第78話 雪の向こうの春(1)
# 第78話 雪の向こうの春
卒業旅行の最後の朝は、驚くほど静かだった。
窓の外は一面の白で、昨日までと変わらない雪景色が広がっている。けれど、その光景を見た瞬間に胸の奥へ落ちてきた感覚は、昨日までとは少し違っていた。
終わるのだ、と思った。
たった三日間の旅行だった。
学校行事でもなく、来たい者だけが来た、任意参加の小さな卒業旅行。
それでも、始まってしまえばあっという間で、気づけばもう帰る朝になっている。
氷凪青はベッドの上で身を起こし、しばらくぼんやりと窓の外を見ていた。
白い世界は、どこまでも静かだった。
昨夜、眠れなかったわけではない。体はそれなりに疲れていたし、布団に入ってしまえば意識は途切れた。だが、ぐっすり眠ったという感覚もなかった。
頭のどこかで、ずっと考えていたのだと思う。
結愛のこと。
凛花のこと。
葉山に言われたこと。
真凛に釘を刺されたこと。
そして、自分が何も決められていないこと。
「青、起きたか」
向かいのベッドから葉山が声をかけてくる。すでに着替えも半分済ませていて、相変わらず順応が早い。
「起きてる」
「よし。朝飯食って、荷物まとめて、チェックアウト。現実に戻る時間だ」
「現実って言い方をするな」
「だって現実だろ。雪山の青春タイム終了だぞ」
葉山はそう言って笑った。
青は小さく息を吐き、ベッドから降りる。
青春タイム。
葉山らしい軽い言い方だったが、間違ってはいない気もした。
この旅行は、たしかにどこか浮いていた。
卒業しているのに、まだ完全には終わっていない感覚。同じクラスだった人間たちと、教師のいない雪山で過ごす時間。もう高校生ではないのに、まだ大学生でもない、宙ぶらりんな季節。
その曖昧さが、妙に心地よかったのかもしれない。
## ◇
朝食会場には、昨日よりも少し静かな空気が流れていた。
眠そうな顔でパンをかじる者。最後だからと写真を撮り合う者。昨夜遅くまで起きていたらしいグループは、明らかに目の下に疲れが出ている。それでもどこか名残惜しそうで、誰もが少しだけ帰りたくなさそうに見えた。
青と葉山が席を探していると、窓際のテーブルに結愛と凛花の姿があった。二人は同じ部屋だったはずだが、今朝の空気は不自然ではない。結愛は女子たちに明るく応じ、凛花も落ち着いた様子で会話に加わっている。
昨日の夜、二人の間でどんな言葉が交わされたのか、青はもちろん知らない。
だが、少なくともどちらかが一方的に距離を置いているようには見えなかった。
それを見て、少しだけ安心する。
自分が原因で二人の関係が悪くなるようなことは、望んでいない。そんなふうに思うこと自体、やはり自分はずるいのかもしれないが、それでも本音だった。
「また見てる」
葉山が小声で言った。
「見てない」
「いや、見てるって。お前最近わかりやすいぞ」
「そうでもない」
「そうなんだよ」
うるさい、と言いかけて、青はやめた。
たぶん、葉山の言っていることは半分くらい当たっている。自分でも、最近は視線の置き場所に困ることが増えた。
結愛が笑っていれば目で追ってしまう。
凛花が何か言いかければ、その続きを気にしてしまう。
以前ならこんなことはなかった。
少なくとも、以前の自分はそう思っていた。
## ◇
朝食後は、それぞれ荷物をまとめ、ロビーへ集まる流れになった。
ホテルの部屋に戻ると、荷造りは思っていたより早く終わった。持ってきた荷物が多くないこともあるが、旅の終わりというのはどうしてこうも淡々としているのだろう、と青は思う。
始まりには準備が要る。
だが終わりは、片付けてしまえばそれで終わってしまう。
スノーボード用のウェアも、ゴーグルも、手袋も、今はただ畳まれてバッグの中へ戻されていく。昨日まで雪の上にいた感覚が、それだけで少しずつ遠のいていくのがわかった。
「青、忘れ物すんなよ」
葉山が自分のバッグを閉めながら言う。
「しない」
「いや、こういうとき一番危ないの、意外とお前みたいなやつだから」
「偏見だ」
「偏見じゃなく経験則」
青は軽く部屋を見渡した。
ベッドの周り、机の上、窓際。特に何も残っていないことを確認してから、小さく頷く。
「問題ない」
「はいはい、優等生」
葉山は笑いながらドアを開けた。
廊下には、すでに何人かのクラスメイトたちが出てきていた。眠そうに欠伸をする者もいれば、最後に部屋の前で写真を撮っている女子たちもいる。
凛花と結愛も、少し遅れて部屋から出てきた。
結愛は今日も明るい色の私服で、旅行の終わりだというのにどこか元気そうだった。凛花はシンプルな服装なのに、やはり妙に目を引く。二人は並んで歩いているが、不自然な沈黙はない。むしろ、昨日までより少しだけ素直な空気すらある。
その変化を、青はうまく説明できなかった。
## ◇
ロビーでチェックアウトを済ませると、クラスメイトたちは自然と一か所に集まり始めた。
バスの出発まで少し時間があるらしい。
「最後に写真撮ろうよ!」
誰かの声をきっかけに、また一斉にスマホが取り出される。
任意参加の旅行だから、ここにいる人数は卒業式の日よりずっと少ない。けれど、その分だけ距離が近い気もした。昨日と今日を一緒に過ごした者同士の、妙な連帯感のようなものがある。
青は、またしても半ば強引に輪の中へ引きずり込まれた。
「氷凪、また端に行こうとしてない?」
「行ってない」
「行ってたよね?」
「気のせいだ」
結愛が笑いながら青の腕を引き、反対側から葉山が肩を組んでくる。さらに凛花が「青、少し屈んだ方がみんな入るわ」と真面目に指示を出し、周囲がどっと笑った。
何枚も撮られた写真の中で、自分はどんな顔をしているのだろう。
たぶん、大して笑ってはいない。
それでも、完全に無表情でもないのだろう。
この旅行に来る前の自分なら、もっと距離を取っていた気がする。だが今は、こうして誰かに引っ張られて輪の中にいることが、それほど悪くないと思っている自分がいた。
## ◇
バスに乗り込む頃には、雪がちらつき始めていた。
細かい雪が風に流され、山の空気が少しずつ白く霞んでいく。
青は窓側の席に座り、バッグを足元に置いた。隣には葉山が当然のように座る。少し前方には凛花の姿があり、数列後ろには結愛たち女子グループの賑やかな声が聞こえる。
行きと同じようでいて、帰りの空気はやはり違う。
どこか静かだ。
騒いでいる者は騒いでいるが、その底に薄い疲労と終わりの気配がある。
バスが動き出し、窓の外のホテルがゆっくりと遠ざかっていく。
白い建物。
雪に埋もれた木々。
昨日転びまくった斜面。
もう戻らない景色みたいに見えた。
「終わったなあ」
葉山が背もたれにもたれて言う。
「……まだ帰るだけだろ」
「その“帰るだけ”が終わりなんだって」
青は返事をしなかった。
たしかにそうなのかもしれない。
旅行というのは、帰り道まで含めて旅行なのだろう。だが、感覚としてはもう終わりに近い。非日常はじわじわとほどけ始めていて、山を下りるたびに現実が近づいてくる。
## ◇




