第81話 当たり前の温度(1)
# 第81話 当たり前の温度
春休みのある日、黒金家の朝はいつもより少しだけ落ち着きがなかった。
「これ、変じゃないかな……」
自室の鏡の前で、黒金結愛は小さく首をかしげた。
ベッドの上には、脱いだ服が何着か広がっている。いつもの自分なら迷わない組み合わせでも、今日に限っては全部しっくりこない気がした。
派手すぎるのは違う。かといって、気合いを入れすぎたと思われるのも癪だ。いや、でも、気合いを入れていないと思われるのも、それはそれで嫌だった。
結局、何度も迷った末に選んだのは、落ち着いた色味のワンピースだった。
普段の学校での自分を知っている人から見れば、かなり印象が違う。ギャルっぽさを完全に消したわけではないが、今日はいつもより少しだけ大人っぽく、少しだけ上品に見えるはずだ。
髪も丁寧に整えて、メイクもいつもより慎重にした。
鏡の前で一歩引いて全体を見てみる。
「……うん、たぶん大丈夫」
そう呟いた次の瞬間、自分で自分の頬が少し熱くなっていることに気づいた。
何が大丈夫なのか、よくわからない。
ただ、今日は特別だ。
――デート。
その単語が頭の中を跳ね回るたびに、結愛は落ち着かなくなった。
もちろん、青はそんな言い方をしていない。時間があるなら出かけないか、と、いつものあの淡々とした口調で言っただけだ。
でも、二人きりで出かけるのだ。しかも、場所は秘密にされている。ドレスコードがいる、なんて意味深なことまで言われた。
それをデートと呼ばずに何と呼ぶのか、という話である。
「よし……」
深呼吸をひとつして、結愛はバッグを手に取った。
そのまま部屋を出ると、ちょうどリビングから琉生の声が飛んできた。
「お姉ちゃん、今日なんか嬉しそうだね?」
どきりとする。
見ると、弟の琉生がソファに座ったまま、いかにも面白そうな顔でこちらを見ていた。隣には乃愛もいて、姉の姿を見るなり目をきらりと光らせる。
「デート?」
「ち、違うわよ」
結愛は即座に否定した。
だが、自分でも驚くほど声が上ずっていた。
「ちょっと友達と、ご飯食べてくるだけ」
「へえ」
琉生がにやにやする。
「そんなに気合い入れて、友達とご飯?」
「うるさいわね」
「青と?」
今度は乃愛が、あまりにもあっさりと核心を突いてきた。
結愛の肩がぴくっと揺れる。
「な、なんでそこで青の名前が出てくるのよ」
「だって、お姉ちゃん、その顔してる時はだいたい青のことだもん」
「そんな顔してない!」
「してるよね」
「してる」
琉生と乃愛がきれいに声を揃えた。
結愛は一気に顔が熱くなるのを感じながら、二人を睨みつけた。
「ほんっと生意気になったわね、あんたたち」
「図星だ」
「図星だね」
「もう!」
結愛はバッグを抱え直し、玄関のほうへ向かう。
背中に向かって、琉生の明るい声が飛んできた。
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
乃愛もくすっと笑う。
「がんばってね」
「何をよ!」
叫ぶように返したが、最後まで否定しきれなかった。
玄関で靴を履き、扉を開ける。
春の空気が、ふわりと頬に触れた。
「……行ってきます」
そう小さく呟いて、結愛は家を出た。
歩き出したあとも、胸の鼓動は落ち着かなかった。
青はどんな顔をするだろう。今日の服を見て、何か言うだろうか。そもそも、本当にどこへ行くつもりなのだろう。
考えれば考えるほど、心が忙しくなる。
けれど、それが嫌じゃなかった。
むしろ、こんなふうに一日を楽しみにしている自分が、少しだけ愛しかった。
◇
待ち合わせ場所に着くと、青はすでにそこにいた。
人混みの中でも、すぐに見つかる。
長身で、無駄に目立つくらい整った顔立ちをしていて、それでいて本人にはまるで自覚がない。壁のように静かに立っているだけなのに、そこだけ空気が少し違って見えるのだから、やはりずるいと思う。
結愛は一度だけ深呼吸してから、普段通りを装って近づいた。
「青、待った?」
青がこちらを向く。
その視線が一瞬、結愛の全身をなぞった。
ほんの数秒。けれど、その短さの中に何かを確かめるような静けさがあって、結愛の心臓はまた忙しくなる。
「いや、待ってない」
「そっか。よかった」
なるべく自然に笑う。
青はいつもの調子で頷いたあと、少しだけ視線を残したまま言った。
「その服……」
結愛の呼吸が止まる。
「え?」
「ちゃんとしてるな」
「ちゃんとしてるって何よ」
即座に返すと、青はほんのわずかに考え込む顔をした。
「説明が難しい」
「頑張って説明して」
「……似合ってる」
「――っ」
不意打ちだった。
しかも言い方があまりに真面目すぎて、冗談として受け流す余地がない。
結愛は反射的に視線を逸らした。
「な、なによ、朝からいきなり」
「事実を言っただけだ」
「それ、最近よく聞くセリフ」
「そうか?」
「そうなの」
結愛は熱くなった頬を誤魔化すように髪を耳にかける。
青はいつもの無表情に近い顔のままだったが、どこか少しだけ落ち着かないようにも見えた。
もしかすると、褒めるほうも多少は照れているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ嬉しくなる。
「じゃあ、行こうか」
結愛がそう言うと、青は「ああ」と頷いた。
「ねえ、青」
「なんだ」
「ドレスコードって言ってたけど……パーティでも行くの?」
半分冗談、半分本気で聞く。
青は少しだけ考えてから、あっさりと言った。
「ホテルに行く」
「――え」
結愛の足が止まりかける。
「ホ、ホテル?」
「ああ」
あまりにも普通の声だった。
結愛は一瞬でいろいろな想像が頭を駆け巡り、顔が一気に熱くなる。
「ちょ、ちょっと待って。ホテルって、その……」
「ラウンジだ」
「……え?」
「アフタヌーンティーを予約してある」
結愛は数秒、意味を理解するのに固まったあと、力が抜けたように肩を落とした。
「あ、アフタヌーンティね……」
「何だと思ったんだ」
「な、何でもない!」
慌てて首を振る。
青は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及はしなかった。
結愛は胸を押さえながら、小さく息を吐く。
(びっくりした……心臓に悪すぎる……)
二人は並んで歩き出す。
春の陽射しは明るくて、街には休日らしい穏やかな空気が流れていた。
この先に何が待っているのかはまだ知らない。
でも、隣に青がいる。
それだけで、今日はもう特別な日だった。
◇
青に案内されて着いた場所を見て、結愛は思わず立ち止まった。
「……え」
目の前には、格式のあるホテルがそびえていた。
ガラス張りの大きなエントランス。行き交う人たちの服装も、どこか上品だ。普段の自分の生活圏とは明らかに違う空気が漂っている。
「ちょ、ちょっと待って」
結愛は青の袖を軽く引いた。
「ほんとにホテル来ちゃった……」
「ああ」
「いや、聞いてたけど。実際来ると心の準備ってものがあるんだけど?」
「必要か?」
「必要なの!」
「……」
結愛はしばらく言葉を失った。
いや、ホテルといっても変な意味ではない。そんなことはわかっている。わかっているけれど、言葉の響きだけで心臓に悪い。
ようやく絞り出した声は、少しだけ掠れていた。
「だって、私たち、まだ付き合ってないしさ……」
言った瞬間、自分で何を口にしているのかと思って、結愛はまた顔が熱くなった。
青は一拍置いてから、少し困ったように眉を寄せる。
「……ごめん。そういうつもりじゃ」
「ちょっと」
今度は結愛がすぐに返した。
「それはそれで傷つくんだけど」
「え?」
「そんなに私に興味ない?」
半分は冗談で、半分は本音だった。
青は数秒、結愛の顔を見たまま沈黙した。
それから、静かに答える。
「そんなことはない」
「……」
「興味はある」
結愛は固まった。
あまりにも真っ直ぐだった。
変に飾らない。言い逃れもしない。ただ、聞かれたから答えた、という口調なのに、その一言は結愛の胸の真ん中にまっすぐ刺さった。
「な、なによ……」
ようやくそれだけ言う。
青は首をかしげる。
「聞いたのは結愛だろ」
「そうだけど……そうだけどさ……」
結愛は片手で口元を押さえた。
こういうところだ。青はたぶん、自分がどれだけ破壊力のあることを言っているのか、まったくわかっていない。
「もう、いいから。入ろ」
「ああ」
青はそれ以上何も言わず、ホテルの中へと歩き出した。
結愛は胸の鼓動をどうにか落ち着けながら、その隣についていく。
こんな調子で今日一日、心臓がもつのだろうか。
不安になりながらも、口元は少しだけ緩んでいた。
◇




