思い出の話
辰巳家の当主の間には、筆頭家老であろうとも出入りはそうそう許されない。
まして、主君に重用されて交流が頻繁にあったのは晴臣の祖父の代だ。若輩者と思われるのはやむを得ないにしても無礼のないようにと、晴臣は襟を正して、室内に座す辰巳兵衛公へと声をかけた。
「肇様の指輪を見つけました」
「ほう」
途端、老いてなお矍鑠とした辰巳公爵は、じろりと視線を向けてきた。目立つ鷲鼻も相まって、獲物を狙う猛禽のようだ。
公爵からすれば、長年探し続けてきた、最愛の息子の遺品だ。それだけ熱のこもった反応となるのは、もっともなことではあるけれど。
「どこにあった?」
「ご生前の肇様が親しくなさっていた女性に、亜米利加への渡航前に贈っていたそうです。その方の遺族から預かりました」
紘子や聡子の名前を出すのは避けた方がいい、と晴臣は思っていた。
今となって思えば、留学前の肇が『家のためを思えばままならない』とこぼしていたのは、紘子との関係のことだったのだと察しがつく。
立派な家柄の令嬢との縁談がいくつもあった彼が、没落した旧幕臣家出身の芸者と真剣に結婚を約束していたなんて、肇も親には言い出せなかったか、言ったうえで公爵夫妻に大反対されていたかだろう。
弁解できる息子が死んだ後になって、息子が芸者に指輪を贈ったと聞いても、公爵は『肇は芸者に誑かされていた』と受け取りかねないし、公爵が聡子の身内を悪く言うのも聞きたくはない。
しかし、公爵の反応は、晴臣の予想したものとはまるで違っていた。
「肇と親しくしていた女性……もしかして、肇より三つ年下の、紘子という名前の娘か?」
「っ、ご存知だったのですか」
既に名前まで知っているとは。それも、芸者として名の知れていた『千紘』の名前ではなく『紘子』という本名をあげるなんて。
調べていたのかと驚いた晴臣に、公爵はゆるく頭を振った。
「いや。あれに女がいることは知っていたが、その女が紘子だとは、知らなんだ。……紘子はな、何度かこの屋敷にも来たことがある」
「宴に呼ばれて?」
「違う。紘子の父に連れられてきて、肇と子ども同士、よく遊んでいた。儂にもにこにこと笑いかけてくる、可愛らしい子だった」
芸者の千紘として公爵とも顔見知りだったのかと思って聞けば、もっとずっと古い知り合いだと言われた。
肇と紘子は子どもの頃からの知り合いで、いわば幼なじみだったのだ、と。
「紘子の父とは、儂が二十年ほど、付き合いがあったのだ」
「は」
「あやつは、まだ江戸の頃に、幕府の命で欧州を見て回った経験があった。初めは異国の話を聞くために呼んで、馬が合ってな。だが、あれは、頑固だった。主家を滅ぼした仇だからと、辰巳家にも明治政府にも、仕えようとはしなかった……惜しい男を亡くしたものだ」
その忠義心をほんの少し曲げていれば、家族が生活に困ることもなかったのに、と公爵は悔やむように言った。
明治の二十年頃に、紘子の父はまだ幼い娘を残して亡くなり、彼が子どもの手習いの月謝や講師料として得たわずかな日銭で暮らしていた一家は離散した。
公爵が『惜しい』と評したのは、晴臣の『宴に呼んだのか』という言葉で紘子が芸者に身を落としていたことを知って、『もしも彼女の父が辰巳家に仕えていれば』と考えたからだろう。
主人の覚えめでたく、身分を超えた友人のようだった男の娘だ。もしかしたら、主家の嫡男との縁組を許されていたかもしれない、と――それらは全て、現実には果たされなかった『もしも』の話でしかないけれど。
「だが、そうか。指輪が見つかったか。紘子は死ぬまで、指輪を手放さなかったか。……見つからなくてよかったのに」
あれほど探していた指輪だというのに、公爵は相反することを言う。
だが、その気持ちは、晴臣にも分かるような気がした。
「これを路銀に換えて、二人で手に手を取り合って出奔でもすればよかったのだ。儂の目の届かない、遠い異国にでも逃げれば……」
海難事故で上手く自分の死を装ったとして。
親から反対された愛する人の手を取って、亜米利加に駆け落ちした息子――その姿を想像すれば、きっと二度と息子が親元に戻ってくることはないけれど、どこかで元気にやっていてくれれば悪くない、と思えたのに。
「肇は、本当に死んだのだな」
「はい」
晴臣は確信を持って頷いた。
もしも肇が生きていたなら、何年かけてでも愛する紘子のもとに戻ろうとしないはずがないし、その過程で娘が生まれていたことに気づき、聡子を槙野家から取り戻そうとするだろう。
それが起こらなかったということは、肇はとっくの昔に、紘子の死も聡子の誕生も知らないうちに、事故で死んだのだ。
「……紘子の遺族がいると言ったな」
「はい」
「その者は……いや、いい」
きっと『肇の子なのではないか』と聞こうとしたのだろう。公爵は、口にした言葉を途中で押しとどめた。
本当に肇の子だったなら、辰巳公爵が探していると知って『自分が公爵の孫だ』と名乗り出るのが普通だ。
名乗り出ないのは、孫ではないからか――辰巳公爵家の地位や金と天秤にかけてでも、孫とは名乗りたくないと思われているのだろう。
かつて名君と称えられた公爵は、聡明に事情を見てとって、追及しない道を選んだ。
「……遺族に、この金をやれ。指輪を今の相場で買い取れば、このくらいはするだろう。息子の遺品を届けてくれた礼だ」
それでも、金庫を指さすその仕草が、公爵の微かな可能性と繋がりを諦めきれない未練と、僅かに残った人間味を感じさせるように思えて、晴臣は破顔した。
「はい。必ず」
それは不器用な形ではあるけれど、彼女に向けられた愛情でもあると思ったから。




