結愛と青の姿。
「……なんだ、あいつ」
低い声が漏れる。
スマホを持つ指先に力がこもる。
「僕の結愛ちゃんに」
「なんであんなに……」
言葉の最後は、怒りと粘ついた執着に溶けた。
画面を指で拡大する。
結愛が笑っている。
青に寄り添いながら。
その光景が、ひどく気に入らない。
「ベタベタして」
「調子に乗るなよ……」
小さなシャッター音。
カシャ。
また一枚、写真が増える。
男は少しだけ場所を変え、再び二人を追った。
目立たないように、一定の距離を保ちながら。
その視線には理性より先に、歪んだ独占欲が滲んでいた。
◇◇◇
「……ねえ、青」
「なんだ」
「もしさ」
「うん」
「ほんとに後ろからついてきてたら、どうするの?」
歩きながら、結愛は小さな声で尋ねた。
青は即答しなかった。
数秒だけ考えてから、答える。
「まずは相手を確認する」
「そのあと?」
「状況次第だ」
「曖昧」
「相手の出方がわからない以上、断定的な行動は危険だ」
「……なるほど」
結愛は頷いたあと、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でもさ、青って、いざとなったら私のこと守ってくれそうだよね」
「相談を受けた以上、守る」
それは、あまりにも迷いのない答えだった。
結愛は思わず足を止めかける。
「……そういうの、普通に言うんだ」
「事実だからな」
「事実でも、普通はそんなサラッと言えないの」
「そうか」
「うん」
青は理解したような、していないような顔で前を向いている。
結愛はそっと笑った。
(ほんとにずるい)
(そういう顔で、そういうこと言うの)
頬の熱がまた戻ってくる。
結愛は誤魔化すように話題を変えた。
「そういえばさ、青ってほんとに恋愛興味ないよね」
「ない」
「即答だ」
「今は必要ない」
「勉強優先?」
「それもある」
青の横顔は淡々としていた。
だが、その言葉の奥にある理由を、結愛は全部は知らない。
妹のことも、家のことも、青はあまり人に話さない。
だからこそ、余計に知りたくなる時がある。
でも今は、それを聞く場面ではないと思った。
「まあ、青らしいか」
「そうか」
「でもね」
「なんだ」
「青が彼氏だったら、たぶん安心感すごいと思う」
青が少しだけ視線を動かした。
「意味がわからない」
「そこだよ」
「どこだ」
「そういうとこ」
「よくわからない」
結愛は堪えきれずに笑った。
「ははっ。もういいや」
青は首を傾げるだけだ。
会話は噛み合っていないようで、どこかちゃんと繋がっている。
その不思議な心地よさに、結愛は少しだけ救われていた。
◇◇◇
住宅街に入る。
道はだんだん静かになり、人通りも減った。
夕暮れの色が濃くなっていく。家々の窓には明かりがつき始め、どこかの家から夕食の匂いが漂ってくる。
結愛はその空気に、いつもなら安心するはずだった。
けれど今日は、逆にそれが怖かった。
ここには乃愛と琉生がいる。
母親が帰ってくる前に二人で家にいることもある。
もし本当に変な相手がこの辺まで来ているのだとしたら。
もし家を特定されていたら。
もし、自分だけじゃなく、家族にまで目を向けられたら。
その想像は、何度考えても慣れなかった。
結愛の腕に、少し力がこもる。
青はそれに気づいたらしい。
「どうした」
「……いや」
「顔色が悪い」
「そんなことない」
「ある」
短く断言されて、結愛は苦笑した。
「青ってこういう時、変に鋭いよね」
「見ればわかる」
「……そっか」
結愛は少しだけ唇を噛んだ。
ここでまた弱音を吐くのは格好悪い気もした。
でも、青になら言ってもいいかもしれない、とも思った。
「……家、近いから」
「うん」
「だから逆に、ちょっと怖くなってきた」
青は黙って聞いている。
急かさないし、余計な相槌も打たない。ただ、ちゃんと聞いている気配だけがある。
それが、結愛には話しやすかった。
「私さ、手紙とか写真の時は、まだ我慢できたんだよ」
「自分が気持ち悪い思いするだけなら、なんとかなるかなって」
「でも……」
声が少し揺れる。
「もし、乃愛とか琉生に何かあったらって思うと……」
そこで言葉が詰まった。
視界が滲む。
結愛は慌てて目を逸らしたが、もう遅かった。
ぽろりと涙が落ちる。
「……ごめん」
声がうまく出ない。
「私、ほんとダサいよね」
「さっきから泣いてばっかで」
「全然、平気じゃないくせに」
結愛は笑おうとしたが、失敗した。
「家族に危険が及ぶの、ほんと無理で……」
「乃愛も琉生も、まだ小さいし」
「もし何かあったらって思うと……」
言い切る前に、また涙がこぼれる。
腕を組んだままだったせいで、うまく顔も隠せない。
結愛は自分でも困っていた。
こんなふうに泣くつもりじゃなかった。
青の前では、少しはいつも通りでいたかった。
けれど、口にしてしまうと駄目だった。
青は足を止める。
結愛もつられて立ち止まった。
住宅街の角。
電柱の脇。
人通りはない。
青は結愛の顔を見て、それから静かにポケットからティッシュを取り出した。
「使え」
「……ありがと」
受け取ったティッシュで目元を押さえる。
青は少しだけ考えるように黙ったあと、低く言った。
「大丈夫だ」
結愛が顔を上げる。
青の表情はいつもと変わらない。
けれど、その声は妙に真っ直ぐだった。
「結愛の家族には近づかせない」
「俺が対処する」
大きな声ではない。
熱く叫ぶような言い方でもない。
ただ、当然のことを確認するように。
それでも、その一言は結愛の胸に深く落ちた。
「……青」
「何だ」
「そういうの、さらっと言うの、反則」
「反則?」
「うん」
結愛は涙で濡れた目のまま、少しだけ笑った。
「めちゃくちゃかっこいいから」
青は少しだけ視線を逸らした。
「事実を言っただけだ」
「その事実がかっこいいの」
「よくわからない」
「だろうね」
結愛は鼻をすする。
泣きながら笑うみたいな、変な顔になっている自覚はあった。
でも、さっきまで喉の奥に詰まっていた恐怖は、少しだけ軽くなっていた。
青がいる。
それだけで、全部は無理でも、少なくとも一人ではないと思えた。
「歩けるか」
「うん」
「無理なら少し休む」
「そこまでじゃない」
「そうか」
青は短く頷く。
結愛は一度深呼吸してから、もう一度青の腕にしがみついた。
「……おい」
「対策だから」
「さっきより強い」
「今は怖かった後だから、これくらい必要なの」
「理屈がおかしい」
「青にだけは言われたくない」
「なぜだ」
「自分で気づいてないからなおさら」
結愛はそう言って、少しだけ青の肩に頭を寄せた。
青の身体がまたわずかに固まる。
「……近い」
「だから対策」
「それで通す気か」
「通す」
青は数秒黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった」
諦めたらしい。
その反応が可笑しくて、結愛はくすっと笑う。
笑えるなら、まだ大丈夫だと思えた。
◇◇◇
その様子を、少し離れた場所から見つめる視線がある。
男は電柱の陰に身を隠しながら、スマホ越しに二人を見ていた。
泣いて、寄り添って、また歩き出す。
その全部が気に食わない。
「なんでだよ……」
喉の奥から漏れた声は、ほとんど怨嗟だった。
「結愛ちゃんは、あんなふうに笑う子じゃない」
「僕の前では、そんな顔しなかったのに」
いや、そもそも自分の前で笑っていないこと自体を、男は正しく認識できていなかった。
彼の中では、結愛はもう「自分のもの」に近い場所にいた。
だから、それを奪う存在は邪魔だった。
スマホ画面の中の氷凪青。
無表情で、冷たそうで、なのに結愛にあんなふうに近づかれている男。
「……氷凪青」
画面を強く握る。
「邪魔だ」
シャッター音が、また小さく鳴った。
◇◇◇
やがて、結愛の家の近くまで来る。
住宅街の一角。
見慣れた道に入ったところで、結愛が足を止めた。
「ここ」
青も立ち止まる。
視線を周囲へ向ける。
道路。
向かいの家の塀。
電柱。
細い路地の先。
人影は見えない。
だが、それで安全だと断定はできない。
「送った」
青が言う。
結愛は頷いた。
「うん」
さっきより少しだけ、表情が落ち着いている。
完全に不安が消えたわけではないだろう。けれど、ここまで一人ではなかったという事実が、確かに彼女を支えていた。
「今日はありがと」
「まだ終わってない」
青はいつもの口調で返す。
「しばらくは警戒する」
「……うん」
「手紙と写真は全部保管しておけ」
「してる」
「帰る時間も、しばらくはズラせるならズラした方がいい」
「わかった」
「一人で帰るな」
「それは……できるだけ頑張る」
「できるだけじゃない」
青が少しだけ眉を寄せる。
「危ないと思ったら、すぐ連絡しろ」
結愛は一瞬、目を丸くした。
「え、連絡していいの?」
「相談を受けた」
「それはそうだけど」
「なら対応する」
結愛は思わず笑った。
「青って、ほんと責任感の塊みたいだよね」
「そうか?」
「そうだよ」
それから少しだけ、いたずらっぽく目を細める。
「これ、外から見たら普通に彼氏っぽいけど」
「違う」
「否定早」
「誤解は困る」
「ふーん」
結愛は唇を尖らせてみせた。
「じゃあ、さっきの腕組みも?」
「対策だ」
「肩寄せたのも?」
「……対策だ」
「赤くなってたのは?」
「気のせいだ」
結愛は吹き出した。
「そこは気のせいで押し切るんだ」
「事実だ」
「はいはい」
こうしていると、ほんの少しだけいつもの日常に戻れた気がした。
結愛は玄関の方をちらりと見る。
今このドアを開ければ、家の中にはいつもの生活がある。
乃愛や琉生の声がして、母親が帰ってきていれば台所の音もするかもしれない。
その日常を守りたい。
青に相談した理由は、結局そこに尽きるのだろう。
「……青」
「なんだ」
「今日はほんとに助かった」
「そうか」
「うん」
結愛は少しだけ迷ってから、笑った。
「また明日」
青も短く返す。
「また明日」
そのたった一言が、不思議なくらい安心できた。
結愛はドアノブに手をかける。
けれど、その前にもう一度振り返った。
「青」
「なんだ」
「今日は……ほんとにありがと」
「気にするな」
「そこは『どういたしまして』でしょ」
「慣れてない」
「なにそれ」
結愛はくすっと笑う。
「じゃあ、また明日」
そう言って、今度こそ家の中へ入っていった。
ドアが静かに閉まる。
青はしばらくその場に立ったまま、周囲を見渡していた。
表通りには人影がない。
犬の散歩をしている老人の姿も、買い物帰りの主婦の姿も、この時間には見当たらなかった。
静かすぎるくらい静かだ。
だからこそ、少しの違和感でも目立つ。
青は視線を細い路地の先へ向ける。
何かが動いた気がした。
だが次の瞬間には、ただ夕暮れの影が伸びているだけに見える。
「……」
青は数秒だけそこを見つめ、それからゆっくり踵を返した。
今日のところは、これ以上動いても仕方がない。
証拠はある。
相手はおそらく、まだ距離を測っている段階だ。
ならば、こちらも冷静に対応するしかない。
そう考えながら歩き出した青の背後。
電柱の影に、ひとつの人影が残っていた。
スマートフォンを握る手。
画面には、黒金家の外観が映っている。
さらに、その前に立つ氷凪青の後ろ姿。
「……家まで来たのか」
低い声が漏れる。
その声には、怒りとも嫉妬ともつかない、濁った感情が混ざっていた。
「氷凪青……」
男は画面を見つめる。
さっき撮った、腕を組んで歩く写真。
結愛が泣きそうな顔で青に寄り添っていた瞬間の写真。
そして、家の前で笑っていた写真。
「邪魔だ」
その一言だけを残して、男はゆっくりとスマホを下ろした。
夕暮れの住宅街に、冷たい風が吹く。
その風の中で、男の視線だけが、黒金家の方をいつまでも離れなかった。




