家族の話
放課後、家からの迎えが来る者や自転車通学の者を横目に、聡子は足早に市電の駅に向かった。
須田町の停留所で市電を乗り継ぎ、帰りついた本郷の屋敷には今日も、どんよりと澱んだ空気が立ちこめていた。
荒れた気配がするのは、使用人が去ってから自分たちの手でする他ない屋敷の手入れが行き届いていないせいかもしれない。
静かな空間に、こほん、と小さく咳をする音が聞こえた気がして、教本の風呂敷包みを抱えたまま、聡子は妹の部屋に足を運んだ。
「爽ちゃん、具合はどう?」
やはり咳の発生元はこの部屋だったらしい。
口元を手で覆って、こほこほと背中を震わせていた少女は、聡子の声に気づいて振り向いてきた。
「あっ! おかえりなさい、姉様!」
「ただいま」
にこにこと笑みを浮かべて歓迎してくれたのは、聡子のたった一人の妹、爽子だ。
五つ年の離れた妹は、来年から女学校に通う齢だが、聡子の知る下級生よりもさらに一回り小さく、幼く見える。
姉の贔屓目というべきか、そんなところも可愛らしいとは思うのだけれど。
「ねえ、姉様。あたし、今日もお家でとってもいい子にしていたのよ! 学校の話を聞かせてくださらない?」
寝込んでばかりなのは退屈なの、あたしも来年には学校に通うんだもの、ときらきらと希望に満ちた輝く目でねだられて、聡子は唾を呑み込んだ。
爽子は何も悪くない。
当たり前に将来に夢を抱いているだけだ。身体が弱くて小学校のうちから休みがちで、外の世界を知らないから、夢を見られるだけだ。
(来年は、どうなっているかしら)
槙野家の当主である父が、華族の悪友たちと賭博に耽り、それを咎められて失踪してから、家の収入源はない。
財産を切り崩しながら騙し騙し二年間乗り切ってきたけれど、爽子を学校に通わせて、きちんと卒業させるところまでお金はもつだろうか。せめて、聡子が働けるようになる時まではもってくれないと困る。
そこまでして学校にやったとして、爽子も女学生たちから家のことで軽んじられるのだろう。
聡子が傍について守ってやることもできないのに、この子兎のような妹を、一人で冷たい学舎に放り込めと?
それに、もっと悲しいことに、近頃の爽子の体調だって思わしくない。
かつて診断した医者は、爽子を療養にやってはどうかと言っていたけれど、空気の綺麗なところでの療養とはそれほど効果のあるものだろうか。もっといい治療法はないのか。
何か解決策があるとして、そのための金はどうやって用意すればいい?
(……お金さえあれば。ああ、お金が欲しい)
黙り込んだ聡子に、妹は怪訝そうな顔をした。焦れたように「姉様」と呼びかけられる。
「ああ、ごめんなさい、ぼうっとしていたわ。今日ね、許嫁から贈られた指輪を持ってきた人がいたのだけれど……」
爽子には暗い現実など見せたくない。
華子の指輪の話と、志乃が卒業したら会社を始めるつもりだという話だけをした。景気のいい話の方が、聞いていて楽しいし、爽子の活力にもなるだろう。
案の定、妹は興奮した様子で、頬を赤く上気させた。
「わあ、素敵ね。いいなあ、あたしにも、そういうお話はいただけるかしら」
「ふふ。爽ちゃんなら、きっと、よりどりみどりよ」
「あたしの前に、姉様だけれどね。いいご縁が来るといいけれど……でも、できることなら、姉様がお嫁に行くより、お婿さんに来てほしいわ。あたし、姉様と離れたら寂しいもの……」
「爽ちゃん」
しゅんとして呟いた妹に「ご縁があればね」と囁いた。
爽子はまるで、聡子がよりどりみどりで選べる立場にいて、その中で自分を選んでほしい、というように言うけれど。
客観的に言えば、聡子は婿のなり手もいない不良物件だ。心配しなくても、聡子は誰にも嫁ぐことができないまま、ずっとこの家にいるだろう。
その人生が幸せかは分からないけれど、それで寂しがりやな妹を悲しませなくて済むのなら、少しは良い面もあるのだと思えた。
だって、聡子がこの家を離れたとしたら――。
「聡子さん、やっと帰ったのね! 話があるのよ!」
廊下の床板を踏み荒らす音がして、爽子の部屋を区切る襖がぴしゃんと開け放たれた。
苛立ちを纏った声を聞いて、聡子はあえてゆっくりと、声の主を振り返った。
「……お母様」
――聡子がいなくなったら、爽子を母と二人きりにしてしまうことになる。
「あなたと話すために待っていたのにっ、ああ、どうして、学校なんて……っ!」
母の朝子は、元は四十がらみの年の割には整った容姿をしていた。だが、今では病と気鬱によって、見る影もなくやつれてしまっている。
それでも、一日中寝込んで床から身を起こすこともできない日に比べれば、怒る元気のある今日の方がましか、とほっと息を吐いた。
「今日はお加減はよろしいの? それならよかった――」
「どこの加減がいいもんですかっ!」
気遣いの言葉も、甲高い金切り声で遮られてしまったけれど。
いつもそうだ。きっかけはほんの少しのことで、たわいもない日常会話をしていただけで、ふとしたことが母の逆鱗に触れてしまって、母は烈火のごとく怒り出す。
もうとっくに慣れたはずなのに、母の怒鳴り声を聞くと、聡子はいまだに身を縮めてしまう。
怯えたって、母は聡子を詰るのを止めてはくれないのに。
自分よりも幼い妹も、怯えた目で母を見て、聡子に縋るように袖を掴んでいるのに。
「お父様があんなことになってから、一日だってぐっすり寝られりゃしないわ! 頭が痛くて痛くてっ、それなのに、あなたの嫁ぎ先の世話もしてやらなくちゃならない!」
元からこういう人だったら、諦めもついただろうに。
昔の母は、明るくて優しい人だった。あの事件以来、変わってしまっただけだ。
なまじ責任感の強い人だったから、夫が他人に迷惑をかけたことにも、その罪の償いもしないで逃げ回っていることにも、自分たちが矢面に立たされて、事態は解決しないままで膠着状態に置かれていることにも、全てに耐えかねたのだろう。
母の気持ちは理解できる。だからこそ、状況が変わらない限り、母の状態が良くなることはないことも、分かってしまう。
「お母様。具合が悪いときにご無理はなさらないで」
無駄だと分かっていても、変わってしまった母を見るのが辛くて、聡子は母を宥めようとした。
ここには、母の剣幕にすっかり怯えきった爽子もいるのだ。彼女を怖がらせないために、少しでいいから落ち着いてほしかった。
「あなたがっ、前の縁談で嫁いでおけば、悩みも少なかったんだわ!」
「それは……っ」
矛先が自分に向けられて、聡子はしどろもどろに口ごもった。
母の言う『あの時ああしていれば』というのは、いつも、何年も前のことだ。そんなことを今更言ったところでどうにもならないうえに、筋の通らない無茶な話も多かった。
「だ、だって。前に縁談が持ち込まれたとき、私はまだ十三歳で」
「それが何!? ああ、お父様が甘やかしてばかりだから、こんな我儘な子になってしまった……!」
数年前なら条件のいい縁談の話があったのは事実だけれど、当時は女学校に入ったばかりだった聡子には、まだ結婚のことは考えられなかった。
それに、十三歳での縁談は他と比べてもかなり早い。仮に話がうまくまとまったところで、数年は婚約に留めることになって、実際に嫁入りするのは何年も先になっただろう。
そして、婚約期間中に父が事件を起こして、結局は婚約を解消されて今と変わらない結果になったのではないか。
そんな現実的な見立ては、きっと、母も分かっている。
それでも母は、聡子に「今のこの事態はお前のせいだ」と鬱憤をぶつけて晴らしたいのだ。
縁談がまとまってさえいたら、父は悪い仲間と連むことなく賭博にも手を出さなかったかもしれない。そうしたら、今こんなに辛い思いをすることはなかったのだ、と一番上手く運んだ『もしも』を夢見ている。
「ごめんなさい、お母様。それで、今日はお話があるのでしょう?」
母の文句に真面目に取り合っても、母の心には響かない。
それは置いておいて、今日は用件があるから私の帰りを待っていたのでしょう、と話の先を促すと、母は興奮した様子で言い募った。
「ええ、ええ、そうなの。見て! あなたに良い縁談が来たのよ!」
「良い縁談って……」
良い縁談なんて、不名誉な醜聞で没落した家に来るはずがない。話を聞いてみれば案の定、五十も年の離れた成金の、後妻の口の話だった。
それだけならともかく、その相手には、成人して事業を立派に継いだ息子どころか、孫までいるらしい。家の財布を握っているのが息子なら、そこに聡子が嫁いだところで、槙野家に有利になる金の差配はできないだろう。
母は、聡子が嫁ぐときの支度金として幾ばくかのお金に替えるだけで御の字だと思っているかもしれないが、聡子がいなくなれば、この母と爽子を二人で置いていくことになる。
そう思うと、聡子が嫁いだ後も支援できる嫁ぎ先であることは必須条件なのに。
「……なあに? 気に入らないの?」
黙り込んだ聡子をじいっと見て、母が声を低くした。母が不機嫌になる合図だ。
聡子は慌ててごまかすように言葉を継いだ。
「いいえ。私だって華族の娘ですもの、お家のためになるご縁なら、どんなお相手だろうと喜んでお受けしますわ。でも今回の方は――」
「この恩知らず! 母がせっかく選んであげたのに!」
どんなに言葉を慎重に選んだところで、やはり母を怒らせてしまう。仕方がないか、聡子が母に逆らったことは事実なのだから。
ひと通りの罵倒を浴びて、聞き流して、喚き疲れた母が寝床に戻るまでを見守った。
「姉様……」
「大丈夫よ、爽ちゃん」
ひしと抱きついてきた妹の背中を撫でて、何度も「大丈夫」と呟いた。
妹に言い聞かせていたつもりなのに、自分の声が泣き出しそうに揺れるのが分かって、「大丈夫」に縋りつきたいのは自分だと気づく。
もう慣れっこだ。母の文句だっていつもと同じで、新しく聡子を傷つける言葉なんてなかった。聞き飽きたくらいだ。
それなのに、どうしても心は痛む。
(ああ、お金が欲しい。お金があれば、いくつかは上手くいくこともあるのに)
問題が全て解決するとは言わないけれど、自由になるお金があれば、少なくとも妹も母も、聡子も、こんな気持ちで過ごさなくていいのに。
そんなふうに切実に願っていたからだろうか。
今月の生活費の支払いも怪しくて、他に何か換金できるものはないかと古い蔵を探った聡子は、隅に置かれた机の抽斗に入っていた小さな袋を見つけた。
「……何かしら、これ」
この机は、聡子がまだ小さかった頃に部屋に置かれていた記憶がある。模様替えの時に蔵に移されて、そのままになっていたのだろう。
袋の上から触れば、硬い。
中身が金属だと察して取り出すと、それは白銀の輪に輝く石のついた指輪だった。
きらきらとした石は、うずらの卵ほどの大きさがある。
「綺麗ね……価値のあるものだといいけれど」
装飾品なんて、まともに見たことはない。この石が価値のあるものか、例えばダイヤモンドか否かも分からない。
それでも、今日、学校で華子は小指の爪くらいの石の指輪をあれだけ自慢していた。
もしも、これが同じ石なら。これだけの大きさがあれば、かなりの金額になるのではないか。
これが大金に替わったら、そのお金で今の暮らしから抜け出して、全てが変わるのではないか。
「……なんてね。そんなに上手い話があるわけないけど」
きっとこれは価値の低い、硝子や水晶の屑石の指輪だろう。だが、どうせ、他に売れるものもないのだ。
これを売る。それで、今月分くらいは乗りきれるといい。
「どうか、なるべく高く売れますように」
もしも、できることなら、この指輪が運命を変えてくれますように、と分不相応に図々しい願いをかけた。
――そして、その願いはある意味では叶ってしまった。
「この指輪をどこで手に入れた!」
質素で不安定だがもう慣れてしまったいつもの暮らしを、突然の怒声にぶち壊されるという意味で。




