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彷徨う雷雲   作者: 佐伯 蒼太郎
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18/26

歓びと


                  (十八)


 最初は、それがどういうものか分からずに大人しくしていた美知子だったが、回

転木馬に加藤に抱えられながら乗ると、キャッキャと歓声をあげ、夏美に「おねえ

ちゃ〜ん!」と手を振った。

 観覧車では段々高くなるにつれて「こわいよ、おろして」とベソをかいたりもし

たが、ともあれ楽しくて仕方がないようだ。

 休憩所で夏美の作って来た弁当を広げ、昼にする。

 俵の形のおにぎりに卵焼き、唐揚げにタコにしたウィンナソーセージ、サラダに

フルーツ。当たり前の様な弁当だったが、美知子にとってはポリバケツから漁るの

ではない手作りの御馳走だったし、加藤にとっても、それは久々に女性を感じさせ

る弁当であった。

 めずらしくはないが、ひとつひとつに手がかけてあるのが分かり、味付けも若い

女の子にしてはしっかりしていた。

 加藤と夏美にはさまれて、美知子は終始笑顔が絶えない。

 加藤は缶ビールのプルトップを開けると、美味そうに喉に流し込んだ。

 空は青く、この遊園地のある丘陵の雑木林は色づきはじめている。こんなに心に

平安を感じたのは、何年ぶりだろう。いや、今までにあっただろうか。 嬉しそう

におにぎりを頬張っている美知子から視線を上げると、夏美が加藤を見て微笑ん

だ。

 美知子に喜んでもらえたこと、そして、今、この三人でいることを象徴するかの

ように。

 加藤はその視線に笑顔で答えたが、その返す視線の中に(本当にそれでいいの

か?)という想いもこめた。


 帰りの電車のなか、美知子は疲れたのか、夏美にもたれかかって寝てしまった。

その小さな美知子の身体を、夏美は大事そうに抱いている。


「どうしよう、途中で降りなくちゃならないけど、起こしちゃ可哀想だし」


「降りなけりゃいいじゃないか」


 加藤はそういって夏美の目を見た。いままでどこか及び腰だった加藤の一言に、

夏美はドキリとする。

 夏美は、小学校三年生の時に父を癌で亡くして以来、母親と、三つ年上の姉と女

三人で生活してきた。加藤の、モミアゲから顎にかけての剛毛の髭は、その父親の

髭にそっくりだった。 

 バスターミナルにいたあの日、それまで二年間つき合っていた男と別れ話をし

て、互いに別々の道を歩もうと結論を出した。どちらが悪いということではなか

ったが、互いに相手の中に関係を続けさせる意味を見い出せないでいた。分かれて

もさっぱりした訳もなく、どこか気落ちしたような、大事ではないけれども、いま

まで部屋のなかにずっと有ったものが、急に無くなったような空虚さを感じてい

た。

 そんな時に加藤を見た。

 ふてぶてしい物言い、目にも止まらぬ技、そして最後に放った少し気障な言葉。

それは夏美の心を動かさずにはおかない何かがあった。それがなんなのか、自問自

答するが、これといった答えは出せないでいた。

 あの時の加藤と、今、夏美の前にいる、静かな男と同じだとはとても思えなか

ったが、そのシャイな中にあの時の『男』がいると思うと、再び胸が締めつけられ

るのだった。

 社宅に一番近い駅に着くと、美知子を起こした。


「あっ、おねえちゃんもおうちにくるんだ!」


「うん、ちょっと寄らせてもらうね」


 美知子は二人の手を掴むと、前に公園で、よその子が両親にやってもらっていた

『ブランコ』をせがむ。加藤は軽く支えたが、美知子の半分の体重が夏美の腕にか

かると、思ったよりも重かった。けれど「おねえちゃん!」と言って笑いかける笑

顔を見ると、彼女の中の母性が目覚めるのを感じさせる。


 「夕ご飯作るね」


 夏美はそう言って、買い物に行こうとすると、美知子も「わたしもいく!」と言

う。


「それじゃ、俺も行くか」


  なんだか疑似家族のようで面映い気持ちはしたが、美知子は夏美に懐いている

し、三人で歩くのは加藤にとってもどこか嬉しいのだ。 


 夕方の混雑のピークは過ぎていたが、それでもこの巨大なスーパーマーケット

は多くの主婦を飲み込んでいる。

 夏美は馴れた手つきでカートにカゴを乗せると、美知子を引き連れて野菜のコ

ーナーへと向かった。

 加藤はブラブラと店内を見て歩く。普段は加藤もここで買い物をしているのだ

が、いつもは安いものにしか目がいかないし、買う予定のない物は見ることもなか

った。けれど、今日は夏美に任せておけるので、普段あまり見ることのない物を観

察するかと思う。

 いつも豚の細切れくらいしか買ったことのない、肉のコーナーに行く。

 一切れ三千円もするステーキ用の肉があった。霜降りで熟成が進んで暗い赤身が

さしている国産和牛だ。


(これくらいのが美味いんだ)


 自衛隊時代、たまに武井とステーキを食いに行った。

 寮にいれば金を使うことはないし、加藤も武井もあまり遊ぶということがなかっ

たから、金を使うといえば、美味いものを食うのが専らだった。

 武井はヒレを好んだが、加藤は脂身のあるサーロインが好きだった。ガーリック

オイルと刻んだエシャロットに醤油を混ぜる。それに粒のあるフレンチマスタード

で食べると抜群に美味かった。

 武井は、肉がうまけりゃ塩と胡椒で十分だと言って、加藤の食い方を邪道だと揶

揄した。

 そのことを思い出すと、なぜ、綾をカレーに誘ったのだろうと、ステーキではな

くカレーだったのだろうと思う。

 そして、そのステーキハウスの情景と、残飯を食って悶え苦しんだ夏の日の情景

が、ごっちゃになって頭に浮かんだ。のたうちまわりながら見えた、白い太陽が。


(俺は何をやっているのだろう。武井は武井なりに人生を終えた。死に方がどうあ

ろうと、あいつはあいつらしかった。それに引き換え、この俺は、何のあても、何

の目的も予定もなく、その日その日をだらだら送ってきた。まるで根無し草じゃな

いか)


 そんな想いに沈んでいると、その三千円の肉のパックに手を伸ばした主婦がいた。


(どんな奴がこんなに高い肉を買うんだ?)


 そう思って視線を上げ顔を見ると、心臓が高鳴った。


(公園のトイレにいた……ミチを誘拐した女だ)


 目紛しく頭が回転しだした。


(まだレジには向かいそうもないな)


 加藤は夏美のもとへ行くと、「用事が出来たから美知子と二人で先に帰ってく

れ」と家のキーを渡す。

 女に気づかれないように死角に移動すると、見失うまいとずっと見張っていた。

 女は買い物袋を下げてスーパーを出た。車に乗るのかと思ったが、駐車場には向

かわずに表の道を右に歩きはじめた。(繁華街の方向か)加藤は30メートルほど

の距離をとって尾行するが、後ろを気にする気配はまったくない。途中三回ほど角

を曲がって閑静な住宅街に入ると、立派なマンションに入って行く。

 しばらく間をおいて入り口に行ってみたが、カード式ロックになっていて、部外

者は入れない。


(あの女は組員の誰かの妻か情婦だ。それにしてもこんなに近くにいたとは)


 マンションの前の道は、すぐに突き当たり、神社の登り口の階段になっていた。


 社宅に帰り着きドアを開けると「おかえりなさい!」と夏美と美知子が口を揃え

て迎えてくれる。

 良い匂いがする。卓袱台の上にはハンバーグとみそ汁とご飯があった。


「おいしそうでしょう」美知子が言う。


「これ、おねえちゃんと一緒につくったんだよ」


「そうだよね」と夏美。


 加藤の頭の中は色々なことが渦を巻いていた。考え事をしながら、口だけが咀嚼

するために動いている。


「宏明さん、どうしたんですか、怖い顔して」


「あっ、ああ、なんでもないんだ」


 あいつ等とかかわらなければ、貧しくとも平和に暮らしていけそうな気がする。

けれども、燃えたぎる様な執念も消えてはいなかった。

 ただ美知子の例もあるし夏美が綾のようにならないという確証はどこにもない。

(俺だけだったら......)そう思うと、やはり夏美との関係を深めていくことは避け

た方がよいのではないか。

 そこまで考えて美知子の呼ぶ声に現実にかえった。


「とうちゃん、やっぱへんだよ」


「ああ、ごめんごめん」


「さっきのスーパーで何かあったんですか?」


「いや、何もないさ。しかしこのハンバーグ美味いなあ」


 本当に美味かった。この若さでこれだけの料理が作れれば、良い嫁さんになれる

と思う。


(俺みたいなホームレスという前歴有りのオジンより、もっと若くて有能な奴の方

が、こいつにはお似合いじゃないのか)


 夏美と出会って、未来に微かな灯りを見たような気がしていたが、現実の自分は

その灯りを目指す資格すら無いように感じる。


(じゃあ、美知子は? 美知子まで俺は犠牲にするつもりなのか)


「おねえちゃん、とまってくよね?」美知子が聞いた。


「う〜ん、みっちゃんのお父さんがいいって言ってくれたらね」


 加藤は驚いて思わず夏美を見た。(そろそろ送って行くか)と思っていたのだ。

 夏美は悪戯っ子のような笑みを浮かべて加藤を見ている。


「とうちゃん、おねえちゃん、とまっていってもいいよね?」


 だめだと言える雰囲気ではなかった。


「あっ、ああ、いいとも」


「わ〜い、おねえちゃん、いっしょにおふろはいろ!」


 そう言うと、夏美の手を強引に引っぱっていった。

 小さな浴室から二人の楽しそうにはしゃぐ声が響く。

 美知子が自分からこんなに積極的になったことは今迄なかった。

 加藤と二人きりの、世間から遮断された世界にいて、まわりからも蔑まれた目で

見られていれば、そんな甘えたことも言えないでいたのだ。我慢していたのだ。

 六畳間に布団を二つ敷くと、美知子をまん中にして川の字になって横になった。

 美知子は夏美に「コチョコチョ〜」と言っては、くすぐっている。夏美も「仕返

しだ〜」と言って美知子をくすぐると、「ウヒャ〜」と言って転げ回る。

 ハイになっていた美知子だが、今日は、はしゃぎすぎて疲れたのだろう、しばら

くすると小さな寝息をたて始めた。

 視線をあげると、薄暗いなかに加藤を見つめる夏美の目があった。加藤は上半身

を起こすと、美知子の身体越しに夏美の肩を抱き、少し開いたその唇に自分の唇を

押しあてた。


 美知子は、幼稚園でのお昼が嫌だった。

 この幼稚園では、昼食は各自弁当を持って来ることになっている。

 まわりの子供達の弁当はカラフルで可愛く、母親の気づかいが感じられたが、加

藤にはそういう才覚は微塵もなかった。ともあれ(うまけりゃいい)としか考えて

いない。

 美知子が弁当を開くと、そこには、ど〜んと焼いた肉などがのっていたり、美知

子がエビが好きだからと、エビフライだけごっそり入っていたりする。

 ポリバケツを漁っていた時のことを考えれば御馳走には違いないのだが、意地の

悪い男の子に、弁当をからかわれたことがあったりして美知子はいやだった。

 けれども、朝早く起きて作ってくれている加藤の背中を見ると、とても文句など

言えない、加藤の苦しみを間近で見て来ただけに。

 昼が来て、幼稚園指定の黄色いバッグから弁当を出した。いつもと違う明るい花

柄のハンカチに包んである。

(あれ?)フタを開けると美知子は声をあげそうになった。美知子の大好きなウサ

ギの絵が、卵の黄身と白身で描いてある。目はケチャップで赤く、おかずの配置も

とても綺麗で可愛く、まわりのみんなに自慢したくなるほどだ。


(おねえちゃんが作ったんだ)


 夏美は前日から美知子の弁当を考えていた。加藤が弁当を作っていることは聞い

ていたが、男の作る弁当には想像がついた。 それでも美知子が我慢しているだろう

ことを察知していたので、喜ばせてあげたかった。美知子が起きる前に作って、バ

ッグに入れておいたのだ。


(それにしても......)朝方、加藤が言った言葉が何故か脳裏に引っかかっていた。


「悪いが、用事が出来たので今日からしばらく一緒に帰れないかもしれない」


「用事?」


「ああ、野暮用なんだが、ちょっと寄らなければならない所ができたんだ」


「ふ〜ん、どういう所、しばらくって? もしかして彼女?」


「馬鹿言うな。俺がそんなにもてると思うのか」


「もててるじゃない。こんな可愛い娘に」


 そう言って自分を指差した。

 加藤は「ああ、本当だ」と言って笑った。

 夏美はそれ以上詮索しなかったが、何か得体の知れない重いものを予感させて、

胸騒ぎが止まらなかった。

 加藤は、仕事が終わると、毎日あの女の入って行ったマンションに通った。あの

女の『男』が誰かを知りたかった。

 加藤は高速の料金所までしか行っていないのだ。武井と綾を殺したのは誰か、殺

させたのは誰か、それを突き止めたい。

(それを知ってどうする?)それは分からない。今、この時は、美知子のことも、

夏美のことも頭から消えていた。


(とにかく突き止めて、それから考える。ジキルとハイドの思考とは、こういうも

のかもしれないな)


 加藤の口元には、避ければ良いのにそれが出来ない自分の性分に、諦観にも似た

笑みが浮かんだ。

 見張り始めてから、もう二週間が経っていた。どの部屋かも分からない。中にも

入れない。入り口の見えるところで、ただひたすら待つしかなかった。車でもあれ

ばその中で待てるのだが、車を持つほどの余裕はなかった。

 マンションの前の道の突き当たり、神社の階段の一番上に一対の石造りの稲荷が

ある。その左側の稲荷の裏が加藤の指定席になった。 

 ここからなら入り口が見渡せるし、向こうからは、あえて見上げなければここは

見えない。だが、何時迄もここにいるわけにはいかない。美知子に夕飯を作らなけ

ればならないし、風呂も沸かさなければならない。美知子のために生活のリズムを

壊したくはなかった。

 あの日から、美知子は「おねえちゃん、こないかなあ」と、夏美が来るのを心待

ちにしている。

 夏美も「また、行っていい?」と聞いてくる。

 彼女が来てくれるのは加藤も嬉しく思ったが、もし、自分の居所がヤクザに知ら

れてしまったら、いや、今やっているような行動さえしなければ、ヤクザとかかわ

らなければよいだけなのだが、それは出来ない。そう思うと、夏美が来ることに諸

手を上げることは出来なかった。


 夕日のなかにマンションに向かって来る二人のシルエットが映った。

 まだ顔の分かる距離ではなかったが、女の仕草や風体が、あの女であろうことは

間違いなさそうだった。

 どんどん近づく。男は......顔が見えた。


(細ネクタイ.....川西、俺の指を折った男)


 加藤の二本の指が疼いた。あの時の痛みと屈辱が蘇ってくる。


(いけない、感情を押さえろ。今日は上出来だ。今日はこれで帰るんだ)


 社宅に帰る。明るい声が家の中から聞こえた。

「来ちゃった」夏美が茶目っ気を含んで言う。

 加藤は一瞬怒りそうになったが、美知子もいる。怒ったところで、その理由は加

藤にしか分からない。

 怪訝な表情の加藤を見て、喜んでくれるだろうと思っていた夏美は少し悲しい顔

になった。


「いけなかった?」


「いけなくはないけど、なんで来るって言ってくれなかったんだ」


「だって、行きたいって言っても、『こいよ』って言ってくれないじゃない」


「この間だって、泊まっていってお袋さんは心配しなかったのか?」


「もう大人だもの。そんなの私の自由よ。宏明さん、なんだか私のこと子供扱いし

てる」


 夏美の非難を含んだ瞳を加藤は正視できないでいた。

 夏美に全てを打ち明けられれば、すっきりしそうな気もしたが、それは絶対に出

来ない。それが切っ掛けで巻き込まれでもしたら。そう思うと、自分が殺される以

上に恐ろしかった。


「すまん。俺が悪かった」


 これ以上言い合って、美知子の前で喧嘩はしたくないと思った。

 卓袱台の上には湯気を立てる美味そうな料理が並んでいた。


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