第82話 ただいま、のある場所(1)
第82話 ただいま、のある場所
スーパーの袋を片手に提げながら、結愛は隣を歩く青をちらりと見た。
ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを楽しんだあと、二人は結局こうして生活感のある買い物袋を持って住宅街を歩いている。
つい数時間前まで、綺麗に並べられた小さなケーキやスコーンを前にしていたはずなのに、今はひき肉と玉ねぎと卵とパン粉が袋の中に入っている。その落差がおかしくて、結愛はふっと笑った。
「どうした?」
すぐに気づいた青が聞いてくる。
「ううん。なんかさ、今日って不思議だなって思って」
「何がだ」
「最初はホテルで、今はスーパーの袋持って歩いてるじゃん」
「ああ」
「でも、なんかこっちのほうがしっくりくる」
結愛がそう言うと、青は一度だけ袋の中身を見下ろしてから、小さく頷いた。
「俺もそう思う」
その返事が、妙に嬉しかった。
結愛の家は、歩いて十分もしない場所にある。帰り道は見慣れた住宅街で、遠くから子どもたちの声が聞こえてきたり、夕飯の匂いが漂ってきたりする。どこにでもある、普通の街だ。
けれど結愛にとっては、その普通が大事だった。
そして今、その普通の中を青が一緒に歩いている。
それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「青」
「なんだ」
「さっきスーパーでさ」
「ああ」
「夫婦みたいって言ったの、ちょっとだけ本音だった」
結愛は前を向いたまま、さらっと言った。
隣で青の足が一瞬だけ止まりかける気配がした。
「……そうか」
「うん」
「ちょっとだけ、か」
「全部本音って言ったら、困るでしょ?」
結愛がにやっと笑って見上げると、青はわずかに視線を逸らした。
「困る、というか……反応に困る」
「ほらね」
「結愛は、そういうことを平気で言うな」
「平気じゃないわよ。内心めちゃくちゃ恥ずかしいんだから」
「そうは見えない」
「見せないようにしてるの」
青は少しだけ呆れたように息をついたが、その口元はほんの少しだけやわらかかった。
その顔を見て、結愛はまた少しだけ幸せになる。
やがて見慣れた自宅が見えてきた。
玄関の灯りはすでについていて、カーテンの隙間からあたたかな光が漏れている。たったそれだけのことなのに、外から帰ってきた時に見る家の明かりは、いつだって少しほっとした。
「着いた」
「お邪魔します」
「まだ早いでしょ。まずはただいま、でしょ」
「そういうものか」
「そういうもの」
結愛はくすっと笑って、鍵を取り出す。
がちゃり、と玄関を開ける音がして、その次の瞬間には、家の中から元気な足音が飛んできた。
「ただいまー」
結愛がそう言った途端、リビングのほうから琉生と乃愛が勢いよく顔を出した。
「お姉ちゃん、おかえりー!」
「お腹すいたー!」
いつも通りのにぎやかな声。
そしてその直後、乃愛の目が青を見つけてぱっと輝いた。
「あっ、婚約者も一緒!」
青はぴたりと止まった。
「……こんにちは」
反射的に返したその挨拶が妙に真面目で、結愛は思わず吹き出しそうになる。
「乃愛、ちょっと。いきなり何言ってんのよ」
「だってそうじゃん」
「そうじゃない!」
結愛が慌てて否定すると、今度は琉生がにやりと笑いながら前へ出てきた。
「青、ちょうどよかった」
「何がだ」
「婚姻届、持ってきたから」
「は?」
今度こそ青が固まる番だった。
琉生は得意げな顔で、どこから出したのか、折りたたまれた紙をひらひらさせる。もちろん本物ではなく、どう見ても子どもがどこかで見つけた紙を真似して作ったようなものだ。だが「婚姻届」と太い字で書かれていて、妙にそれっぽい。
「妹のためだ」
琉生は真剣な顔で言った。
「乃愛がお姉ちゃんに幸せになってほしいって言ってたから」
「ちょっと、琉生!」
結愛は赤くなって弟を止めようとするが、青は琉生の手元の紙をじっと見ていた。
「……貸してごらん」
「青!?」
結愛がぎょっとして振り返る。
青はごく自然な動作で婚姻届もどきを受け取り、その中身を確認し始めた。名前欄らしきもの、住所欄らしきもの、証人欄らしきものまである。よく見るとかなり雑だが、子どもの遊びにしては妙に頑張っている。
「いいよ、付き合わなくて!」
「子どもの遊びだろ」
青は落ち着いた声でそう言った。
「こういうのは全力でやったほうが喜ぶ」
「いや、たしかにそういうとこあるけど!」
結愛が止める間もなく、青はペンを借りて何か書き始める。
乃愛が目を輝かせた。
「わあ!」
琉生も満足げに腕を組む。
「さすが青」
「いや、さすがじゃないからね?」
結愛が抗議しても、三人とも聞いていない。
青は一通り記入し終えると、婚姻届もどきを琉生に返した。
「ほら」
「ありがとう」
琉生は受け取って、得意げにうなずく。
「あとは証人を書いてもらえば、提出できる」
「まだ提出せんでいい!」
結愛は即座にツッコんだ。
「ていうかどこに提出すんのよ!」
「役所」
「受理されるわけないでしょ!」
乃愛はそんな姉の焦りなど気にした様子もなく、きょとんと青を見上げた。
「まだなの?」
「……何がだ」
「お姉ちゃんと結婚するの」
青は一瞬だけ黙った。
結愛はもう耳まで赤くなっていた。
「ちょ、乃愛!」
「だって、お姉ちゃんずっと青のこと――」
「乃愛!」
結愛の制止で、その先の言葉はぎりぎり飲み込まれた。
だが空気は十分に赤くなっている。
結愛は両手で顔を覆いたくなった。今日一日で何回こうなるのかわからない。
しかし、乃愛は真剣だった。
小さな身体で青の前に立ち、まっすぐ見上げる。
「青、お姉ちゃんを幸せにしてあげてください」
不意打ちのようなその言葉に、結愛の動きが止まる。
乃愛は続けた。
「お姉ちゃん、いつも私たちに時間使ってくれてるの。ご飯も作ってくれるし、お洗濯もしてくれるし、宿題も見てくれるし、ずっと頑張ってるから」
「乃愛……」
結愛の声が小さく揺れる。
「だから、早く幸せになってほしいの」
無邪気で、まっすぐで、残酷なくらい優しい言葉だった。
結愛は思わず俯く。目の奥が熱くなるのを感じた。
家のことをするのは嫌いじゃない。弟や妹のことも大事だ。けれど、自分がしてきたことを、こんなふうに子どもなりに見ていてくれたのだと思うと、胸がいっぱいになる。
隣で青が、静かに口を開いた。
「乃愛ちゃん」
「うん」
「俺が、お金をちゃんと稼げるようになってからかな」
結愛がはっとして顔を上げる。
青はいつもの淡々とした顔のままだった。けれど、その言葉は冗談半分ではなかった。
現実を見ている、青らしい答えだった。
乃愛は少し考えるように首を傾げる。
「じゃあ、早く稼いでください」
「乃愛!」
結愛は泣き笑いみたいな声を出した。
青はそのまま乃愛を見て、静かに続ける。
「結愛を悲しませることはしない」
その一言に、リビングの空気が一瞬だけ止まった。
結愛の心臓が強く鳴る。
軽く言ったのではないとわかる声だった。
青はきっと、「幸せにする」みたいな大きなことを簡単には言わない。そういう人だ。だからこそ、その代わりに口にした「悲しませることはしない」という言葉は、妙に重くて、真っ直ぐだった。
結愛は目を瞬かせる。
乃愛は満足したようににっこり笑った。
「うん!」
琉生も腕を組んだまま、うなずく。
「合格」
「何のだよ」
「青の婚約者試験」
「そんなのあったの?」
「今できた」
琉生は真顔で言った。
青は少しだけ困ったような顔をしたが、否定しきれないのか、小さく息をつくだけだった。
結愛はもう、恥ずかしいのか嬉しいのか泣きたいのかわからない顔で、二人の弟妹を見た。
「……あんたたち、あとで覚えてなさい」
「えー」
「なんでー」
「なんで、じゃないの!」
けれどその声に、いつもの怒りの勢いはなかった。
むしろ少しだけ震えていて、自分でも可笑しくなる。
そんな空気を切り替えるように、結愛はわざと大きめの声を出した。
「さ、もうご飯作るよ。青も、ちょっと手伝って」
「ああ」
青はすぐに頷く。
その返事がいつも通りすぎて、結愛は少しだけ救われた。
◇




