第77話 昼の雪原、逃げ場なし(1)
# 第77話 昼の雪原、逃げ場なし
三月の山の朝は、思っていたよりもずっと明るかった。
カーテンの隙間から差し込む白い光で目が覚めたとき、氷凪青は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。見慣れない天井。ホテルの部屋特有の静かな空気。少し遅れて、卒業旅行に来ていたことを思い出す。
昨夜は、思ったより眠りが浅かった。
疲れていないわけではなかった。スノーボードは初めてで、何度も転んで、普段使わない筋肉まで酷使したのだから、体は確実に疲れていたはずだ。
それでも眠りが浅かったのは、たぶん体のせいではない。
胸の奥に居座っているざわめきが、まだ消えていないからだろう。
凛花への告白。
結愛への告白。
それを目撃したあの日。
そして、葉山に言われた言葉。
――早くしないと、二人とも誰かのものになっちゃうぞ。
あれから時間は少ししか経っていないのに、その言葉だけは妙にはっきり残っている。
「青、起きてるかー」
隣のベッドから葉山の声が飛んできた。
「起きてる」
「顔洗ったら朝食行こうぜ。今日も滑るんだから、ちゃんと食わないと死ぬぞ」
「大げさだ」
「雪山なめんなって」
葉山はそう言いながらさっさと支度を始める。こういう旅行での適応力は本当に高い。青は小さく息を吐いて体を起こした。
窓の外を見ると、昨日より少しだけ雲が薄く、雪面が朝日に反射して眩しく光っていた。
白い世界の中で、今日もまた一日が始まる。
## ◇
朝食会場はすでに賑わっていた。
クラスメイトたちはそれぞれ好きなテーブルに座り、パンを取る者、和食を選ぶ者、朝からやたらとテンションの高い者、まだ眠そうに欠伸を噛み殺している者と、見事にばらばらだった。
任意参加の旅行だからこそ、全体に妙なゆるさがある。
誰かが仕切りすぎるでもなく、教師の目があるわけでもなく、各自が程よく自由だった。
青と葉山がトレーを持って席を探していると、少し離れた場所で結愛が女子たちと笑っているのが見えた。向かいの席には凛花もいる。二人は昨夜どんな会話をしたのか、青には知る由もない。だが、朝の様子だけを見れば、少なくとも表面上ぎくしゃくしている感じはなかった。
それがかえって不思議でもあり、少しだけ安心でもあった。
「見すぎ」
葉山が小声で言う。
「見てない」
「いや、見てたって」
「お前が勝手にそう思ってるだけだ」
「へー」
にやつく親友を無視して、青は空いている席に腰を下ろした。
朝食中は、比較的穏やかだった。誰がどのコースに行くか、昨日の転倒がどうだったか、大学が始まる前にまた集まるかどうか。そんな他愛のない話があちこちで交わされていた。
青自身はあまり話さなかったが、周りの声を聞いているだけでも不思議と退屈ではなかった。
こういう時間も、もうすぐ終わるのだろう。
卒業旅行という名前の通り、この旅は高校生活の余韻にすぎない。終わればそれぞれの生活が始まって、同じように顔を合わせることも少なくなる。
だからこそ、昨日からクラスメイトたちの笑い声はどこか大きかった。今この時間が、簡単には戻らないことを誰もがわかっているのかもしれない。
## ◇
二日目の午前中は、昨日よりいくらかましだった。
もちろん、青は相変わらず何度か転んだし、葉山には笑われた。だが、最初のころのように何もできない状態ではない。滑り出しと停止くらいなら、どうにか形になってきている。
「青、昨日より全然いいじゃん」
少し離れた位置から結愛が声をかけてくる。今日の彼女もよく滑っていた。板さばきが軽く、雪の上を走るのが楽しくて仕方ないという感じが全身から伝わってくる。
「昨日がひどすぎただけだ」
「それはそう」
「肯定するな」
結愛が笑う。
その横では、凛花がスキー板を揃えたまま静かに止まった。
「でも、本当に上達してるわよ、青。体重移動も昨日より自然になってる」
「……そうか」
「ええ。少なくとも、今朝の一本目よりはいいわ」
「つまり一本目はひどかったんだな」
「事実を言っただけよ」
凛花は涼しい顔でそう言うが、その目はわずかに柔らかかった。
結愛がそんな凛花を見て、少しだけ口元を緩める。
「凛花ちゃん、相変わらず評価が的確だよね」
「結愛ちゃんほど感覚で教えられないだけよ」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるわ」
昨日の夜、二人の間に何があったのか青は知らない。それでも今こうして言葉を交わしている様子には、不自然な棘がなかった。
むしろ昨日より少しだけ、互いにまっすぐな感じすらする。
それがなぜなのか、青にはわからない。
わからないまま、二人の視線が時折自分をかすめていくことだけは、なんとなく感じていた。
## ◇
昼前になると、さすがに疲労が溜まってきた。
午前の最後の一本を滑り終えたところで、クラスメイトたちは自然とレストハウスの方へ向かい始める。昼食は各自好きなものを食べる流れになっていた。
レストハウスの中は、昨日よりさらに混んでいた。スキー客や観光客も多く、入り口付近には雪を払う音と湯気と人の声が渦巻いている。
青は券売機の前で少し立ち止まり、メニューを眺めた。
牛丼、豚丼、カレー、ラーメン、うどん。
雪山らしく高めの値段設定だが、そこに文句を言っても仕方がない。
「青、どっちにするか決まったか?」
横から葉山が覗き込んでくる。
「ああ」
青は少し考え、真面目に答えた。
「牛丼と悩んだが、豚丼にする」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
次の瞬間、葉山が盛大に吹き出す。
「いや、ランチじゃなくてだよ!」
「……は?」
「なんでそこで本気で昼飯の話になるんだよ」
「今、券売機の前だぞ」
「そうだけど、そうじゃないだろ!」
大げさに肩を震わせる葉山に、青は小さく眉を寄せた。
「何の話だ」
「雪城と黒金のことだよ」
その瞬間、周囲の喧騒が少しだけ遠くなった気がした。
青は視線を券売機に戻したまま、何も言わなかった。
「お前、まだ何も考えてないのか?」
「……考えてないわけじゃない」
「へえ」
葉山の声が少しだけ真面目になる。
「じゃあ、何かしら考えてはいるんだな」
「……」
答えられない。
考えている。
だが、それを言葉にできるほど整理できているわけではない。
結愛といると、温度が近い。自然と笑わされる。明るさに引っ張られる。気づけば、助けられていることが多かった。
凛花といると、静けさが落ち着く。言葉が少なくても通じる。理解されている感覚がある。昔から、どこか特別だった。
どちらも、本当だ。
だから厄介だった。
「まあ、お前が決めないなら、他の男が持ってくぞ」
葉山が軽く言う。
「……お前には真凛がいるだろ」
「いるけど?」
「なら冗談でも言うな」
「冗談半分だって。魅力的なものは魅力的だろ」
その言い方が妙に現実的で、青は小さく息を吐いた。
実際そうなのだ。凛花も結愛も、誰かが好きになるのは自然なことだ。第75話でそれは嫌というほど思い知らされたばかりだった。
そして、自分が何もしなくても時間は進んでいく。
その事実だけが、最近やけに重い。
「颯ー」
後ろから、聞き覚えのある声が割り込んだ。
振り返るまでもなく、星崎真凛だった。手にはトレーを持ち、明らかにこちらを訝しんでいる顔をしている。
「誰が誰を持ってくって?」
「いや、真凛、違うって」
「何が違うの?」
真凛はにっこり笑っている。
笑っているが、目が笑っていない。
葉山が珍しく言葉に詰まった。
「いや、その、青の相談っていうか……」
「ふーん」
真凛はじろりと葉山を見たあと、今度は青へ視線を向けた。
そして、不意に一歩近づいてくる。
「氷凪、ちょっと」
「……なんだ」
「耳貸して」
「ここでか」
「いいから」
断る隙もなく、真凛は青の肩を軽く引いた。耳元で、ひどく小さな声が落ちる。
「結愛、本気だから」
青の呼吸がわずかに止まる。
「遊びなら、絶対許さない」
その一言は、冗談ではなかった。
真凛はさらに笑顔のまま続ける。
「泣かせたら、私があんたをぶっとばすからな」
にこっと笑う顔が逆に怖い。
青は反射的に姿勢を正した。
「……はい」
自分でも驚くほど素直な返事だった。
真凛は満足そうに頷き、それから何事もなかったように離れる。
葉山が青と真凛を交互に見た。
「真凛、今、青に何言ったの?」
「ひ・み・つ」
「え、彼氏に隠し事?」
「あんたの方が隠し事多いでしょ」
「俺はない!」
「ある」
「ないって!」
言い合いながらも、どこか息の合った二人はそのまま別の席の方へ去っていく。
残された青は、しばらく券売機の前で固まっていた。
真凛の言葉が、予想以上に重く残っていたからだ。
結愛は本気。
そのことは、もうわかっているはずだった。ホワイトデーの日の涙も、キスも、卒業式の日の表情も。どれも遊びではない。
それでも、第三者の口から改めて言われると、まるで逃げ場を塞がれたような気分になる。
「青、後ろ詰まってるぞ」
葉山の声で我に返り、青は無言で食券を押した。
結局、選んだのはやはり豚丼だった。
## ◇




