第79話 春の日、やわらかな時間(2)
# 第79話 春の日、やわらかな時間
パンケーキ店は、春休みの昼前らしくそれなりに混んでいたが、少し待つとすぐに席へ案内された。
窓際の明るい席に座ると、紬はメニューを開いた途端、ぱっと表情を輝かせた。
「わぁ……どうしよう、どれも美味しそうです」
写真つきのメニューには、苺、バナナ、チョコ、抹茶、季節限定の桜クリームなど、見るからに甘そうなパンケーキが並んでいる。
紬は真剣な顔で見比べ始めたが、数秒後には困ったように眉を下げた。
「決められません……」
「どれも同じだろ」
「同じじゃないです」
「小麦に卵にバターに砂糖だ」
「そういう話じゃないんですー」
頬をふくらませる紬を見て、青はメニューに目を落とした。
「これなんか、どうだ」
青が指したのは、季節限定の苺と桜のパンケーキだった。
「わ、これもいいですね……でも、こっちのキャラメルナッツも気になります」
「なら両方頼めばいい」
「え、二つはさすがに食べきれません」
「そうか」
青は少し考えてから、あっさりと言った。
「じゃあ俺がこっちを頼む。紬はそっちを頼め。半分ずつ食べればいい」
紬がぴたりと動きを止めた。
「……」
「なんだ」
「青先輩、わかってますねー」
「何がだ」
「そういうの、女の子が喜ぶやつです。なんか、女性の扱いがうまくなってて、いやです」
くすっと笑いながら言う紬に、青は即答した。
「なってない」
「なってますよ。前の青先輩なら『食べたいほうを選べ』で終わってました」
「……そうかもしれないが」
「ほらー」
紬は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて、私は苺と桜にします」
「わかった」
注文を終えると、紬は頬杖をつき、向かいに座る青をじっと見た。
「なんだ」
「いえ。こうして青先輩と二人でいるの、不思議だなって」
「そうか」
「卒業しちゃったんだなぁって実感もあります」
「ああ」
そのひと言には、少しだけいろいろな意味が含まれていた。
高校生活は終わった。毎日のように顔を合わせる関係では、もうない。
紬もそれを感じているのだろう。
けれど、今こうして向かい合っている。
それだけで、少し救われるような気もした。
「でも」
紬はにっこり笑った。
「終わったから、こういうのもできるんですよね」
青はわずかに目を伏せた。
「……かもな」
答えると、紬はますます嬉しそうになった。
◇
運ばれてきたパンケーキは、写真以上に華やかだった。
紬の頼んだ苺と桜のパンケーキは、淡いピンクのクリームと花びらのようなチョコレートで飾られ、春そのものを皿の上に乗せたみたいだった。青のキャラメルナッツのほうも、香ばしい匂いが立っていて、見た目より甘さはくどくなさそうだった。
「すごい……」
紬は目を輝かせる。
「写真より綺麗です」
「食べ物に綺麗も何もあるのか」
「あります」
そう言って、紬は早くもナイフとフォークを手に取った。
「半分こ、ですよね」
「ああ」
青は自分の皿を手前に寄せ、器用に半分に切り分けると、その一部を紬の皿へ移した。紬も同じように自分のパンケーキを分けて、青の皿へ載せる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「いえいえ」
紬は自分の皿を見て、にこにこしながら頬を緩めた。
それから一口食べた瞬間、目を丸くする。
「んー……美味しいです……」
心から幸せそうな声だった。
青もひと口食べる。確かに悪くない。甘さはあるが、くどすぎず、素材の風味もわかる。
「どうですか?」
「普通にうまい」
「普通じゃなくて、すごく美味しい、ですよ」
「そこまで大げさではない」
「もう。青先輩はいつも評価が厳しいんですから」
そう言いながらも、紬はとても楽しそうだった。
彼女は食べるたびに表情がころころ変わる。嬉しそうに目を細めたり、甘さに驚いたり、口元をほころばせたり。見ているだけで、こちらの肩から余計な力が抜けていくような、不思議な感じがした。
青はふと、その様子を見つめていたことに気づき、視線を皿へ戻しかけた。
その時だった。
「……あ」
紬の口元に、白いホイップクリームが少しだけついていた。
本人は気づいていないらしい。
「紬」
「はい?」
「ここ」
青はそう言って、自分の口元を軽く指した。
紬は一瞬わからない様子だったが、慌てて口元を拭おうとする。
だが、位置が少しずれていた。
「違う。そこじゃない」
「えっ、どこですか」
「じっとしてろ」
青は身を乗り出し、紬の口元についたホイップを指先でそっと取った。
指先に伝わるやわらかな感触に、紬の肩がびくっと揺れる。
「ひゃっ」
小さな声が漏れた。
青は特に気にすることもなく、そのまま指についたホイップを口に運ぶ。
「……甘いな」
何気なくそう言うと、紬は完全に固まっていた。
「どうした」
「ど、どうしたじゃないです……」
顔が見る見るうちに赤くなっていく。
「青先輩たら、もう……」
「何か変なことしたか」
「変なこと、です」
「そうか?」
「そうです」
紬は両手で自分の頬を挟むようにして、熱を逃がそうとするみたいに俯いた。
「距離、近いです……」
「ホイップがついてただけだ」
「それでもです」
耳まで赤くなっている。
青は首をかしげたが、本気で何がそこまで問題なのかはよくわからなかった。
ただ、紬が嫌がっているというより、妙に嬉しそうに困っているのは伝わってきた。
「……悪い」
ひとまず謝ると、紬は小さく首を振った。
「いえ、その、嫌とかじゃなくて……その……びっくりしただけです」
「そうか」
「はい……」
紬はそう言ってから、照れ隠しのようにパンケーキをもう一口食べた。
けれど、しばらくの間、その頬の赤みは引かなかった。
青は自分のコーヒーに口をつけながら、春の陽射しに透ける紬の横顔を見た。
不思議と、悪くない時間だと思った。
◇
店を出たあとは、ショッピングモールの中をゆっくり見て回った。
紬は、見たいものがたくさんあるらしかった。
雑貨屋では可愛い小物を手に取って目を輝かせ、本屋では平積みされた新刊を見て「あ、これ気になってたんです」と足を止める。服屋の前ではショーウィンドウを眺め、駄菓子屋を見つければ子どもみたいな顔で駆け寄る。
「青先輩、見てください。これ懐かしくないですか?」
そう言って紬が持ち上げたのは、小さなラムネ菓子だった。
「懐かしいかどうかで言えば、懐かしいな」
「ですよねっ。あと、これも。あ、このきなこ棒も好きだったんですよ」
「よく覚えてるな」
「覚えてますよー。小さい頃、お小遣いで何買うかすごく悩んでましたもん」
楽しそうに話しながら、紬は棚の間を行ったり来たりする。
青は少し離れたところからその様子を見ていた。
こういう場所では、自分は必要最低限しか見ない。欲しいものがあるならそれを手に取って終わりだ。
だが紬は違う。ひとつひとつを面白がり、懐かしみ、今この時間そのものを楽しんでいる。
「子どもっぽいですか?」
ふいにこちらを振り返って、紬が聞いた。
「別に」
「ほんとですか?」
「……楽しそうだとは思う」
そう言うと、紬は嬉しそうに笑った。
「それ、青先輩なりの褒め言葉ですね」
「どうだろうな」
「絶対そうです」
結局、紬は数種類の駄菓子を買い、小さな袋を大事そうに抱えた。
「あとで一緒に食べましょう」
「今じゃないのか」
「今食べたら、お腹いっぱいになります」
「それもそうか」
そんなやり取りすら、妙に穏やかだった。
本屋では、紬が雑誌の桜特集に足を止めた。
「いいですね、お花見。春って感じがします」
「ああ」
「お台場でも桜、見られるといいですね」
「見られるだろ」
「見たいです」
「なら見るか」
青がそう答えると、紬は「はい」と素直に頷いた。
青は、その返事のやわらかさに少しだけ目を細める。
自分が何かをしてやっている、という感覚はない。けれど、紬の嬉しそうな顔を見るたびに、今日誘ってよかったと思えた。
◇




