第82話 ただいま、のある場所(2)
第82話 ただいま、のある場所
キッチンへ入ると、ようやく少し落ち着ける気がした。
買ってきた袋をテーブルに置き、結愛は髪を軽く結び直す。家で料理をする時の、いつもの動作だった。
「ハンバーグでいいんだよな」
「うん。あとサラダとスープも作ろうかなって」
「わかった」
青はすでにエプロンを借りるつもりらしく、自然な目で周囲を見ている。
「そこ、前にも使ったのあるから」
結愛が棚を指さすと、青は「ああ」と言って取り出した。
何度か家に来たことはあるとはいえ、こうして一緒に台所に立つのは、改めて考えるとだいぶ距離が近い。しかも今日はホテルでアフタヌーンティーのあとに、家に来て、一緒に夕飯作りである。
頭ではわかっているのに、今さらじわじわ恥ずかしくなってきた。
「結愛」
「え?」
「玉ねぎ、みじん切りでいいか」
「う、うん」
青は手際よく包丁を持つ。
危なげがない。というより、普段からやっている人の動きだった。
「やっぱり慣れてるね」
「普通だ」
「青の普通、たまに信用できないんだけど」
「何だそれは」
青はそう言いながらも、一定のリズムで玉ねぎを刻んでいく。
結愛は隣でボウルにひき肉を入れ、調味料や卵、パン粉を加えていった。いつもなら一人でやる作業が、今日は半分ずつ進んでいく。
それが思っていた以上に楽しかった。
ちょうどその時、玄関のほうから鍵の開く音がした。
「ただいまー」
明るい女性の声。
結愛が顔を上げる。
「あ、ママだ」
今日はもう少し遅いと思っていた。結愛は少し驚きながら、手を止めずに声を返す。
「おかえりー。早かったね」
ぱたぱたと足音が近づき、キッチンの入り口に結愛の母が姿を見せた。
仕事帰りらしく、まだコートも脱いでいない。だがその目は結愛の隣に立つ青を見つけた瞬間、わずかに丸くなった。
「あら」
それからすぐに、どこか面白そうな笑みになる。
「氷凪くん?」
「こんにちは。お邪魔してます」
青は包丁を置いて、きちんと頭を下げた。
その礼儀正しさに、結愛の母は感心したように目を細める。
「まあまあ。話には聞いてたけど、本当に来てくれたのね」
「ママ、そんなに言ってたっけ?」
「言ってたわよ。結愛が遅くなるかもって珍しく連絡してきたから、何事かと思ったもの」
「あれ、そうだっけ」
「そうよ」
母はふふっと笑って、改めて青と結愛を見比べた。
二人ともエプロン姿で、並んでキッチンに立っている。その光景は、自分で見ても少し出来すぎている気がした。
そして母も、同じことを思ったのだろう。
「ふーん」
意味ありげな相槌が落ちる。
「何よ、その『ふーん』」
「別にー?」
「絶対何か思ってる」
「思ってるわよ」
即答だった。
結愛がむっとすると、母はにこにこと笑ったまま、青のほうへ向き直る。
「氷凪くん」
「はい」
「結愛をよろしくね」
「ちょっと、ママ!」
結愛は真っ赤になった。
だが母は涼しい顔で続ける。
「だって、本当のことでしょ。うちの子、頑張り屋さんだけど無理もするから」
その言葉に、青は少しだけ真面目な顔になる。
「……はい」
短い返事だったが、軽く受け流したのではないことがわかった。
結愛の母はそんな青を見て、どこか満足そうに頷く。
「うん、いい返事」
「ママ!」
「はいはい。私は着替えてくるから、続けてて」
そう言ってリビングへ去っていく背中を見送りながら、結愛は顔を両手で覆いたくなった。
「……もう、最悪」
「何がだ」
「何がだ、じゃないでしょ」
結愛は青を振り返る。
「今の、普通に恥ずかしいんだけど」
「そうか?」
「そうなの!」
青は少しだけ考え込むようにして、それから小さく言った。
「でも、母親にそう言われるのは、悪いことじゃないと思う」
結愛は言葉を失う。
「……っ」
「結愛?」
「ちょっと黙って」
「悪い」
謝る青の顔を見ていると、恥ずかしさでどうにかなりそうなのに、同時に嬉しくて仕方がなかった。
結愛は深呼吸して、無理やり平静を装う。
「ほら、青はハンバーグのタネこねて」
「ああ」
「私はサラダ作るから」
作業を再開すると、少しずつ呼吸が戻ってきた。
だが台所の空気は、さっきまでとは確実に違っていた。
青がボウルの中身を丁寧に混ぜていく。結愛はレタスをちぎり、トマトを切り、ドレッシングの準備をする。互いに無駄がなく、でも窮屈でもなく、自然に役割が分かれていく。
ときどき手が触れそうになって、そのたびに少しだけ意識してしまう。
けれどその気まずさすら、嫌じゃなかった。
むしろ、今この時間が終わらなければいいのにと思うくらいだった。
リビングのほうからは、乃愛と琉生の声が聞こえてくる。たぶん、さっきの婚姻届ごっこをまだ続けているのだろう。母の笑い声も混ざっていた。
騒がしくて、あたたかい。
その音の中で、青は淡々と、それでいて不思議なくらい自然にこの家に馴染んでいた。
「結愛」
「ん?」
「塩、こっちでいいか」
「うん、それ」
「わかった」
短い会話。
それだけなのに、妙に満たされる。
青となら、こういう毎日もあるのかもしれない。
朝になって、家族の朝食を作って、買い物に行って、夜は一緒に台所に立つ。特別なことは何もなくても、それだけで充分に幸せな日々。
そんな想像が、ふいに胸をよぎる。
結愛は自分で自分に照れて、少しだけ俯いた。
「どうした」
「なんでもない」
「そうか」
青は深くは追及しない。
それがありがたい時もあれば、少しだけ物足りない時もある。けれど今日は、その距離感すら心地よかった。
しばらくして、ハンバーグの成形に入る。
結愛が楕円形に整えていく横で、青も真面目な顔で同じように形を作っていた。
「青、きれいすぎ」
「そうか?」
「うん。店に出せそう」
「結愛のも悪くない」
「ふふ、ありがと」
フライパンに並べると、じゅうっと良い音がした。
肉の焼ける匂いが立ちのぼり、一気に家の中が夕飯らしい空気になる。
その匂いに誘われたのか、リビングから乃愛の声が飛んできた。
「いい匂いー!」
「もうすぐできるよー」
結愛が返すと、「やったー!」と弾んだ声が返ってきた。
青はフライパンを見つめたまま、ぽつりと言う。
「いい家だな」
その一言に、結愛の手が止まった。
「……え?」
「うるさいけど」
「うるさいって何よ」
「でも、あたたかい」
青はそれだけ言って、またフライパンに目を戻す。
結愛は何も言えなかった。
青がそう感じてくれたことが、嬉しかった。
この家の騒がしさも、生活感も、弟妹の無邪気さも、全部まとめて受け入れてくれたような気がしたからだ。
そしてそれはきっと、青自身が失ったものに少しだけ触れることでもある。
結愛は知っている。青がどれだけ妹を大事に思っていたか。今もその喪失を抱えたまま生きていることも。
だからこそ、この家のあたたかさが、少しでも青の心を休ませる場所になればいいと願った。
「……ありがと」
結愛は静かに言う。
「ん?」
「この家のこと、そう思ってくれて」
青は少しだけ目を細めた。
「本当のことだ」
またその言葉だ、と結愛は思った。
けれど今日は、その言葉がいちいち胸に染みる。
やがてハンバーグが焼き上がり、サラダとスープも整って、夕食の準備ができあがる。
結愛は皿を並べながら、隣の青を見た。
ホテルのラウンジにいる青もよかった。けれど今、エプロン姿でフライパンを扱っている青のほうが、ずっと近くて、ずっと好きだと思った。
きっと自分は、この人となら非日常よりも日常を選びたい。
そんなことを、自然に思ってしまっている。
結愛は小さく息をついて、口元をやわらかく緩めた。
「青」
「なんだ」
「今日は、まだ終わってないけど」
「ああ」
「すでに、かなりいい日」
青は一瞬だけ結愛を見て、それからほんの少しだけ、やわらかな顔をした。
「……俺もだ」
その短い一言だけで、今日という一日が全部報われた気がした。
リビングからは、乃愛たちの「まだー?」という声が響く。
結愛は笑って、出来上がった皿を持ち上げた。
ただいま、と言って帰る家があって、おかえり、と迎える家族がいて、一緒に料理をしてくれる人がいる。
そんな当たり前みたいな幸せが、今夜はやけに特別に思えた。




