第81話 当たり前の温度(3)
# 第81話 当たり前の温度
アフタヌーンティーをゆっくり楽しんだあとは、ホテルを出て、二人で近くを少し歩いた。
春の午後は少しずつ傾き始めていて、空気にも夕方の気配が混じっている。
ホテルの非日常的な空気から外へ出ると、街の生活感がむしろ心地よく感じられた。
「けどさ」
歩きながら、結愛が言う。
「やっぱり、妹弟のこと考えちゃうんだよね」
「さっきも言ってたな」
「うん」
結愛は苦笑した。
「こういう綺麗なところに来るとさ、余計思うの。乃愛なら絶対はしゃぐなー、とか。琉生ならなんだかんだ文句言いながら楽しみそうだなー、とか」
「ああ」
「一緒に連れてきたいな、とか」
そこまで言ってから、結愛は青の顔を見る。
「ごめんね。せっかく二人なのに」
「謝る必要はない」
青は静かに答えた。
「結愛らしい」
その言葉に、結愛は少しだけ目を丸くする。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「珍しい」
「今日はそういう日らしい」
淡々とした言い方なのに、どこか柔らかかった。
結愛は笑う。
「なによ、それ」
そうして歩きながら、二人のあいだに静かな時間が流れた。
気まずくはない。無理に会話をつなげなくても苦にならない。その感じが不思議と心地いい。
やがて結愛が、ふと思い出したように聞いた。
「青、このあとどうする?」
その瞬間、二人はほとんど同時に顔を上げた。
少しだけ間があって、結愛が口を開く。
「……うちで、一緒に夕食作って、みんなで食べる?」
青も、ほぼ同時に言おうとしていたのだろう。わずかに目を見開いてから、頷いた。
「俺も同じことを考えてた」
結愛は思わず笑ってしまう。
「なにそれ。ちょっと嬉しいんだけど」
「俺も、結愛ならそう言う気がした」
「……そっか」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
結局、自分たちはこういうところに戻ってくるのだ。
綺麗なホテルもよかった。非日常も嬉しかった。でも最後に落ち着くのは、きっと日常の延長にある場所。
誰かと一緒に料理をして、食卓を囲んで、笑いながら食べること。
それが自分にとって、いちばん自然で、いちばん大事な幸せなのだと、結愛は改めて思った。
「じゃあ、先にスーパー寄ろっか」
「ああ」
二人はそのまま、近くのスーパーへ向かった。
◇
夕方のスーパーは、仕事帰りの人や主婦でそれなりに賑わっていた。
カゴを手に取った結愛の隣で、青はさっそく野菜売り場に目を向ける。
「何作る?」
「んー……みんなで食べるなら、ハンバーグとかどう?」
「悪くない」
「乃愛、好きなんだよね」
「琉生も食べるだろ」
「食べる。あいつ、なんだかんだ肉好きだから」
そんな会話をしながら食材を選んでいく。
結愛がひき肉のパックを手に取ると、青は隣で玉ねぎの状態を確認していた。
「青、慣れてるね」
「普通だ」
「いや、普通の男子高校生はそんな真剣に玉ねぎ選ばないでしょ」
「使うならちゃんと見たほうがいい」
「はいはい、さすがです」
結愛は笑いながら、パン粉や卵もカゴに入れる。
「あと、サラダも欲しいかな」
「トマトが安い」
「ほんとだ。じゃあそれも」
気づけば、二人のやり取りは妙に自然だった。
まるで何度もこうして一緒に買い物をしてきたみたいに、互いのペースが噛み合う。どちらかが無理に合わせている感じもない。
結愛はふと、そんな自分たちの様子がおかしくなって、くすっと笑った。
「どうした」
「いや……なんか、夫婦みたいだなって思って」
言った瞬間、青の手が止まる。
「……」
「冗談よ」
「そうか」
そう返した青の耳が、ほんの少しだけ赤く見えた。
結愛はそれを見逃さなかったが、あえて何も言わなかった。
代わりに、にやにやしそうになる口元を必死で抑えながら、次の売り場へ向かう。
レジを済ませ、袋に食材を詰めると、青が自然に重いほうを持った。
「ありがと」
「気にするな」
夕暮れの街を、二人で並んで歩く。
ホテルで過ごした華やかな時間もよかった。けれど今、手に下げたスーパーの袋の重みのほうが、なぜかずっとしっくりきた。
この先に待っているのは、豪華な景色ではない。結愛の家の、見慣れたリビングと台所。弟と妹の騒がしい声。みんなで囲む夕食のテーブル。
それなのに、いや、だからこそ、その時間はとても大切に思えた。
青もたぶん、同じことを感じている。
そんな気がした。
結愛は隣を歩く青をそっと見上げる。
いつも通り静かな横顔。そのくせ、今日だけで何度も自分を驚かせてきた人。
「青」
「なんだ」
「今日、ありがと」
青は少しだけこちらを見る。
「まだ終わってない」
その返事に、結愛は目を細めた。
「……うん」
そうだ。まだ終わっていない。
今日という特別な日は、非日常だけで終わらない。
最後に待っているのは、たぶん、もっと自分たちらしい時間だ。
豪華なホテルよりも、手に下げた買い物袋のほうが、なぜかずっと現実に近かった。
そして、その現実は、思っていたよりもずっと温かかった。




