第76話 白い世界で、隠せない想い(1)
# 第76話 白い世界で、隠せない想い
三月のある日。
氷凪青は、クラスの卒業旅行に来ていた。
卒業式から少しだけ時間が過ぎたとはいえ、まだ空気のどこかに「終わったばかり」の感覚が残っている。とはいえ今回の旅行は学校行事ではなく、あくまでクラスメイトたちが自主的に企画した、任意参加の卒業旅行だった。
来たい者だけが来る。
教師もいない。
生徒だけの、小さな最後の思い出作り。
集合場所の駅前でその話を聞いたとき、青は正直、自分がここにいること自体が少し不思議だった。
こういう行事に積極的な人間ではない。
受験が終わったとはいえ、わざわざ泊まりの旅行に参加する性格でもない。
それでも来たのは、葉山に半ば強引に誘われたこともあるし、結愛が「最後なんだから来なよ」と屈託なく笑ったこともある。凛花も来るらしい、と聞いたときには、なぜだか断る理由がひとつ減ったような気がした。
結局、自分でもよくわからないまま、その場の流れに乗ってここまで来てしまった。
バスの窓の外には、山へ近づくにつれて雪景色が広がっていた。
白い。
視界の端から端まで、山肌も木々も、屋根も道の脇も、何もかもが白く覆われている。都内では見ることのない景色だった。
「青、めずらしくぼーっとしてるな」
隣の席から葉山が顔を覗き込んできた。
「してない」
「してるって。ほら見ろよ、雪だぞ雪。テンション上がるだろ普通」
「お前が上がりすぎなんだ」
「卒業旅行なんだから当たり前だろ。しかもスキー場だぞ? 青春だろ?」
「そうか」
「なんでそんなに温度低いんだよ」
葉山は笑いながら、後方の席へ視線を向ける。
そこでは結愛が女子たちと一緒に盛り上がっていた。明るい声が車内のざわめきに混ざり、その少し前の席には凛花の姿もある。凛花は騒ぎすぎることはないものの、女子たちに話しかけられればきちんと応じていた。
卒業したあとであっても、二人の周囲には自然と人が集まる。
その光景を見ていると、卒業式の光景がどうしても頭をよぎった。
凛花への告白。
結愛への告白。
そして、それぞれの返事。
大切に思っている人。
特別な人。
葉山の言葉まで思い出す。
――早くしないと、二人とも誰かのものになっちゃうぞ。
青は窓の外へ視線を戻した。
まだ、自分の中で何かがはっきりしたわけではない。
それでも、あの日から胸の奥に小さなざわめきが残り続けていた。
「青ー!」
後ろから弾んだ声が飛んでくる。
振り返ると、が通路越しに笑っていた。
「雪、すごい!」
「ああ」
「青、こういうの初めて?」
「スキー場は初めてだ」
「やっぱり! なんかそんな気がしました。転びそうだもん」
「まだ滑ってない」
「でも転びそう」
「お前は最初から失敗する前提なのか」
「だって青、運動神経は悪くないのに、こういうのだけ妙に不器用そう」
その言い方に、前の席から結愛が笑いながら振り返る。
「わかる。青ってスノボとか絶対最初こけるタイプだよね」
「勝手に決めるな」
「じゃあこけないでみせてよ」
「……努力はする」
それだけ言うと、結愛は楽しそうに笑った。
凛花も少しだけ肩を揺らしている。馬鹿にしているというより、青がこういう話題に巻き込まれていること自体が珍しいのだろう。
バスの中には、卒業後特有の、少し浮き足立った空気があった。
もう生徒ではない。
それでも、まだ完全には離れていない。
その中途半端で、どこか眩しい時間が、青には少しだけ心地よかった。
## ◇
スキー場に着くと、クラスメイトたちは一斉に歓声を上げた。
「うわ、すっご!」
「白っ!」
「写真撮ろう、写真!」
空は高く、山の斜面は一面の雪で輝いていた。リフトがゆっくりと動き、遠くではすでに滑っている人たちの姿も見える。
レンタルショップでウェアや板を受け取り、更衣室で着替えを済ませて外へ出ると、そこにはさっきまでとは違うクラスメイトたちの姿があった。
普段の制服ではない。
色とりどりのウェアに包まれた姿は、それだけで少し新鮮だった。
結愛は明るい色味のスノボウェアを着ていた。派手すぎないのに目を引く配色で、彼女らしい華やかさがある。帽子から覗く髪もよく似合っていて、笑えば冬の景色の中でも妙に映えた。
凛花は対照的に、落ち着いた色のスキーウェアだった。派手ではないのに、なぜか上品で目を引く。無駄のない立ち姿のせいか、まるで最初からこういう雪山の絵の中にいるべき人のように見えた。
はもこもことした可愛らしいウェアで、本人の柔らかい雰囲気にぴったりだった。葉山はやたらと気合いの入ったゴーグル姿で、朝からずっと浮かれている。
「青、似合ってるじゃん」
結愛がそう言って近づいてきた。
青は自分のウェア姿を見下ろす。レンタルなので特に感想はない。
「普通だろ」
「いや、なんか普通にかっこいい」
「そうか」
「そうなの」
結愛はあっさり言い切り、それから青が持っているボードを見る。
「ほんとにスノボにしたんだ」
「葉山に流された」
「俺のせいにすんなよ」
葉山が割り込んできて笑う。
「初心者はスノボの方が青春っぽいだろ?」
「意味がわからない」
「まあまあ。青、こけたらちゃんと教えてあげるから」
結愛が胸を張る。
「結愛、滑れるのか」
「なにその反応。結構うまいよ?」
「私は知ってるわ」
凛花が静かに言った。
「中学の頃、家族で同じスキー場に来たことがあって、そのとき偶然見かけたの。結愛ちゃん、すごく上手だったわ」
「え、そうだったっけ?」
「ええ。あなた、すごく速かった」
結愛が少し照れたように笑う。
「へえ、凛花ちゃんに褒められるとなんかうれしい」
「事実を言っただけよ」
そんな会話のあと、クラスメイトたちは自然といくつかのグループに分かれていった。初心者組、経験者組、写真メイン組。任意参加の旅行ということもあり、無理に全員で同じ行動をする感じではない。
その気楽さが、青にはありがたかった。
そして予想通り、青は開始十分で転んだ。
「……っ」
雪の上に尻もちをつき、短く息を詰める。
痛いというほどではないが、情けない。
近くで見ていたクラスメイトたちが笑う。
「青、またこけてる!」
「氷凪、全然立ててないじゃん!」
「初めてなんだから、仕方ない」
青がむっとしながら言うと、少し上の位置から結愛が滑ってきた。ターンも減速も滑らかで、初心者とは明らかに違う。
「ほら、やっぱりこけた」
「言うな」
「青、もっと腰を落とさないと。あと、体が硬い」
「そんな簡単に言うな」
「簡単だよ。教えてあげる」
結愛は板を器用に止めると、しゃがんだ青の前に屈み込んだ。
「立てる?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめ。はい、手」
差し出された手を見て、青は一瞬だけためらった。
結愛に手を引かれる。
それだけのことなのに、どうにも意識してしまう。
「青?」
「……わかった」
手を取ると、結愛はぐっと引き上げた。思っていたより力が強い。よろけた青を支えるように、結愛が自然と距離を詰める。
「ほら、そう。膝曲げて」
「近い」
「教えてるんだから仕方ないでしょ」
顔が近い。
雪山の冷たい空気の中でも、結愛の吐息だけが妙に近く感じられた。
「青、視線下げすぎ。もっと前見て」
「……難しいな」
「でしょ? でも青ならすぐできるよ」
「根拠がない」
「あるよ。青、こういうとき変に真面目だから」
結愛は笑いながら、もう一度青の姿勢を直す。
その様子を少し離れた場所から見ていた女子たちが、何やらにやにやしているのが視界に入った。
面倒なことになりそうだと青が思ったとき、今度は反対側から凛花が滑ってきた。
「結愛ちゃん、そこだと青が余計に緊張しているように見えるわ」
凛花は涼しい顔で言い、青の横に並ぶ。
「青、スノボは上半身に力が入りすぎると逆に不安定になるの。少し肩の力を抜いた方がいいわ」
「……ありがとう」
「あとで、練習付き合ってあげる」
その言い方は自然だった。
押しつけがましくもなく、けれど確かに気にかけている。
結愛が「む」と小さく口を尖らせる。
「なにそれ、私も教えてるのに」
「知ってるわ」
「じゃあ対抗しないでよ」
「対抗しているつもりはないわ。ただ、青が困っていたから」
「それ、私も同じなんだけど」
言い合っているようでいて、どこか本気の張り合いにも見える。
青はその間に挟まれたまま、小さく息を吐いた。
葉山が少し離れたところからニヤニヤしながらこちらを見ているのが、ひどく腹立たしかった。
## ◇




