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彷徨う雷雲   作者: 佐伯 蒼太郎
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17/26

新たな


(十七)


 加藤と美知子は土屋の勤める会社『株式会社シマコン』の社宅へ引っ越すことに

なった。

 土屋も何か手伝おうとしてやってきたが、荷物というほどの物は何も無かった。

 加藤が、リヤカーにいままで使ってきた毛布を積もうとしたのを見て、おもわず

口を開く。


「あっ、あのう、寝具はこちらで用意してありますから、それは処分してもらえま

すか」

(シラミのついた汚い毛布など持ち込んだら、社宅の管理人をしている頑固な爺さ

んに、何を言われるか分かったものじゃない)


 トラブルを起こしたくなかった。上司に何度も頭を下げて「とにかくよく働く男

だから」と、なんとか承諾してもらったのだし、身元保証人にもなったのだから。


 加藤は良くなっていた。

 中毒は完全に治り、アバラも指も、無理さえせずに仕事を選べば働くことも出来

るほどに。

 美知子は先に全快したが、行く所がないということで、病院側がしばらく預かっ

てくれた。

 幼い女の子ばかりの病棟ではあったが、テレビも見ていない美知子は、なかなか

回りの女の子と仲良く遊ぶことが出来なかった。ただ、裕美という、あまり容態の

良くない、動けない子が、美知子の汚れたウサギのぬいぐるみを可愛いと言ってく

れたのが切っ掛けで仲良くなった。

 美知子にとって、はじめて出来た仲良しだったので、病院を出る時にシクシクと

泣いた。

 社宅は二十年ほど前に建てられたもので、一戸建てではあったが、外観は相当く

たびれて見えた。

 玄関が半畳ほどで小さな靴入れがあり、正面は一畳の廊下、左に四畳半のキッチ

ン、右側にトイレと風呂、その南側に六畳の和室、キッチンの南側に四畳半の洋間

があって、和室には新品の布団が二組と、小さな卓袱台が置いてあった。


(土屋が買ってくれたんだな)


 加藤は給料が入ったら返そうと思う。

 台所には、鍋や炊飯器、食器などがすぐに使える様に揃っていた。

 兄弟でもなく親戚でもない、ただ町中での喧嘩が縁で知り合っただけなのに、こ

こまでしてくれる土屋という男に、心の中で頭を下げた。

 土屋は「引越祝いをしましょう!」と言って買い出しに出かけている。

 美知子は、六畳の部屋に置いてあった小さなテレビを見つけると、大喜びして点

けてくれと加藤にせがんだ。

 スイッチを入れてやると、ちょうどアニメをやっていたので食い入るように見て

いる。

 そこに土屋が大きな袋を両手で下げて帰って来た。

 柔道家らしい、四角いごつい身体をしている割には包丁さばきも上手く、あっと

いう間に卓袱台の上にごちそうが並ぶ。

 一升瓶とジュースを開けると、トクトクとコップに注ぎ、3人で乾杯をしようと

したが、加藤は口の手前でコップを止めた。

 土屋はいぶかって、「どうかしましたか?」と聞く。


「色々すまん。ありがとう」


 そう言って加藤は頭を下げた。美知子もそれを見て一緒におじぎをする。


「そんな、気にしないでください。それよりも最初は無理をしないで、マイペース

で仕事を覚えていってください。じゃあ改めて、カンパーイ!」


 加藤は一気に飲み干した。久々に口にする日本酒は、土屋への感謝と、取りあえ

ずの安堵感とでたいそう美味く感じる。


「そうそう、みっちゃん、ほら!」


 土屋はそう言うと、綺麗な包み紙を開けて箱を卓袱台の上に置いた。


「開けてごらん」


 そう言われて美知子が箱を開けると、色とりどりのケーキが現れた。


 シマコンでは大きなコンクリート製の板、PC板と、一般工事用のコンクリート二

次製品を作っている。加藤は二次製品の工場に回された。

 野球場がいくつも入るほどの広さに、コンクリートプラントとレールで走るクレ

ーンを持った工場、そして国道に面した入り口の脇に、二階建ての事務所があった。

 型に離型剤を塗ってコンクリートを流し込み、養生して固まったら型から外す、

 ピンホールと呼ばれる小さな穴があれば、それを補修する。それだけの単純作業

ではあったが、流動物が、ある形になってゆく過程はなかなか面白みがあった。

 重いものを扱うので、まだ完全に良くなっていない右手がもってくれるだろうか

と思っていたが、重量物はほとんど機械が動かしてくれたので、心配は杞憂におわ

った。

 加藤は懸命に働いた。土屋の行為に報いようと。

 数週間が過ぎて仕事にも馴れて来たある日、工場長に、事務所に行って書類を持

ってくるよう言われた。

 その事務所に入ると、女性事務員が加藤を見た。

『あら?』というような顔をする。


「あなたはバスターミナルで不良をやっつけた.......」


 加藤は(見られていたか)と思ったが、ホームレスだったことをまわりの連中に

知られたくはなかった。それが土屋に迷惑を掛けることになりはしないか、という

危惧がある。

 唇に人差し指を当てて、それ以上言わないでくれというゼスチャーをした。

 事務員は一瞬(何?)という表情をしたが、すぐニッコリ笑うと、書類を取りに

ファックスに向かった。


 社宅は工場から歩いて十分ほどの距離がある。

 手と顔を洗うと、会社から支給された作業服のまま、入り口の守衛に軽く頭を下

げ工場を後にした。

(毎日、時間通りに仕事をするというのも悪くないな)などと思いながら歩いてい

ると、後ろから「ホームレスさん!」と声をかけられドキリとした。

 振り返ると事務員の女だ。

 私服に着替えていたので、すぐには気づかなかったが、印象に残る笑顔で思い出

した。


「見ていたんですか」


「ごめんなさい。ホームレスさんなんて呼んでしまって。あの時、ちょうど帰りの

バスを待っていたんです」


「嫌なものを見られちまったなあ」


「ううん、あの若い二人連れが絡まれた時、私、自分が絡まれた様に心臓が止まり

そうになったの。誰も止めに入ってくれないし、どうなるかと思ったわ。あなたが

そこに来て....あの、お名前は? 私はなつみ、三枝夏美です」


「ああ、ええと、加藤です」


「下のお名前は?」


「宏明です」


「ひろあきさんかあ。私、あなたが三人を相手に、あっという間にのばしちゃった

時、もう、胸がキューってなっちゃって、もう言葉にならないくらいカッコよかっ

たわ」


「はあ、そうですか」


「でもリヤカーにダンボール積んでたし、あなたの格好は.....その..」


「汚かったでしょう」


「ええ。だから、どういう素性の.....あっ、ごめんなさい、そういう意味じゃなく

って、どういう人なんだろうって、だから今日、事務所でお会いした時、なんでう

ちの会社にって.....終業時間まで考えちゃいましたよ」


 話しながら歩いている間に、数棟立ち並んで小さな団地のようになっている社宅

の入り口に着いた。


「俺、これで」


「あっ、社宅に住まわれているのですね」


「君、あっ....三枝さんはどこまで?」


「例のバスターミナルです」


 そう言うと夏美はクスッと笑って「またお話したいです。ひろあきさん!」と、

少しお茶目に言った。


「はあ、こちらこそ」


 加藤はそう言ってから(もっと洒落た返事は出来ないのか)と自分を叱咤した。

(前に女性と口をきいたのは、何時だったろう)と考えてみたが、やはり会話らし

い会話となると、綾以来ということになる。

 社宅に入ろうとして、今一度振り返って夏美の後ろ姿を見た。雰囲気がどこか綾

に似ていると思う。

 上背は綾ほどなかったが、長い黒髪と細い顎、二重のはっきりした瞳、意思の強

さを表すような太い眉、人柄そのもののような笑顔。

 ただ、どこか決定的に違うものがあるとすれば、綾にどことなく感じた陰が、夏

美には微塵も感じられないことかもしれなかった。


「ミチ、ただいま!」


 そう言った声は心なしか弾んでいた。

 毎日にリズムがあった。

 美知子も幼稚園に行き出した。前は嫌がっていたのだが、生活が安定してきたこ

とや、社宅にいる子供達と少しずつ馴染んできたせいかもしれない。

 なによりもショックが薄らいできてくれたのだとしたら、加藤にとって、こんな

に嬉しいことはなかった。


 土屋は妻の薫に、この二人と出会った当時から、二人のことを色々と話をしてい

た。帰りが遅くなるのを変に勘ぐられたくはなかったのだ。

 薫は話を聞いて、二人に会ってみたいと思っていたのだが、それが土屋と同じ会

社に入ったと聞いて、俄然興味が湧いた。


「ねえあなた、加藤さんとお子さん、連れていらっしゃいよ。うんと御馳走しち

ゃうから」


「そうだな。誘ってみるか」


「でも、あれね」


「うん?」


「加藤さんって、みっちゃんという子に、ご飯も作っているわけ?」


「そりゃそうだろう。幼稚園に行くからって弁当も作っているらしいよ」


「自分の子供でもないのに、よくそこまで出来るわね」


 土屋は顔を曇らせた。


「そういうことを二人の前で言うんじゃないぞ。会社には自分の子供だってことに

してあるし」


「ごめん。言ったりしないわ。ただ、男の人だったら、女の人とつき合ったりした

りしたいんじゃないかなと思って......子供がいたら色々大変だなって」


「うん。誰かいい人でもいないかとは思っているのだけど、加藤さん、そういうの

不器用だからなあ。男から見ると、本当に良い男なんだけど」

(そうだ。結婚でもすれば復讐など忘れてしまうかもしれない)

土屋はそう思った。

 十分間のデートは続いていた。

 けれども、待ち合わせているわけではない。片付けを終えて会社を後にするのが

加藤の方が少し早いので、いつも夏美が後ろから声をかけてくるのだ。

 加藤は就業時間が終わるのを待ち遠しく思っていた。

 ここに来た時は残業も自分から買って出たが、今は残業になると、夏美が一人で

帰る後ろ姿が思い浮かび、寂しく感じた。


「ひっろあっきさん!」


 夏美の明るい声が後ろから聞こえる。けれども加藤はあたりを見回した。


「やあ。あの、出来れば名字で呼んでくれないかな」


「なんでですか?」


「あのう、まわりに人がいたら、変に聞こえるかもしれないし」


「変って、何が変なんですか」


「いや、俺はいいんだけど、君が......若いし」


 夏美はさっき迄の明るさから、少し神妙な顔になって聞き返した。


「若いし?」


「君は、いくつだっけ、ああ、女性に歳を聞いちゃいけないかな」


「ぜんぜん。二十四です」


「俺、もう少しで四十になるんだ。それに.......」


「それに?」


「ああ、何を言ってんだか分からなくなった」


 夏美はプッと笑った。


「別に一緒に歩くのに歳が関係あるんですか? 私、加藤さんと歩きたいだけ。い

けない?」


「いや、その、君と歩いたり話したりするのはとても楽しいんだ。だけど、誰かに

勘ぐられたりしたら、嫁入り前の君には良くないと思って」


 加藤は複雑な心境を素直に言葉にした。

 会社には妻は美知子を産んですぐに死んだということにしていた。


「じゃ、やめようかな」


 そう言って、加藤の横顔を覗き込む。

 二人ともゆっくり歩をすすめている。十分の距離を少しでも伸ばそうと。


「う〜そ! 加藤さん、お嬢さんがいるって言っていましたよね。今度一緒に遊園

地に行きませんか」


「遊園地?」


 美知子はどれほど喜ぶだろう。いままで一度も連れて行ったことはない。いや、

そんな状況ではなかったのだ。それよりも、夏美はどこまで考えているのだろう、

この若さのなかで。

 あっという間に社宅に着いてしまった。 

 自分から映画にでも誘おうか、という気持ちもなくはなかったが、色々考える

と、この気持ちを素直に深めて行くことは、彼女にとって良くないことではない

か、と思い始めていた。

 けれども、あっけらかんとした夏美の誘いに、動揺と驚きと、そして歓びを感

じている自分もみていた。


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