第79話 春の日、やわらかな時間(1)
# 第79話 春の日、やわらかな時間
春休みに入ってからというもの、朝という時間の輪郭が、少しだけ曖昧になった。
目を覚ましても、制服に袖を通す必要はない。鞄の中身を確認する必要も、今日の授業のことを考える必要もない。もう卒業してしまったのだから、当たり前といえば当たり前だった。
けれど、その当たり前は、思っていたよりも静かで、思っていたよりも広かった。
カーテンの隙間から入り込む春の光が、部屋の床にやわらかい四角を作っている。どこか遠くで、名前の知らない鳥の声が聞こえた。
氷凪青は、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
学校があった頃なら、今ごろは登校の準備をしていた時間だ。朝食をとって、家を出て、駅へ向かって、教室に行く。その繰り返しが、退屈なくらい当たり前に続くものだと思っていた。
だが、終わる時はあっけない。
卒業して、旅行に行って、それも終わって。気づけば、日々は驚くほど静かになっていた。
机の上には、東都大学の合格通知と、入学関係の書類が整然と置かれている。やるべきことが消えたわけではない。むしろ、進学準備やら何やらで、やろうと思えばいくらでもやることはある。
それでも、心のどこかにぽっかりと空いた空白は、簡単には埋まらなかった。
青はゆっくりと身体を起こし、窓の外へ視線を向けた。
淡い青空。春らしい、穏やかな天気だった。
今日は、出かける約束がある。
その事実が、少しだけ、自分を現実に引き戻してくれる気がした。
昨夜のうちに決めていた服に着替える。普段より少しだけ軽めのジャケットを羽織り、時計をつける。鏡を見ても、自分が少し浮ついているのかどうかは、よくわからない。
ただ、誰かと会うために出かける、という行為そのものが、卒業後の今となっては妙に新鮮だった。
スマートフォンの画面を確認する。
待ち合わせ場所と時間は、すでに決まっている。
相手は、椎名紬。
二年生の後輩で、如月先生のいとこ。おっとりしていて、少し天然で、けれど人の心の機微には敏い少女だ。
彼女には、いろいろと世話になった。
不登校だった時期を乗り越え、学校へ戻ってきたこと。陽葵と出会い、病室で笑ってくれたこと。卒業旅行には参加しなかったが、それでも何度も青のことを気にかけてくれたこと。
理由をひとつに絞ることはできない。
だからこそ、せめて礼くらいはしたかった。
もちろん、自分の口から「デート」などという言葉は使っていない。ただ、時間があるなら出かけないかと伝えただけだ。
それを紬がどう受け取ったかまでは、深く考えていない。
――考えないようにしていた、のほうが正しいかもしれないが。
青は鍵を手に取り、静かな家を出た。
◇
待ち合わせ場所に着いた時、紬はまだ来ていなかった。
駅前は春休みらしく、人通りが多い。家族連れ、友人同士、カップル。にぎやかな声が交差する中、青は少し離れた場所に立ち、腕時計に目を落とした。
時間には少し早い。
それでも、ほどなくして、聞き慣れた明るい声が人混みの向こうから届いた。
「青先輩ーっ」
振り向く。
軽やかに駆け寄ってくる姿を見た瞬間、青はほんのわずかに目を細めた。
紬は、いつもの制服姿ではなかった。
淡いクリーム色の薄手のニットに、春らしいやわらかなピンクベージュのミニスカート。脚には明るい色のストッキング、足元は細めのヒール。肩にかけた小さめのバッグも全体の色味に合っていて、ふわりと揺れる髪と相まって、いつもより少しだけ大人びて見えた。
だが、大人っぽいというよりは、春そのものみたいにやわらかくて可愛らしい、という印象のほうが強い。
紬は青の前まで来ると、ほんの少し息を弾ませながら、えへへ、と笑った。
「お待たせしました。早く着きすぎちゃって、でも、ちょっとお手洗い行ってて……あっ、でもそんなに待たせてないですよね?」
「いや、問題ない」
「よかったです」
そこで紬は、少しそわそわした様子でその場で一回転しかけ、やめた。
「その……変じゃないですか?」
「何がだ」
「服です。今日は、ちょっと頑張ったので……」
青は改めて紬を見た。
本人が言う通り、普段より気合いが入っているのはわかった。だが、どこか無理をしている感じはなく、紬らしいやわらかさがそのまま形になったような服装だった。
「……春らしいな」
そう言うと、紬は一瞬きょとんとして、それからぱっと顔を明るくした。
「それ、褒めてます?」
「事実を言っただけだ」
「もう。青先輩って、ほんとそういうところですよね」
くすくすと笑いながらも、紬はどう見ても嬉しそうだった。
「でも、ありがとうございます」
その声は、春の風みたいに軽かった。
青は視線を少し逸らし、足元に目をやる。
「その靴、慣れてるのか」
「え?」
「ヒール。歩きにくいだろ」
紬は自分の足元を見下ろしてから、にこっと笑った。
「ちょっとだけです。たぶん大丈夫です」
「たぶん、は信用できない」
「大丈夫ですってば。今日はたくさん歩くかもしれないから、ちゃんと低めのにしましたし」
「ならいい」
そう返しながらも、青は完全には納得していなかった。
紬は気づいているのかいないのか、楽しそうに青の隣に並ぶ。
「じゃあ、行きましょうか。お台場、久しぶりです」
「ああ」
そうして二人は、人の流れの中へ歩き出した。
◇
お台場に着くと、紬のテンションは目に見えて上がった。
「わぁ……やっぱり、春休みって感じですね」
大きな商業施設、広い通路、行き交う人々、遠くに見える海。どこもかしこも活気があって、休日らしい浮き立った空気に満ちている。
紬はきょろきょろと辺りを見回しながら、見るものすべてが新鮮であるかのように目を輝かせていた。
「青先輩、まずはどうしますか?」
「好きにしていい」
「えへへ、そう言ってもらえると思ってました」
言うなり、紬はすでに館内案内を見つけて駆け寄ろうとする。
「青先輩、こっちです。このパンケーキのお店、前から気になってたんです」
「わかったから、走るな」
「え?」
「ヒールだと危ないぞ」
「だ、大丈夫で――」
言い切る前に、紬の足元がわずかにもつれた。
「わっ」
身体が前に傾いた瞬間、青は反射的に一歩踏み込み、その腕を取る。紬の細い身体がそのまま青の胸元へ倒れ込みかけ、寸前のところで支えられた。
時間が一瞬だけ止まったように感じた。
紬の髪がふわりと揺れ、ほのかな甘い香りが近づく。
青は片手で紬の腕を、もう片方で腰のあたりを支えたまま、低く言った。
「……いわんこっちゃない」
紬は目を丸くしていたが、やがてへにゃっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「ご、ごめんなさい……」
「怪我は」
「ないです。えへへ……ちゃんと支えてくれましたね」
「離したら危ない」
「そうですけど」
紬はそう言ってから、なぜか少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
「ああ」
青が手を離すと、紬は名残惜しそうにしながらも姿勢を立て直した。
「じゃ、じゃあ、今度こそゆっくり行きます」
「そうしてくれ」
だが、紬の足取りは軽いままだった。危なっかしさはあるのに、不思議と見ていて飽きない。
青は半歩後ろからその背中を見ながら、やれやれ、と小さく息をついた。
◇




