第80話 夜は、少しだけ本音に近い(1)
# 第80話 夜は、少しだけ本音に近い
室内遊園地を出ると、ガラスの向こうに広がっていた夕方の色は、すっかり夜へと変わっていた。
春の夜風はまだ少しだけ冷たくて、けれど冬ほど鋭くはない。頬に触れても、痛いというより、頭の奥をすっと冷やしてくれるようなやわらかさがあった。
お台場の街は、昼とは別の顔を見せていた。
遠くに見える観覧車の光がゆっくりと色を変え、建物の窓や街路灯が水面に細かな明かりを落としている。ショッピングモールの外周を歩く人々も、昼間の浮き立った雰囲気とは少し違って、どこか落ち着いていた。
紬は両手で、さっきクレーンゲームで取った桜色の耳をしたウサギのぬいぐるみを抱えながら、満ち足りた声で言った。
「遊びましたねー」
「……ああ」
青も短く返す。
実際、それなりの時間を使っていた。パンケーキを食べ、モールを歩き、桜を見て、室内遊園地では想像以上にはしゃいだ紬に付き合った。
自分にしては、かなり長い時間、誰かと一緒に過ごしたほうだろう。
それでも、不思議と疲労感は強くなかった。
歩きながら、紬は空を見上げた。
「昼と夜で、ぜんぜん雰囲気違いますね」
「そうだな」
「なんだか、夜になるとデートっぽさが増す気がします」
さらりと言われて、青はほんの少しだけ紬を見た。
紬はわざとなのか天然なのか判断に迷う顔で、えへへと笑っている。
「……そういうものか」
「そういうものです」
即答だった。
青は小さく息をつく。だが、否定はしなかった。
夜の景色のせいか、今日一日の積み重ねのせいか、隣を歩く紬が昼間より少しだけ近く感じられた。
言葉にすれば壊れそうな距離感だった。
だから青は、別の話題を選ぶように口を開く。
「夜ご飯にでもするか?」
紬がぴたりと足を止めた。
「……え?」
「夜ご飯だ」
「まだ、付き合ってくれるんですか?」
予想以上に真っ直ぐな驚きのこもった声だった。
青は立ち止まり、紬のほうへ向き直る。
「もちろんだ」
「……」
「今日はそういう日だから」
そう言うと、紬は大きな目をぱちぱちと瞬かせたあと、急に顔を赤くした。
「きょ、今日って、そういう日なんですか……」
「紬への礼で来てる。途中で終わるほうが不自然だろ」
「そ、そうですけど……」
紬はぬいぐるみを抱え直しながら、照れたようにうつむいた。
どう見ても嬉しそうだった。
青はその様子を見てから、念のために確認する。
「帰りは大丈夫か?」
「え?」
「遅くなる。門限とか、家のほうは」
紬は一瞬だけ目を泳がせた。
「あ……はい。今日は、その……友達の家に泊まる、って言ってありますので……」
最後のほうは急に小さくなった。
青は少しだけ眉を寄せる。
「友達の家?」
「は、はい」
「そうか」
それなら問題はない。そう判断して前を向こうとした時、紬がもじもじとしながら、こちらを見上げてきた。
「その……」
「なんだ」
「青先輩の家に、今夜泊めてくれません?」
青は数秒、意味を処理するのに沈黙した。
観覧車の光が、ちょうどその瞬間に青の横顔を淡く照らした。
「断る」
即答だった。
紬は「ですよねー」という顔をしながらも、どこか楽しそうに唇を尖らせる。
「まだ最後まで言ってないです」
「聞くまでもない」
「えー」
「付き合ってもいない男女が、一つ屋根の下はまずいだろ」
「大丈夫です。何もしませんから」
青は一拍置いてから、じわじわとこみ上げてきた違和感に、思わず紬を見る。
「それは、男のセリフだろ」
紬は一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。
「たしかに」
「たしかに、じゃない」
二人のあいだに、やわらかな笑いが生まれる。
紬は笑いながらも、まだ引き下がるつもりはないらしかった。
「でも、ほんとに何もしませんよ?」
「それでもダメだ」
「じゃあ……」
紬はバッグの中をがさごそと探り、小さな紙片を取り出した。
見覚えのあるそれを見て、青は目を細める。
「このチケット、使ってもですか?」
そこには、以前に紬へ渡した“何でもお願いできるチケット”が書かれていた。
半分冗談、半分本気で渡したものだったが、まさかここで切ってくるとは思っていなかった。
「……まだ持ってたのか」
「大事にしてました」
「そうか」
「青先輩に、なんでもお願いできるんですよね?」
「限度はある」
「今、限度つけました?」
「最初から暗黙の了解だ」
「ひどいです」
頬をふくらませる紬に、青はため息をつく。
「それを使ってもダメだ」
「そんなぁ……」
「そのチケットは、もっと別のまともなことに使え」
「青先輩の家に泊まるの、まともじゃないですか?」
「まともじゃない」
「えー……」
紬は露骨に不満そうだったが、少ししてから、ふっと悪戯っぽい目になった。
「じゃあ」
「なんだ」
「私と付き合ってください」
空気が一瞬で変わった。
冗談の延長のような顔をしながら、その目だけがまっすぐだった。
青はわずかに目を見開く。
「……紬」
「そうしたら、お泊まりも変じゃないですよね?」
「論理の飛躍がある」
「ありますか?」
「ある」
青は少しだけ視線を落とした。
紬の言葉は軽く聞こえる。だが、軽さだけで言っているわけではないこともわかる。
だからこそ、誤魔化すような返し方はしたくなかった。
「だめだ」
はっきりと言う。
紬の表情が、わずかに固まる。
だが青は、そこで言葉を切らなかった。
「まず、紬は受験が終わってから、そういうのは考えろ」
「……げ」
「なんだ」
「なんか、お兄ちゃんみたいなセリフです」
紬は肩を落としたふりをしながら、しかしどこか困ったように笑った。
青は、その言葉に胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
お兄ちゃん。
その言葉だけで、陽葵の声が遠くから蘇る。
何気ない呼びかけ。病室での笑顔。家で過ごした短い時間。守りたかったもの。守れなかったもの。
青はほんのわずかに眉を寄せた。
「……妹みたいに扱って、すまない」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
紬はきょとんとしたあと、やわらかく首を横に振る。
「謝らないでください」
「だが――」
「じゃあ、妹にしてください」
青は顔を上げた。
「は?」
紬は悪びれもなく、にこりと笑う。
「私、昔、陽葵ちゃんと同じ病院に通院していたことがあるんです」
今度こそ、青は本当に言葉を失った。
夜のざわめきが、一瞬だけ遠のいたように感じる。
「……何だって?」
「すごく昔の話ですけど」
紬は抱えていたぬいぐるみを少しだけ強く抱きしめた。
その表情は、さっきまでの悪戯っぽさとは違って、少しだけ静かだった。
「体が弱くて、定期的に通ってた時期があったんです。入院するほどじゃなかったですけど、検査とか経過観察とかで、よく病院に行ってて」
青は何も言えなかった。
紬がそんな話をするのは、初めてだった。
「その時に、何回か見たことがあるんです。青先輩と、陽葵ちゃんのこと」
「……俺と、陽葵を?」
「はい」
紬は小さく頷く。
「いつも、青先輩が陽葵ちゃんのそばにいて。すごく自然に、当たり前みたいに支えてて。陽葵ちゃんも、青先輩が来るとすごく嬉しそうで」
青の脳裏に、病院の白い廊下が浮かんだ。
消毒液の匂い。静かな待合室。自販機の前。検査室へ向かう途中の会話。陽葵の笑顔。
だが、その中に紬の姿は思い出せない。
青の沈黙を見て、紬は苦笑した。
「たぶん、青先輩は覚えてないと思います」
「……悪い」
「謝らないでください。私が勝手に見てただけですから」
そう言ってから、紬は少し視線を下げた。
「一回だけ、ちゃんと話したこともあるんです」
「話した?」
「はい。病院の自動販売機の前で、私がお金を落としちゃって、ちょっともたもたしてた時に」
紬はその時を思い出すように、ふっと笑った。
「青先輩が『大丈夫か?』って声をかけてくれたんです」
青は目を細めた。
その程度のことなら、自分は何度もしてきただろう。病院でも学校でも、誰かが困っていれば、必要だと思えば手を貸す。それだけのことだ。
だが紬にとっては、そうではなかったらしい。
「その時、私、すごく不安だったんです」
紬は静かな声で続ける。
「病院って、ただでさえ怖いじゃないですか。子どもの頃なんて、なおさらです。何をされるのかもわからないし、みんな大丈夫って言うけど、本当に大丈夫なのかもわからなくて」
青は黙って聞いていた。
「でも、その時の青先輩、すごく普通だったんです」
「普通?」
「はい。可哀想な子を見るみたいな顔じゃなくて、変に優しくしすぎるわけでもなくて。本当にただ、困ってるから声をかけた、っていう感じで」
紬は少し笑う。
「それが、なんだかすごく救われたんです」
青は言葉を失う。
紬の話す“自分”は、あまりに無自覚だった。
覚えてもいないほどの小さな行動が、誰かの中でそんなふうに残っている。その事実に、青は慣れていなかった。
「この人がお兄さんだったら、いいなって思いました」
紬はそう言って、青を見上げた。




