友達の話
あれほど学校を辞めたくないと思った翌日に、これほど学校に行きたくなくなるとは思わなかった。
何って、隣の男のせいだ。
「道が狭いな」
「この車の横幅が大きいからでは……?」
ハンドルを握り、まっすぐ前を向いた晴臣には見えないように、聡子は助手席でため息を吐いた。
昨日、内務省から送られた時に乗った自動車は、てっきり官用品だと思っていたのだけれど、どういうわけか、槙野家の庭に停車されたままになっていた。
朝になっても変わらず停まっていることを訝しんで晴臣に尋ねると、彼は当たり前の顔で「出勤に使っている私物だが、通りがけに女学校に送っていってやる」などと言う始末。
確かに、このご時世、裕福な者なら自家用車を持っていてもおかしくはない。事実、華族女学校では、お抱えの運転手がお嬢様の送り迎えをしている例は、いくつもある。
だが――『いくつもある』というのは『数例しかない』ということでもあって。
「それじゃあ、聡子さん。また帰りに迎えに来るから」
「え、ええ……」
それまで自動車を使っていなかった者が使い始めれば、目立つ。
おまけに、その者が、悪い意味で注目の的である槙野聡子だったなら。
ついでに、背が高く目立つ容姿の美青年の送り付きなんて、それはもう――。
「「「何よ、あの男前っ!」」」
ドアを開けて聡子が降りるのをエスコートした晴臣が、再び車に乗り込んで走り去った途端、周囲の女学生が飛びかかり、押し寄せてきた。
彼女たちの目は好奇心と野次馬心に爛々と輝いている。
(だから、嫌だったのにっ! ……これ、帰りも同じことになるのっ!?)
聡子は必死に脚を動かして逃げ回り、人の少ない勝手口まで回って軍勢を撒き、教室へとたどり着いた。
同時に予鈴の鐘が鳴る。一、二限は通しで仏蘭西語の授業だから、この時間は乗り切れそうだ。……その後の昼休みは、また逃げ回らないといけないだろうが。
時間終わりの鐘が鳴った途端、教室を飛び出そうとした聡子の肩に、ぽん、と手を置かれた。
「噂のご当人からお話を聞きたいのだけれど?」
「志乃ったら!」
まさか親友まで野次馬してくるなんて。
絶望しかけた聡子に軽やかに片目を瞑って、志乃は周りに聞こえる声ではっきりと言い放った。
「いいじゃない。私と聡子の仲だもの。……ね? 他の人には、私がいいように言っておくから」
――この後、あなたたちにも話すから、まずは私に聞かせなさい。
言外の意味に渋々と引き下がる野次馬の中を、志乃は「中庭でランチにしましょう」と手を引いて押し通った。
「こういうのはね、隠すと余計に食いつかれるのよ。簡潔で不足のないつまらない筋書きをしらーっと出すのが一番早く飽きてもらえるの」
「勉強になります……」
さすが、年中、記者に追い回されている大富豪の娘である。
含蓄に富んだ教訓を頭に刻みつけつつ、聡子は昨日からの事の顛末を志乃に話した。
もちろん、辰巳公爵家がらみであることや「父が指輪を盗んだり人を殺したかもしれない」というところは伏せて。
あの豪華絢爛な指輪の実物を見ていない志乃にとっては「聡子がたまたま晴臣の知人の形見を手に入れて縁が繋がった」という程度に受け取ったらしかった。
「……なるほど? それってまさに縁結びの指輪じゃない! やったわね、玉の輿よ!」
「そういうのじゃないわ、婚約だけだもの」
晴臣は指輪のことが気になっているだけで、聡子にはまるで興味はないし、彼との将来はあり得ない。
聡子が首を振ると、肩をがしりと両手で掴まれた。
「聡子、あなた分かってないわね!」
「志乃? 何? どうしたの?」
「あなたね、あんなふうに男性に学校まで送られて、それで結婚しなかったら、あなたの評判はがた落ちよ。『男を手玉に取って足代わりにしている不良娘』とか、好き勝手言われちゃうんだから!」
「ええ……?」
大袈裟ではないか、と思ったが、志乃の顔は大真面目だ。
確かに、あれだけ注目されていたら、破談したときの噂もずっと残ってしまうのかもしれない。
「いいこと? 意地でも結婚まで持ち込みなさい!」
「……志乃までそんなこと言うなんて」
まるで、『結婚結婚』とうるさい母と同じじゃないか。
面白くない気持ちになって、聡子が唇を尖らせると、志乃はふっと頰を緩めた。幼気なものを見るような視線だ。
「あのね、私は独身主義者じゃないわ。いかにも不幸になりそうな選択をする人を見ていられないだけよ。幸せになれそうな道なら、飛び込まない理由がないでしょう? それに、その方がわくわくするしね?」
「わくわく、って……他人事だと思って、簡単に言ってくれるわね……」
これが幸せになれそうな道だと思うこと自体が誤解なのに。
(晴臣さんにとっても、ご迷惑でしかないもの。こんな状況は一刻も早く解消したいはずよ)
これは期間限定の、先のない関係なのだ。




