第79話 春の日、やわらかな時間(3)
# 第79話 春の日、やわらかな時間
ショッピングモールの中庭に出ると、そこには思っていた以上に見事な桜が咲いていた。
建物に囲まれた開けた空間に、やわらかな薄桃色が幾重にも重なっている。春の風が吹くたび、枝先がかすかに揺れ、陽の光を受けた花びらが淡くきらめいた。
「わぁ……」
紬は思わず立ち止まり、目を見開いた。
「すごいですね」
「ああ」
人はそれなりにいるが、騒がしいほどではない。足を止めて写真を撮る人、ベンチで話す人、ただ見上げる人。それぞれが春を味わっていた。
紬は少し前へ出て、桜を見上げる。
春色の服をまとった彼女が桜の下に立つ姿は、妙に絵になっていた。
「綺麗ですね」
「……ああ」
青がそう答えると、紬はくるりと振り向いた。
「私のことですか?」
冗談めかした言い方だった。
けれど、その目の奥に期待が混じっていることくらいは、青にもわかった。
数秒だけ沈黙が落ちる。
そして青は、ごく自然に言った。
「紬は、どちらかというと可愛い系じゃないか」
「――っ」
紬の動きが止まった。
「な、な、なんですか、それ……」
「質問されたから答えただけだ」
「そんな真顔で言うことじゃないです……」
紬は赤くなった頬を隠すように両手を口元へ持っていき、視線をそらした。
「ありがとうございます……」
声はとても小さかった。
青は首をかしげる。
「礼を言われるようなことか」
「言われます」
「そうか」
「はい……すごく……」
その「すごく」の続きは、紬の胸の中にしまわれたらしかった。
風が吹き、桜の花びらが二、三枚、二人の間を横切った。
青はふと、陽葵のことを思い出した。
こういう景色を見たら、きっとはしゃいだだろう。写真を撮ろうと言って、無邪気に笑ったに違いない。
胸の奥に、静かな痛みが差す。
それはもう、鋭い傷ではなかった。けれど、失ったものの大きさを思い出させるには十分だった。
青がわずかに視線を落とした時、紬がやさしい声で言った。
「陽葵ちゃんも、こういうの好きそうですよね」
青は驚いたように紬を見た。
紬は桜を見上げたまま、少しだけ微笑んでいる。
「たぶん、すごく喜んでたと思います。『わあ、お兄ちゃん見て!』って、言いそうです」
その口調があまりにも自然で、青は返す言葉を失いかけた。
哀れみではない。気を遣いすぎた慰めでもない。
ただ、本当にそういう光景が目の前にあるみたいに、紬は言った。
「……そうだな」
ようやく、それだけ答える。
「きっと、そう言う」
「ですよね」
紬は嬉しそうに頷いた。
陽葵の名前を出されること自体に、まだ痛みがまったくないわけではない。だが、紬の言葉は不思議と、その痛みをえぐらなかった。
むしろ、陽葵の存在を今の時間の中にそっと置いてくれるような、そんな優しさがあった。
青は桜を見上げたまま、静かに息をつく。
春の光はやわらかく、どこか遠い日の記憶まで照らしているようだった。
「写真、撮りましょうか?」
紬がそう言ってスマートフォンを取り出した。
「桜と一緒に」
「おまえだけでいいだろ」
「えー、せっかくですから、一緒に撮りましょうよ」
「俺はいらない」
「そんなこと言わないでください」
紬は半歩近づくと、当然のように青の袖をつまんだ。
「一枚だけ」
「……仕方ないな」
渋々という顔をしながらも、青はその場に立つ。
紬は嬉しそうにスマートフォンを構え、近くにいた通りすがりの女性に声をかけた。写真を頼むと、女性は快く引き受けてくれる。
「もう少し寄ってくださいねー」
そう言われ、紬が自然に青の隣へぴたりと寄った。
肩が触れそうな距離だった。
青がわずかに視線を下ろすと、紬はいたずらっぽく笑う。
「はい、青先輩、もうちょっとだけ笑ってください」
「無茶を言うな」
「じゃあ、怖くない顔で」
「余計なお世話だ」
そのやり取りに、写真を撮ってくれる女性がくすっと笑った。
シャッターが切られる。
撮れた写真を確認した紬は、満足そうに目を細めた。
「わ、いい感じです。青先輩、ちゃんと優しそうに写ってます」
「普段からそうだろ」
「ふふっ。自分で言うんですね」
青は小さく息をつきながらも、その写真を消せとは言わなかった。
◇
「このあと、室内遊園地でも行くか」
桜の中庭を離れたところで、青がそう言った。
紬はぱちぱちと瞬きをしてから、すぐにぱっと笑顔になった。
「はい!」
返事があまりにも早くて、青はわずかに目を丸くする。
「即答だな」
「だって、楽しそうです」
「そうか」
「青先輩は、あんまり興味なさそうですけど」
「ないわけじゃない」
「ほんとですか?」
「紬が行きたいなら、それで十分だ」
さらりとしたその一言に、紬は数歩進んでからぴたりと止まった。
「……そういうこと、普通に言いますよね」
「何がだ」
「もういいです」
頬を赤くしたまま前を向く紬に、青はまた首をかしげた。
だが、追及はしない。
そのまま二人は室内遊園地へ向かった。
◇
室内遊園地は、子ども向けの印象を持っていた青の予想よりも、ずっと賑やかで、思っていた以上に大人でも楽しめる空間だった。
明るい音楽が流れ、カラフルな照明がきらめく中、ゲーム機やアトラクションが並んでいる。
紬は入った瞬間から目を輝かせていた。
「すごいです。なんだか、全部やってみたくなります」
「全部は無理だ」
「わかってます。でも、気持ち的には全部です」
まずは軽いアトラクションから、ということで、小さな乗り物や簡単なゲームをいくつか回った。紬は思った以上にリアクションが大きく、ちょっとしたことで楽しそうに笑う。
ボールを投げて的に当てるゲームでは、紬は狙いがずれて見当違いの方向へ飛ばし、店員まで笑わせていた。
「青先輩、見ました? 今の惜しかったですよね?」
「惜しくはなかった」
「えー」
「だいぶ外れてた」
「ちょっとくらい優しくしてください」
「事実だ」
それでも紬は楽しそうだった。
次に挑戦したシューティング系のゲームでは、青が淡々と高得点を叩き出し、紬が本気で驚いていた。
「なんでそんなに上手いんですか?」
「的を見て、ぶれないように撃ってるだけだ」
「それができたら苦労しません」
「そうか」
「もう、絶対向いてますよ。なんでもそつなくこなせるんですから」
「そんなことはない」
青は短く答えたが、紬の言葉に含まれた信頼のまっすぐさは、胸の奥に静かに残った。
クレーンゲームの前に来た時、紬はガラス越しに置かれた小さなぬいぐるみを見つけて、足を止めた。
「これ、可愛いです……」
桜色の耳をしたウサギのぬいぐるみだった。
「欲しいのか」
「ちょっとだけ……でも、クレーンゲームって苦手なんですよね」
「やってみればいい」
「はい……」
紬は硬貨を入れ、真剣な顔でレバーを操作した。だが、案の定、クレーンはぬいぐるみの耳をかすめただけで、何も掴めずに戻ってくる。
「ああー……」
二回目も失敗。
三回目も惜しいようで惜しくない結果に終わり、紬はしゅんと肩を落とした。
「むずかしいです……」
青はしばらく配置を眺め、それから手を差し出した。
「貸せ」
「え?」
「次、俺がやる」
紬が少し驚いた顔で場所を空ける。
青はクレーンの角度と景品の重心を見て、アームの位置を微調整した。そしてタイミングを見計らってボタンを押す。
アームが下降し、ぬいぐるみの胴をうまく引っかけ、そのまま景品口まで運んだ。
ころん、と落ちる。
紬の目が大きく開かれた。
「すごい……!」
景品口からぬいぐるみを取り出した青は、そのまま紬へ差し出す。
「ほら」
「い、いいんですか?」
「欲しかったんだろ」
「……はい」
紬はそっと受け取ると、胸元に抱きしめた。
「ありがとうございます。大事にします」
「ああ」
「青先輩、ほんとかっこいいです」
「確率の問題だ」
「絶対違います」
紬は真剣にそう言った。
そのまっすぐな眼差しに、青は少しだけ居心地の悪さを覚え、視線を逸らす。
「……次、行くぞ」
「はいっ」
紬は嬉しそうにぬいぐるみを抱えたままついてくる。その姿は年相応で、無邪気で、見ているこちらまで肩の力が抜けた。
こういう時間もあるのか、と青は思う。
何かを背負わなくてもいい時間。何かを守らなければと気を張らなくてもいい時間。ただ隣にいて、同じものを見て、同じように歩く時間。
そんなものが、自分にもまだ許されるのかどうか、はっきりとはわからない。
だが少なくとも今は、その問いを保留にしてもよかった。
◇
気づけば、館内のガラス越しに見える外の光が、少しずつ色を変え始めていた。
昼間の明るさはやわらいで、窓の向こうには淡いオレンジ色が混じっている。
「わ……もうこんな時間なんですね」
紬が立ち止まり、外を見た。
「あっという間でした」
「そうだな」
本当に、その通りだった。
朝の静けさから始まった今日が、気づけばこんな色の時間にまで来ている。
紬は抱えていたぬいぐるみを見下ろし、それから青を見上げた。
「青先輩といると、時間が早いです」
「退屈してないなら、それでいい」
「退屈なんて、ぜんぜんしてません」
紬は即座にそう言って、ふわりと笑った。
「すごく楽しいです」
その言葉には飾りがなかった。
だからこそ、青の胸にも静かに落ちた。
「……ならよかった」
それだけ答える。
けれど紬は、その短い返事でも十分嬉しそうだった。
二人は室内遊園地を出て、再び広い通路へ出た。
夕方のモールは、昼とはまた違う顔を見せ始めている。照明が少しずつ目立ち始め、ガラス越しの景色もやわらかな橙色に染まっていた。
人の流れも、どこか一日の後半へ向かう落ち着きを帯びている。
紬は隣を歩きながら、名残惜しそうに周囲を見回した。
「まだいろいろ見られそうですね」
「ああ」
「今日は、ほんとにありがとうございます。誘ってもらえて、すごく嬉しかったです」
不意打ちのようにそう言われ、青は少しだけ足を緩めた。
「礼を言うのはこっちだ」
「え?」
「紬には、いろいろ世話になった」
言葉を探しすぎると、かえって不自然になる気がした。
だから、青は自分にできる範囲の率直さで続ける。
「今日も……来てくれて助かった」
紬は目を瞬かせた。
それから、泣きそうなくらいやわらかい笑みを浮かべる。
「はい」
その一言だけで、十分だった。
通路の先に、レストラン街の案内板が見えてくる。
時間的にも、そろそろそういう流れになるのだろう。
紬はまだ何も言わなかったが、その視線が一瞬だけ案内板のほうへ向いたことに、青は気づいていた。
だからこそ、次の言葉は、自分から言うべきだと思った。
けれど、それはまだ少し先でいい。
夕方の空気をもう少しだけ歩いてからでも、遅くはない。
青は隣を歩く紬を見た。
桜色の耳をした小さなぬいぐるみを抱えたその姿は、どこか無防備で、どこかあたたかかった。
春は、何かを終わらせたあとに、こうして静かに別の時間を連れてくるのかもしれない。
そう思いながら、青は歩幅をほんの少しだけ紬に合わせた。
今日という一日は、まだ終わっていない。
むしろ、ここから先に続いていく時間こそが、きっと大切なのだろう。
夕暮れの光が、二人の足元へやわらかく伸びていた。




