学校の話
赤茶色の正門を抜けて、煉瓦造りの校舎に入る。
『我が国に官立の女学校を』と意気込んで、明治の半ばに有名な建築家が建てたというそれは、この大正の世には少し古めかしく思われた。
まるで『ここに通う女学生は皆、国策に適う立派で進歩的な人間だ』とお墨付きを与えるような重厚感は、ふさわしい立派さを持たない者の居心地を悪くさせるもので。
どこか後ろめたい気持ちになって、肩を窄めて足を速めた聡子の背中に、少女らしい高い声がかけられた。
「聡子さん、ごきげんよう!」
ごく普通の挨拶だが、珍しいことだった。
二年前の事件があってからというもの、聡子に進んで声をかけるのは、ごく少数の友人だけだ。
他は、用のある教師が話しかけるか、悪意のある同級生がからかいの種にしようとして絡んでくるくらいで――後者の声かけであれば、『槙野聡子が挨拶を無視した。やはり親に似て素行が悪い』という話題を増やすのはよろしくない。
「……ごきげんよう、華子さん」
反射的に挨拶を返したけれど、その後に追撃の嫌みが降ってこないのも、随分と久しぶりだ。
怪訝に思った聡子は、声をかけてきた同級生をじっと見つめて、違和感に気づいた。
「華子さん……その、とても素敵な指輪ね?」
若い女子らしい緋の花柄の着物に、学校指定の紫色の行灯袴は、華やかな女学生らしいとも言えよう。
だが、彼女は、左手の薬指に、小指の爪ほどの大きさの石のついた指輪を嵌めていた。きらきらと光を放つ豪奢な指輪は、学舎に持ってくるには華美すぎる気がする。
袖口を引き下げて、指輪をこれ見よがしに示していた学友は、聡子の賛辞に気を良くしたようだった。
「あら! お気づきになりました? 実は、わたくしの許嫁からの贈り物なの!」
それだけ示されたら気づくに決まっている、とは思いつつ、どうやら彼女の用件は指輪のことだったらしい。
対応を間違わなくてよかったと、聡子は、安堵の息を吐いてあいまいな笑みを浮かべた。
「ご婚約おめでとう」
「ありがとう! 聡子さんにも良いご縁があるといいわね!」
「……ええ、そうね。お気遣いをどうもありがとう」
ひくりと、笑みが引き攣る。
それは良縁の伝手がない聡子への揶揄だろうかと一瞬疑って、今回ばかりは、幸せのあまり口から溢れた本心らしいと察した。
何にせよ、彼女が幸せでいてくれる分には、聡子に向く関心も減って、結構なことである。
聡子はそそくさとその場を後にした。
「朝からおつかれさま、聡子」
「志乃。あなたも華子さんに声をかけられたの?」
ようやく教室にたどり着くと、こちらの心情を察したような苦笑いの友人に迎えられた。
藤澤志乃は、聡子の数少ない友人で、あの事件の後も変わらない態度で接してくれる。
そのことからも分かるように、よく言えばさっぱりした気性で、悪く言えば遠慮のない変わり者な志乃は、華子のことも容赦なく切って捨てた。
「ええ。私が来た頃にはもう、昇降口のあそこで待ち構えていて、それからずっと、来る人みんなに自慢していたわよ」
「……よっぽど嬉しかったのでしょうね」
自慢。やっぱり、あれは自慢されていたのか。
親しくもない聡子にも自慢するくらいだから、さぞかし喜びでいっぱいなのだろう、と思っていたら、志乃の言葉はさらに辛辣だった。
「嬉しいというか、自慢したくなる相手を捕まえたぞ、って言いたくて仕方がないのよ。婚約者のことこそ、見栄えのするアクセサリーだと思っているんだわ」
「志乃、それは言い過ぎじゃ……」
「このご縁を逃してたまるかって、華子さんは、さっそく退学届を出しに行ったみたい」
「どうして……あ。結婚するから?」
「ええ。このまま学校に通っていたら、『卒業面』だと思われちゃう、って」
今の時代、女学校をきちんと卒業する者は多くない。
十七、八の結婚適齢期の女学生は、多くの場合、在学中に縁談がまとまって嫁入りし、退学するのが常だった。
結婚の時期や退学するか否かがその家の選択に任されているだけならいいが、翻って『女学校を卒業する女は、在学中に縁談も来ないほどの不細工だ』とまで言われるのは、何かが間違っている気がする。
その風評を気にして『必ず在学中に嫁入りしないと』という風潮が起きていることもまた、歪だ。
「学校をきちんと卒業することのどこが恥だって言うのよ。退学して嫁入りした方がいいって言う、親も許嫁もろくでもないわ」
「言い過ぎよ、志乃。華子さんにとっては、その方が幸せになれると思ったんでしょうから」
いくら納得できないものを感じたところで、今の世の中の大半がそれが正しいと考えているのなら、それこそが『普通』なのだろう。
そして、華子の親や周りの者が、華子に普通の幸せを選んでほしいと望むのも当然のことだ。誰が、大切な家族に険しい獣道を歩かせようと思うだろう。
堂々と怯まずに異議を唱える志乃の方がきっと、この世では異端なのだ。
「それに……正直、華子さんが羨ましいわ。私なんて、結婚を望んでも相手になってくれるような人はいないもの」
縁談の話がいくらでもある中で『私には結婚よりもやりたいことがある』と言うのなら。志乃のような美人が言うなら、説得力もあるだろうけれど。
結婚の道を選びようがない自分が言っても、ただの負け惜しみになってしまう気がして、聡子は自嘲の笑みを浮かべた。
「あら、聡子に言い寄る人はいそうだけれど。可愛いもの」
「買い被りすぎよ。事件以来、まともな話は全くないわ」
仮にも男爵位を持つ槙野家には、以前は縁談も持ち込まれていたが、聡子には家の不名誉をごまかせるほどの魅力はないのだ。
丸型の小さな顔に目尻の垂れた大きな目は、どうにも幼く見えてしまって、流行の庇髪や耳隠しの髪型は似合わない。
それでも以前なら、身支度に気を遣いもしたけれど、今は華やかなことをするのも気が引けて、簡単に半上げにするだけにしていた。
服装だって、地味な紺の矢絣柄の着物と袴だけ。校則に反しないぎりぎりを狙ってレースの半衿を入れるだとかの工夫もめっきりしなくなった。
「まあ、聡子は職業婦人を目指せばいいじゃない。師範学校に進学して、先生になるもよし」
「『華族令嬢が働くなんて恥でしかない』……というのが、うちの母の格言よ」
「恥、ね」
志乃は、聡子の発した一節を繰り返して、ふんと鼻を鳴らしていた。非難するというよりは、呆れているようだ。
「『武士は食わねど高楊枝』じゃないけど、それが華族のプライドだって? 馬鹿ねぇ、食べなければ死んじゃうじゃない」
――人は食わなければ生きられない。食べ物を買うためには金が必要だ。そして、金を稼ぐためには働かなくてはならない。
それは、志乃にとっては当たり前の常識なのだろう。
志乃の父は貧農から成り上がった実業家で、勲功を評価されて爵位まで賜った傑物だ。きっと、彼女の父は娘にもその教えを説いていて、娘は教えを素直に受け入れている。
祖父が明治維新の志士だった、という亡き人の功績だけで、かろうじて家禄を与えられている槙野家とは何もかもが違う。これまでに教わったことも、これから選べる道だって。
何も言えずに笑ってごまかす聡子にも、志乃は親身に勧めてくれた。
「そうね、私が始めようと思っている会社に勤めるのはどうかしら? 男でも女でも熱心に働く人しか要らない会社よ。その代わり、熱心に働くならお給料はうんと高くするわ」
「いいわね。こほんっ、えー、志乃社長! 女学校を卒業していると、有利に取り扱われるのでしょうか!」
「えっへん、当社では学ぶ姿勢を重視したいと思います!」
「ふふっ、目に浮かぶわ!」
きっと志乃は立派な女社長になって、彼女の父の下を離れても実業家としてひとかどの人物になるだろう。……何者にもなれない、どこにも行けない聡子とは違って。
そう思うと、心に隙間風が吹き込むような心地がした。
同時に、自分を励ましてくれた親友をも僻んでしまう、自分の心の醜さを恥じた。




