その気持ちは愛に至る
鼻先をくすぐる冷気に、聡子は一つくしゃみをした。
もう冬の最中なのだから、襟巻をして出かければよかったと、小さな後悔が浮かぶ。
女学校を卒業してからずっと、顎下ほどの長さで切り揃えている短髪は、夏は風が入って快適だが、この寒さでは見た目も中身も寒々しかった。
外套は着ているとはいえ、洋服にストッキングだと、下から冷気が立ちのぼってくる気がする。
(まあ、もうすぐ家に着くもの、急ぎ足で帰りましょう)
数ヶ月前、昨年の九月にあった震災で、聡子が普段通勤に使っている市電も被害を受けた。
地震で歪んだ軌道の修理は早くに進んだが、火災で車両がたくさん焼けた影響は手痛く、今も運行本数を大幅に減らしている。
日比谷の勤め先からだと利用する客の数も多く、外の冷たい空気の中、長く並んで待たねば乗ることもできず、身体はとうに冷えきっていた。
自分も家族も命があって、無事に仕事も続けられているのだから、これが贅沢な悩みであることは分かっているが、少々辛いのは確かだ。
やっとのことで家に帰りつくと、ちょうど妹が家から出てくるところにかち合った。
「あら、姉様。おかえりなさい!」
「ただいま。爽ちゃん、どこかに遊びに行くの?」
「ええ! パーラーに!」
通う女学校の制服の、丈の短い海老茶袴に洋靴を合わせた爽子は、明るく答えた。
どうやら学校から荷物だけ置きに戻って、また遊びに出かけるところらしい。
「また行くの? お小遣いは足りている?」
「もちろん! ちょうど、原稿料が出たところなの!」
今から五年ほど前、槙野家が華族の位を返上してから、聡子は卒業まで間もないからと特例で華族女学校に通うことを許されたが、爽子の入学は入学資格がないからと許されなかった。
余裕のない暮らしに、あれほど『華族が働くなんて』と反対していた母も働かざるを得ず、聡子は志乃の立ち上げた会社で朝から晩まで働き、母は家の一画で礼儀作法の教室を開いて収入を得て、どうにか女三人で生活できている。
あれほど学校に通うことを楽しみにしていたのだからと、爽子のことは家の近くの別の女学校に通わせたけれど、元の進路を諦めさせたことが姉として不甲斐なくて――と思っていると、ある日、爽子は得意げに二本指を立ててきた。
『あたし、試験で一番だったの! そうしたら、この学校では、学校の授業料を払わなくていいんですって!』
あの人は鬼みたいに厳しかったけれど、勉強しておいてよかったぁ、と、このときばかり現金にもなむなむと拝むふりをする爽子に、聡子と母は顔を見合わせて、どっと笑ってしまった。
それからいつのまにか、雑誌の美人特集に写真を載せたり、それで縁ができた出版社の文芸誌に寄稿をしてみたりと、ちゃっかり自分の生活費分を稼いでいる、頼もしくしっかり者の妹である。
かよわく病弱だった妹の面影は年々薄まりつつも、相変わらず可愛い妹に、聡子は「ほどほどにね」と目を細めた。
「ええ! あっ、そういえば。お客様が来ていたから、姉様はしばらく客間に近づかない方がいいわ!」
「そうなの?」
「うん! ……まあ、どうしてもって言うなら、会ってもいいけれど!」
爽子は真剣な顔で言った。
聡子とて子どもでもあるまいし、母を訪ねてきた客とばったり顔を合わせたところで、そつのない世間話程度はできるだろうが、あえて会う必要もないか。
「教えてくれてありがとう、爽ちゃん。お友達を待たせているんでしょう? いってらっしゃい」
「はあい。お夕飯までには帰ります! いってきます!」
駆け出していく妹の背中が眩しく見えて、つい見えなくなるまでその場で見送ってしまった。
「……さてと。せっかく爽ちゃんが言ってくれたことだし、顔を合わせないうちに部屋に行ってしまいましょうか」
勤め先では通訳の仕事をしているが、今日は商談が早くまとまってお開きになったおかげで、早く帰ってこられたのだ。
自室でしばらく寛いでから、いい頃合いで夕飯の支度をしよう。
ただ、もしも客人が長く居座るようなら、その人の分の夕飯も用意した方がいいだろうか。それは少し面倒だ――と思ったところで、廊下の先から話し声がした。
ちょうど、母と客との話が終わって、そろそろ帰ってくれるところらしい。
「あら。それは寂しくなりますね」
母と談笑しているらしい相手の声は、ここまでは聞こえない。
会釈をして通り過ぎようかと思った聡子は、そちらに顔を向けて――固まった。
「……っ」
見覚えのある顔に、見覚えのある長身だ。
あの頃に見慣れていた制服姿ではなく、落ち着いた色の背広姿だが、間違えるはずもない。
「晴臣さん……っ」
思わず声を漏らすと、それに気づかれたのか、彼の視線も聡子を向いた。
二人の視線がかち合って、お互い何も言えずにいる間に、心なしか上機嫌そうな母の声が割って入る。
「あら、聡子さん、おかえりなさい。今日は早かったのね、ちょうどよかった!」
「あ。ただいま帰りました。お母様」
「なんと、晴臣さんがいらっしゃったのよ。お仕事で亜米利加に行かれるそうで、そのご挨拶に」
「それは……長旅になるでしょう。大変ですね」
晴臣と会うのは、五年前、辰巳公爵に指輪を売った代金だと、まとまった金を渡されて以来だ。
あの金のおかげで、聡子たちは溜まっていたツケを片付けて、新しい生活に舵を切ることができたのだから、彼には本当に頭が上がらない。
けれど、それは、全てをあのときに清算したということでもあって。
晴臣とはとうに縁が切れているのに、わざわざ挨拶に来るなんて。偶然近くを通りかかって思い出しでもしたのだろうか。
確かに、年々事故は減っているとはいえ、航海は危険を伴う。亜米利加航路といえば、聡子の実父もそれで亡くなったそうだから、何かあったときのために、ちょっとした知り合いにも知らせておく、という趣旨だろうか。
心当たりに思い至らず、首を捻る聡子に、彼は淡々と告げてきた。
「お気遣いありがとうございます。実は出張ではなくて、数年間は駐在することになりまして」
「まあ……」
それでは長旅だけでなくて渡米後の生活も大変だろう。
同情の視線を向ける聡子に、彼は居心地悪そうに切り出した。
「それで……一人、ついてきていただきたい方がいるのです」
「料理人を連れて行くとか?」
海外暮らしの日本人の中には、日本食が恋しくなって料理人を呼び寄せる者もいるらしい。志乃の会社で外国の貿易商と話すうちに、そんな話もちらほら聞いていた。
ところが、それも違うらしい。
「いえ。料理はどちらかといえば不得手な方だと、ご母堂から聞きました」
「お母様?」
どうして料理人の腕前を母に聞くのか。母の知り合いを紹介してもらうつもりだったのか?
首を傾げ続ける聡子に向かって、晴臣は緊張した面持ちで、一枚の紙を差し出した。
「聡子さん。これはまだ、有効でしょうか」
これまた、見覚えのある紙だ。この片割れは、聡子自身が粉々にちぎり捨ててしまったけれど。
穂村晴臣と槙野聡子の結婚を約束する紙。あのとき、約束は反故にしたはずの紙だ。
「どうして、これを……?」
「この契約を今こそ履行したい」
「契約の、履行?」
「つまり、妻になってほしいということです」
困惑した様子の聡子に、真意が伝わっていないと思ったのか、晴臣はぐっと口元を引き結んで開き、直球に言い換えた。
「俺と結婚してください」
結婚。どうして。
彼との関係は、五年前に終わったはずだ。そのときは、彼も納得していたはずなのに。
聡子が助けを求めて傍らの母を見ると、母は肩をすくめて見せた。
あの頃の母なら、良縁だと飛びついて、聡子の気持ちには構わず話を進めてしまっていただろうけれど。
「この子ったら、わたくしの言うことを聞くたちじゃありませんもの。わたくしに頼まれても仲立ちはできませんわ。そもそも、あなた方はわたくしに結婚を決められるのを嫌がっていたじゃありませんか、ご自分のご結婚くらい、ご自分でお決めになれば? ……と言ったのよ。それでお引き取りを願っていたところ」
「お母様!」
やはり、持つべきものは頼れる母である。
『結婚に反対はしないが、何の手助けもしないから自分で動け』と言われたも同然の晴臣は、母の援護も得て聡子を頷かせようとしていたことを暴露され、渋い顔をした。
どうやらこの話は、二人の間で決着をつけねばならないらしい。
相手が自分の答えを待つ気まずい沈黙の中で、聡子はおずおずと口にした。
「……『婚約は必ず解消する』と仰ったのに?」
「すまない。撤回させてほしい」
すぐさま歯切れよく『あの約束は反故にする』と返ってきた。
以前の彼だったら、ここで食い下がらずに物分かり良く、聡子の希望を受け入れてくれたようにも思うけれど。
きっと、彼にも心境の変化があったのだろう。昨今の時勢は、一個人の心境を変化させるには十分すぎた。
「情けない話だが、この頃、自分が死んだときのことを想像した。俺は、悔いの残ることをしたくないと思った。あなたを逃せば、絶対に後悔する。その前では、約束を違える不名誉など、知ったことか。……それに、その指輪」
晴臣は聡子の左の薬指をじっと見据えた。
この五年、彼から贈られたダイヤモンドの指輪が嵌ったままの指を。
値打ちものだから取っておいた、とか。職場での男避けだ、とか。聡子の言い訳のしようはいくらもあったけれど――。
「少しくらいは、脈が残っているのだとうぬぼれたい」
――そんなに堂々と、勝算があるなら勝負を挑みたいだなんて言わなくても。
「……ふふっ」
今の彼は勝手で、情けなくて、男らしくない。
でも、それくらい必死に聡子を求めてくれているのだと思えば、悪い気はしない。
噴き出した聡子は、笑った拍子に滲んだ涙を、ハンカチで拭きとった。
「嘘よ。意地悪言ってごめんなさい、晴臣さん。あなたと一緒ならどこへでも」
彼と一緒なら、まだ見ぬ地に行くことも、まだ見ぬ人に会うことも、きっと悪くないと思った。
完




