第81話 当たり前の温度(2)
# 第81話 当たり前の温度
案内されたのは、ホテルのラウンジだった。
大きな窓から柔らかな光が差し込み、静かな音楽が流れている。席同士の間隔も広く、落ち着いた空気が心地よい。
「うわ……」
結愛は思わず声を漏らした。
「すご……」
青はそんな結愛の反応を見て、小さく息をついた。
「気に入らなかったか」
「逆!」
結愛はすぐに首を振る。
「すごすぎてびっくりしてるの。こういうとこ、あんまり来たことないし」
「そうか」
「青、こういうとこ慣れてるの?」
「いや。調べただけだ」
「……え」
「結愛に合いそうな場所を探した」
あまりにもさらっと言うものだから、結愛は一瞬意味を取り逃がしかけた。
「私に?」
「ああ」
青はテーブルの上に置かれたメニューを見ながら、続ける。
「結愛はいつも弟や妹のこととか、家のこととか、いろいろやってるだろ」
「……」
「たまには、こういう非日常的な場所もいいかと思った」
結愛は何も言えなかった。
今日ここへ来るまで、場所についていろいろ想像はしていた。映画館とか、水族館とか、ショッピングモールとか。そういう定番の“デートっぽい場所”ばかり頭に浮かべていた。
でも青が選んだのは、それとは少し違った。
ただ楽しいだけじゃなくて、自分を労うみたいな場所。
しかもその理由が、「普段頑張っているから」だなんて。
「……ありがと」
ようやく出た言葉は、思ったより小さかった。
「でも、家事とかが嫌なわけじゃないよ」
結愛は正直に言った。
弟や妹の世話も、料理も、洗濯も、たしかに大変なことはある。面倒だと思う日だって、なくはない。
それでも、嫌いではない。
家の中で自分が誰かの役に立っている実感があるし、家族が笑ってくれると、やっぱり嬉しいのだ。
青は頷いた。
「わかってる」
「え?」
「嫌なら、あんなに自然にやらない」
結愛は目を瞬かせた。
ちゃんと見ていたのか、と、少し驚く。
青は自分からあまり多くを語らないくせに、人のことはよく見ている。
「……そっか」
ふっと笑みがこぼれる。
その時、ちょうどアフタヌーンティーのスタンドが運ばれてきた。
三段のスタンドに、色とりどりのスイーツとセイボリーが美しく並んでいる。小さなケーキ、マカロン、スコーン、サンドイッチ、見た目にも華やかで、まるで雑誌の中の写真がそのまま目の前に現れたみたいだった。
「わ、すごーい!」
結愛は目を輝かせる。
「写真撮っていい?」
「いいんじゃないか」
「撮るね」
スマートフォンを取り出し、角度を変えながら何枚か撮る。ついでに青の手元と一緒に映るようにもしてみたが、それは秘密にしておいた。
「こんなの、乃愛が見たら絶対喜ぶなぁ……」
ぽろっとそう呟いてから、結愛ははっとした。
せっかく青が自分のために考えてくれた非日常なのに、いきなり家のことを口にしてしまった。
だが青は気にした様子もなく、静かに言った。
「よかった。楽しそうで」
「ん?」
「いや」
青は少しだけ視線を落としたあと、何でもないように続ける。
「結愛はこういうの、似合うなと思って」
「――っ」
今日は何度心臓を撃ち抜かれるのかわからない。
結愛は思わず咳払いをした。
「青、今日ちょっとおかしくない?」
「どこがだ」
「褒めすぎ」
「事実だ」
「それ便利ね、その言葉」
そう言いながらも、声は笑っていた。
紅茶が注がれ、二人はアフタヌーンティーを食べ始める。
小さなサンドイッチをひと口食べた結愛は、すぐに目を細めた。
「美味しい」
「それはよかった」
「青は?」
「悪くない」
「それ、青の中ではかなり高評価でしょ」
「まあな」
結愛はくすっと笑う。
こうして向かい合っていると、学校で見る青とは少し違って見えた。制服ではなく私服だからか、場所のせいか、それとも卒業して、今までとは違う関係の中に立っているせいか。
ただ、変わらないところもある。落ち着いていて、無駄に騒がず、でも必要なことはちゃんと言う。そんなところに、今日もまた少し救われてしまう。
「けどさ」
結愛はスコーンを手に取りながら言った。
「私、こういう場所に来ても、やっぱり考えちゃうんだよね」
「何をだ」
「妹と弟のこと」
青は顔を上げた。
「これは乃愛が好きそうだな、とか。琉生なら、こういうの写真撮る前に食べちゃいそうだな、とか」
結愛は自分で言いながら、少しだけ苦笑する。
「ごめんね。せっかく非日常を考えてくれたのに」
青はすぐに首を振った。
「いや、いいと思う」
「え?」
「俺も妹と一緒に来れたらな、って考えた」
その言葉に、結愛の指先が止まった。
青の声は静かだった。いつもと変わらない調子に聞こえるのに、その奥にはたしかな想いがある。
陽葵。
今はもういない、大切な妹。
その名前をわざわざ出さなくても、青が誰のことを思っているのか、結愛にはわかった。
「……そっか」
結愛はそれだけ言った。
無理に励ますのは違う気がした。大丈夫とも、元気出してとも言えない。
ただ、青が自分と同じように家族を思い浮かべていたことが、少しだけ嬉しかった。
非日常の綺麗な時間の中でも、結局二人とも考えるのは家族のことだ。
たぶん、それが自分たちらしい。
しばらく二人は、穏やかな沈黙の中で食べ進めた。
ふと、青が何気ない口調で言う。
「結愛は将来、いいお嫁さんになるな」
結愛は危うく紅茶を吹きそうになった。
「なっ……」
「どうした」
「どうした、じゃないでしょ!」
顔が一気に熱くなる。
「何いきなり言ってんのよ」
「思っただけだ」
「思っただけで言わないで!」
青は本当に不思議そうな顔をしている。
この男はたぶん、一生こうなのだろう。本人に悪気がない分、余計にたちが悪い。
結愛は手元のティーカップを見つめてから、覚悟を決めるように顔を上げた。
「……じゃあ、青」
「なんだ」
「私を貰ってよ」
青の動きが止まった。
「え?」
「え、って何よ」
結愛は唇を尖らせる。
「嫌なの?」
「いや、嫌なわけじゃない」
「じゃあ何?」
少しだけ意地悪に問い返す。
青は珍しく、本気で考え込んでいるようだった。
「……俺も料理や家事はしたいから」
「うん」
「逆に、取り合いにならないかと思って」
一瞬、結愛は意味を理解できなかった。
そして次の瞬間、吹き出した。
「ぷっ……なにそれ」
肩が揺れる。
「本気で言ってる?」
「ああ」
「うけるんだけど」
結愛は笑いながらも、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
普通なら、そこで気の利いた甘いことでも言うのかもしれない。
でも青は違う。
“自分がやってもらう側”になる発想が最初からない。結婚や一緒に暮らすことを考えた時に、自然と「二人でどう分けるか」という方向へ思考が向く。
そこが、この人らしかった。
「ならないよ」
結愛は笑いを収めながら言う。
「一緒にすればいいじゃん」
「……そうか」
「そうよ」
青は少しだけ納得したように頷いた。
その反応がまたおかしくて、結愛はくすくすと笑ってしまう。
「いいなー、青のそういうところ」
「何がだ」
「好き」
口に出したあとで、自分でも少しびっくりした。
でも、引っ込める気にはなれなかった。
青は一瞬、はっきりと動揺した。
目を逸らし、耳がほんの少しだけ赤くなっている。
その珍しい反応に、結愛の胸がきゅっと鳴る。
「……結愛」
「なに?」
少しだけ挑むように笑ってみせると、青は視線を戻した。
そして、低い声で言った。
「今日の服装、似合ってる」
今度こそ、結愛は完全に固まった。
「な……」
「ギャルっぽくないけど、綺麗だ」
さっきの褒め言葉とは違う。
もっと具体的で、もっとまっすぐで、もっとどうしようもなく嬉しい。
「なによ、いきなり……」
視線を逸らしても、熱くなった頬は隠しきれない。
「青はギャルで、年上が好きなんだっけ?」
照れ隠しでそんなことを言ってみる。
青はすぐに首を振った。
「どちらも違うぞ」
「ふふ」
結愛は少しだけ安心したように笑う。
「青がドレスコードあるって言うから、ワンピースにしたけど、びっくりしたよ。どこに行くのかと思った」
「ごめん。ちゃんと説明するんだったな」
青は小さく息をついた。
「サプライズにしたくて」
その言い方は、少しだけ不器用で、少しだけ照れが混じっていた。
結愛はそんな青を見て、ふっと表情をやわらげる。
「……んん、ありがと」
本当に、その言葉しか出てこなかった。
青は窓の外に目をやったまま、何でもない顔をしている。
でもその横顔を見ていると、結愛は妙に胸がいっぱいになった。
こんなふうに、自分のことを考えて、場所を選んで、サプライズまでしてくれた。その事実だけで十分なのに、さらに言葉までくれるのだから、もうずるいとしか言いようがない。
結愛は小さなケーキをフォークで切りながら、こっそり青の横顔を盗み見た。
やっぱり、好きだな、と思う。
何度思っても、飽きることなく。
◇




