第78話 雪の向こうの春(2)
# 第78話 雪の向こうの春
最初の一時間ほどは、まだ車内も賑やかだった。
誰かが撮った写真を見せ合い、昨日の転倒シーンを笑い合い、今度は夏にもどこか行こうなどという話まで出ている。だが次第にその声も減り、眠り始める者が増えていった。
窓の外では、雪景色が少しずつ変わっていく。
真っ白な斜面。
針葉樹の森。
雪の残る山道。
やがて、雪の量が減り、道路脇の地面が見え始める。
その変化をぼんやり見ていると、不意に前の席から凛花が振り返った。
「青」
小さな声だった。
「起きてる?」
「起きてる」
「そう」
凛花はそれだけ言って、少しだけ躊躇したように目を伏せる。
「……旅行、どうだった?」
その問いはひどく自然だった。
青は少し考えてから答える。
「思っていたより、悪くなかった」
凛花が小さく笑う。
「それ、かなり高評価ね」
「そうかもしれない」
「青が来てくれて、私は嬉しかったわ」
さらりと言われて、青は一瞬だけ言葉に詰まった。
凛花の言葉は、結愛のように熱を押し出してはこない。けれど、その分だけ真っ直ぐ胸に入ることがある。
「……ありがとう」
ようやくそう返すと、凛花は満足したように頷いた。
「ええ」
それ以上は何も言わず、彼女は前を向く。
会話はほんの数十秒だった。だが、その短いやり取りが妙に心に残った。
## ◇
少しして今度は、後ろからシートを軽くつつかれた。
振り返ると、結愛が身を乗り出している。
「青」
「なんだ」
「これ見る?」
差し出されたスマホの画面には、昨日と今日の写真が何枚も並んでいた。クラスメイトたちが変顔をしているもの、雪に埋もれた葉山、妙に真面目な顔で立ち上がろうとしている青、笑っている結愛、遠くで滑っている凛花。
「……ひどい写真が混ざってるな」
「どれ?」
「これ」
「あはは、青またこける直前じゃん」
「消せ」
「やだ。レアだから」
結愛は楽しそうに笑い、それから少しだけ声を落とした。
「でも、楽しかったね」
その一言が、写真以上に鮮明だった。
「……ああ」
青は短く頷く。
「来てよかった?」
「まあな」
「そっか」
結愛は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、連れてきた甲斐あった」
「お前が連れてきたわけじゃない」
「気持ちの上ではそうなの」
冗談めかした言い方だったが、その顔はどこか本当に安心したようでもあった。
結愛もまた、それ以上は何も言わない。写真を引っ込め、ひらひらと手を振って元の姿勢に戻る。
ほんの短いやり取り。
それでも、青の胸の奥にはまた別の温度が残る。
凛花との会話は静かに沈むようで、結愛との会話はじんわりと残る。
比べるものではない。
だが、違うものとして確かにそこにある。
## ◇
途中のサービスエリアで短い休憩を取ったあと、車内はさらに静かになった。
疲れたのだろう、多くのクラスメイトが眠っている。葉山ですら途中から口を開かなくなり、窓にもたれて目を閉じていた。
青だけがなかなか眠れず、また窓の外を見ていた。
雪はもう見えない。
山を下りきった街の景色は、いつもの三月だった。アスファルトの道路、コンビニの看板、信号待ちの車列。つい数時間前まで白い世界にいたことが嘘みたいに、普通の風景が広がっている。
それを見た瞬間、ほんの少しだけ胸が空いた。
ついさっきまで確かにあったものが、もうどこにもない。
旅行の時間も、そうなのだろう。
終わってしまえば、ただの思い出になる。
だが、思い出になるからといって、何も変わらなかったわけではない。
青は静かに目を閉じた。
雪の上で転んだこと。
結愛に手を引かれたこと。
凛花にフォームを直されたこと。
昼の食堂で、選ぶ側の痛みを意識したこと。
そして、何も決められていない自分を、以前よりはっきり自覚したこと。
答えはまだ出ていない。
出せるほど整理もできていない。
それでも、以前と同じではなかった。
## ◇
夕方近くになって、バスは出発地点へ戻ってきた。
行きに集合した場所と同じはずなのに、帰ってきたときの空気はやはり違う。みんな少し疲れていて、それでも名残惜しそうで、最後までだらだらと話し続けている。
「じゃあねー!」
「また集まろう!」
「写真送って!」
「大学行っても連絡しろよ!」
荷物を下ろしながら、そんな声が飛び交う。
卒業式の日の別れとは、また少し違う。
あの日は学校との別れだった。
今日は、この旅行という小さな非日常との別れだ。
青がバッグを肩にかけ直したところで、結愛がこちらへ来た。
「青」
「ん?」
「帰ったらちゃんと休みなよ。筋肉痛、明日すごいと思うから」
「……ありそうだな」
「絶対あるって」
結愛は笑ってから、少しだけ目を細めた。
「来てくれてありがとね」
その言葉に、青は小さく息を止めた。
「私、青と一緒に来られてうれしかった」
さらりと言ったあとで、結愛は照れたように視線を逸らす。
「じゃ、また連絡する」
「ああ」
青が頷くと、結愛はすぐにいつもの明るい顔に戻って真凛たちの方へ駆けていった。
残った言葉の温度だけが、しばらく胸の中に残る。
その少しあと、今度は凛花が歩いてきた。
彼女はいつもの落ち着いた足取りで青の前に立つと、まっすぐこちらを見た。
「青」
「どうした」
「無事に帰れてよかったわ」
「……そこか」
「大事でしょう」
凛花は少しだけ笑った。
「それに、あなたは思ったより頑張っていたから」
「思ったより、か」
「ええ。最初はどうなることかと思ったもの」
「そこまでひどかったか」
「ええ、少し」
淡々とした返しなのに、不思議と棘はない。
青はわずかに口元を緩めた。
「……そうか」
「でも、来てよかったと思ったのなら、それで十分よ」
凛花はそう言い、少しだけ目を柔らかくした。
「私も、青と一緒に来られてよかった」
その一言は静かだった。
けれど、結愛のそれとはまた違う重さで胸に落ちた。
青はすぐに返事ができず、ほんの少し遅れて頷く。
「……俺もだ」
凛花はそれを聞いて、何も言わずに微笑んだ。
「それじゃあ、また」
「ああ」
そうして彼女も、自分の帰る方向へ歩いていく。
## ◇
残ったのは葉山だけだった。
「お前、最後まで濃かったな」
「何の話だ」
「全部だよ」
葉山は呆れたように笑い、両手をポケットに突っ込む。
「青春だったなー」
「まだ終わってないだろ」
青がそう言うと、葉山は少しだけ目を細めた。
「高校の青春は終わりだよ」
その一言に、青は何も返せなかった。
卒業した時点でわかっていたはずなのに、改めて言葉にされると、妙に実感が湧く。
高校の青春。
それはもう、確かに終わったのだ。
これから始まるのは、別の時間だ。
同じ教室も、同じ席順も、毎日の生徒会室もない時間。
その先で、自分が誰とどう関わっていくのか。
まだ何ひとつ決まっていない。
「まあ、また会えるだろ」
葉山があっさり言う。
「会うだろうな」
「だろ? じゃあそんな顔すんなって」
「してない」
「してる」
葉山は笑い、青の肩を軽く叩いた。
「じゃ、また連絡するわ」
「ああ」
そうして葉山も去っていく。
青はひとり、その場に少しだけ立ち尽くした。
夕方の空気は、雪山よりずっとぬるかった。
アスファルトの匂いがして、車の音がして、遠くで誰かの笑い声がする。白い世界はもうどこにもない。
ついさっきまであったものが、こうして簡単に日常へ飲み込まれていく。
けれど、その中で自分の中に残ったものだけは、消えていなかった。
答えは出ていない。
誰かを選ぶことも、誰かに何かを言うことも、まだできない。
それでも。
何も変わっていないわけではなかった。
青はバッグの肩紐を握り直し、静かに歩き出した。
雪の向こうにあった時間は終わった。
けれど、その終わりが、また別の何かの始まりであることを、今はもう少しだけ理解していた。




