第75話 卒業のあとで(2)
# 第75話 卒業のあとで
先に口を開いたのは葉山だった。
「……見たか?」
青は、しばらく返事をしなかった。
見た。
聞いた。
どちらも、はっきりと。
「……ああ」
ようやくそう答えると、葉山は小さく息を吐いた。
「まあ、そうなるよな」
「何が言いたい」
「別に、責めたいわけじゃねえよ」
葉山は壁にもたれ、青の顔を見る。
「たださ、あの二人、本当にすごいよなって思って」
「……ああ」
「雪城は雪城で、近寄りがたいのに憧れの対象でさ。黒金は黒金で、あの明るさでみんな引っ張るし。お前の近くにいたから感覚麻痺ってるかもしれないけど、普通にあの二人、誰が見てもすげえよ」
青は何も言わなかった。
そんなことは、もうさっき思い知らされたばかりだった。
葉山は少しだけ間を置いて、真面目な声で言った。
「早くしないと、二人とも誰かのものになっちゃうぞ」
その一言は、妙に重く落ちた。
青は反射的に何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
誰かのもの。
それは当然のことだ。
凛花も結愛も、いつまでも独りでいるとは限らない。誰かが好きになって、誰かに選ばれて、あるいは自分で誰かを選んで、別の未来へ進む。
そんなことは、少し考えればわかる。
なのに、自分は今まで、その可能性をほとんど現実として考えたことがなかった。
同じ教室にいるのが当たり前だった。
話しかければ返ってくるのが当たり前だった。
生徒会室に行けば凛花がいて、振り返れば結愛が笑っている。
けれど、その日常は今日で終わった。
「お前がどうするかは、お前の自由だよ」
葉山が続ける。
「恋愛とか、そういうの興味ないってのも、別に否定しねえし。でもさ」
そこで一度言葉を切り、青をまっすぐ見た。
「後悔だけは、すんなよ」
青は目を伏せた。
後悔。
その言葉は、自分にとってあまりにも重かった。もうすでに、抱えきれないほどの後悔を知っている。守れなかったものがある。取り戻せないものがある。
だからこそ、葉山の言葉は胸に刺さった。
これ以上、同じような思いをしたいわけではない。
けれど、自分が何をどうしたいのか、まだはっきりとは見えなかった。
## ◇
「氷凪」
不意に名前を呼ばれ、青と葉山は同時に振り向いた。
少し離れた場所に、如月雫が立っていた。
卒業式用の落ち着いたスーツ姿に、いつものクールな雰囲気。だが、その目元にはどこか柔らかいものがあった。
「如月先生」
「葉山。少しだけ、氷凪を借りてもいいかしら」
「もちろんです」
葉山はにやりと笑い、わざとらしく一歩下がった。
「青、行ってこいよ」
「お前は」
「俺、空気読めるから」
そう言ってひらひらと手を振り、葉山は先にその場を離れていった。
雫はそれを見送り、それから青へ視線を戻す。
「少し話せる?」
「……はい」
青は頷き、雫のあとについて歩き出した。
向かった先は、人の少ない職員室棟の廊下だった。窓の外からは、まだ校庭のざわめきが聞こえる。けれどここは比較的静かで、卒業式の熱から少しだけ切り離された場所のように感じられた。
雫は廊下の途中で立ち止まり、青の方を見る。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
「三年間、よく頑張ったわね」
教師としての言葉だった。
けれど、それだけではないようにも聞こえた。
青は少しだけ目を伏せる。
「……如月先生にも、世話になりました」
「私は担任だもの。当然よ」
「それでも、です」
雫はわずかに笑った。
「氷凪がそう言うなら、素直に受け取っておくわ」
それから、ほんの少しだけ間を置く。
「今日で、もう先生と生徒じゃなくなるのよね」
青は顔を上げた。
雫の声音は軽いようでいて、どこか本気が混じっていた。
「……そうですね」
「なんだか不思議だわ。ついこの前まで、無愛想で手のかかる生徒だと思っていたのに」
「手はかけてないと思います」
「かけたわよ。いろいろと」
青が黙ると、雫は楽しそうに目を細めた。
「でも、今日で卒業なら、少しくらい違う話をしてもいいのかしら」
「違う話?」
「ええ」
雫は一歩だけ近づいた。
大人の女性らしい落ち着いた香りが、わずかに届く。
「教師だから遠慮していたけれど」
その言葉に、青はわずかに眉を動かした。
「大学生になったら、食事くらいなら付き合ってあげてもいいわよ」
青は珍しく反応に困った。
冗談なのか、本気なのか、その境目が曖昧だったからだ。
「……それは」
「なに、困る?」
「困るというか……予想していませんでした」
「でしょうね」
雫はくすりと笑った。
「その顔が見たかったの」
からかわれたのだと理解しても、完全にそれだけだと言い切れない空気があった。
雫はさらに続ける。
「もちろん、本気で困るなら忘れてちょうだい。でも、教師じゃなくなった私となら、一度くらいはゆっくり話してみたいとは思ってる」
青は静かに息を吐いた。
この人は、ずるいと思う。踏み込みすぎない距離を守りながら、こういうときだけ絶妙に揺さぶってくる。
「……覚えておきます」
ようやくそれだけ返すと、雫は満足そうに微笑んだ。
「ええ。覚えておいて」
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「氷凪」
「はい」
「あなたは、ちゃんとよく頑張ったわ」
その言葉に、青は一瞬息を止めた。
「全部うまくできたなんて、思わなくていい。でも、あなたはここまで来た。それは誰にも奪えない事実よ」
陽葵のことを、雫は口にしなかった。
それでも、その言葉が何を含んでいるのかはわかった。
青は視線を落とし、小さく頷く。
「……はい」
その返事だけで精一杯だった。
雫はそれ以上は何も言わず、ただ穏やかに見つめていた。
## ◇
雫と別れたあと、青はひとりで中庭の方へ歩いた。
校舎の影が少しずつ長くなり始めている。春の夕方が近づいていた。
頭の中には、さっきからいくつもの言葉が残っている。
凛花の「大切に思っている人がいる」。
結愛の「特別な人」。
葉山の「早くしないと、二人とも誰かのものになっちゃうぞ」。
そして雫の、「後悔しないで」と言外に告げるような眼差し。
どれも簡単には流せないものばかりだった。
恋愛に興味がない。
そう思っていたのは、たぶん事実だ。
妹のために医者を目指して、勉強を優先して、それ以外のことは後回しにしてきた。恋愛は自分には必要ないと思っていたし、考える余裕もなかった。
けれど、今は違うのだろうか。
違わない、とは言い切れなかった。
凛花が誰かに取られるかもしれないと思ったとき、胸がざわついた。
結愛が誰かの隣に立つ未来を想像したとき、言いようのない焦りに近いものが生まれた。
それが恋なのかどうかは、まだわからない。
わからないまま、それでも何かが変わり始めていることだけは、はっきりしていた。
「青」
前方から声がして、青は顔を上げた。
そこにいたのは、結愛だった。
告白を断った直後のはずなのに、彼女はもういつものように笑っていた。ただ、その笑顔の奥には少しだけ疲れた色も見える。
「まだいたんだ」
「……お前もな」
「そりゃあね。最後だし」
結愛は青の隣まで来て、同じように校庭の方を見る。
「今日、すごかったね。後輩たち」
「ああ」
「青、めちゃくちゃ囲まれてたじゃん」
「結愛もだろ」
「まあね」
そこで結愛が小さく笑う。
「なんか、変な感じ。卒業したんだなって、今さらじわじわ来てる」
「……そうだな」
青は横目で結愛を見た。
告白のことを聞くべきではない。そう思う。
けれど、聞かずにいることが妙に不自然にも感じる。
結局、何も言えないまま沈黙が落ちた。
すると結愛の方から、ぽつりと言った。
「今日さ」
「ん?」
「いろいろあったんだよね」
その言い方に、青の視線がわずかに止まる。
結愛は前を見たまま続けた。
「卒業式って、なんかそういう日なんだなって思った。終わる日だから、みんなちゃんと言葉にしたくなるのかも」
青は答えなかった。
結愛は、それ以上具体的には言わない。
きっと青が見ていたことにも、気づいていないだろう。
「でも」
彼女は少しだけ声を柔らかくした。
「青に渡したかったものとか、伝えたかったこととか、ちゃんと伝えられてよかったって思ってる」
先日のキスのことだ、とすぐにわかった。
青の胸の奥が、また静かに揺れる。
「……そうか」
「うん」
結愛は笑った。
「だから、後悔はしてない」
その横顔は真っ直ぐだった。
青はしばらく何も言えず、やがて短く息を吐いた。
「結愛」
「なに?」
「……いや」
言葉が続かない。
何を言えばいいのか、まだわからなかった。
結愛はそんな青を見て、少しだけ寂しそうに、それでも優しく笑った。
「いいよ。今はまだ、それで」
その一言に、青は救われたような、追い詰められたような、不思議な気持ちになった。
## ◇
結愛と別れたあと、青は校門へ向かって歩き出した。
途中、正門近くの桜の木の下で、凛花の姿が見えた。彼女は数人の後輩たちに囲まれながらも、穏やかに笑っていた。
ふと、その中の誰かが凛花に花束を渡す。凛花は驚いたように目を見開き、それから丁寧に礼を言って受け取った。
その姿は、やはり綺麗だった。
青は少しだけ立ち止まり、遠くからその光景を見た。
凛花は気づかない。
あるいは、気づいていても何も言わないのかもしれない。
青の脳裏に、校舎裏で聞いた彼女の声が蘇る。
大切に思っている人がいる。
それが自分だと思い上がるほど、自惚れてはいないつもりだった。
だが、否定することもできない。
そしてもし、本当にそうなのだとしたら。
自分は、どうしたいのか。
答えはまだ出ない。
けれど少なくとも、もう“考えなくていいこと”ではなかった。
校門の前まで来ると、葉山が待っていた。
「遅かったな」
「お前こそ」
「親友だからな」
「理由になってない」
青がそう返すと、葉山は笑った。
「でもさ」
「なんだ」
「今日のお前、ちょっとだけ普通の男子高校生っぽかったぞ」
「意味がわからない」
「わからなくていいよ」
葉山はそう言って、校門の外へ視線を向けた。
夕方の光の中、卒業生たちが少しずつ帰っていく。家族と並んで歩く者。友人同士で駅へ向かう者。何度も振り返りながら校舎を見上げる者。
それぞれが、それぞれの未来へ進もうとしていた。
青もまた、その中のひとりだ。
もう、ここに留まり続けることはできない。
同じ日常は戻らない。
凛花も、結愛も、紬も、雫も、これまでと同じ場所にはいない。
失ってからでは遅いのかもしれない。
その考えが、静かに胸の中へ沈んでいく。
青は校門の向こうに広がる春の街を見た。
風は少し冷たくて、それでも確かに冬とは違った。
変わっていく。
もう、何もかもが。
それでも、立ち止まったままではいられない。
「……帰るか」
青がそう言うと、葉山は隣で笑った。
「おう」
二人は並んで歩き出した。
卒業した校舎を背にして。
まだ答えの出ない想いを胸に抱えたまま。
春の始まりだけが、静かにそこにあった。




