別れの話
母を宥めて部屋へと送って休ませて、一息ついた聡子は、母の文机を探った。
目当てのものを見つけて取り出したとき、折よく晴臣が廊下を通りかかった。
「晴臣さん」
少し話しませんか。ここでは母の耳に入るかもしれないから、と庭に誘い出すと、彼は黙って頷いてついてきた。
「母と初めて、親子喧嘩をできた気がします」
聡子を送ってきただけの彼に、とんだ愁嘆場を見せてしまった。
詫びもしたいが、礼も言いたい。彼のおかげで母と腹を割って話すことができた、と。
「……それは、よかった」
「ええ。これで、これからも、母と親子をやっていく不安が無くなりました」
――だから、血の繋がった両親の思い出は、私には必要ない。両親の指輪はお返しします。
聡子の言うことを半ば予想していたのだろう、晴臣に驚いた様子はなく、ただ、聡子が差し出した肇の指輪を受け取ることもせずに、静かに聡子を見返してきた。
「辰巳公爵に孫娘がいると知らせたら、大喜びで家に迎えようとするだろう。君は何も不自由ない生活ができる」
「そうでしょうか? 辰巳公爵閣下も、いきなり降って湧いた孫娘なんて疑わしいものを、受け入れないと思いますよ。受け入れるとしたら、何か打算があったときくらいで、私はその打算に振り回されたくもありません」
おそらく、晴臣の言うことも嘘ではないだろう。
辰巳公爵夫妻は溺愛していた息子の遺した子なら迎えたいと思っているかもしれない。だが、その子の母親が芸者だと知れば、諸手を挙げて賛成とはいかない、本当に孫なのかと疑うところから始まるだろう。
それでも歓迎するとしたら、辰巳家を直系の子孫に継がせたいのに候補者が他にいないだとか、他の思惑があってのことになるはずだ。
聡子はそのどろどろした思惑に巻き取られて、今ある幸せを失いたくなかった。
それよりも、幸せな今のまま、本来なら憎んでもおかしくない立場の聡子を愛してくれた母と妹の傍にいたい。
「私の家族は、母と妹。あの人たちです」
血は繋がっていなくとも、二人が家族だ。
そして、血は繋がっていようとも、これまでに何の関わりもなかった辰巳公爵夫妻のことは家族とは思えなかった。
「……そうか」
聡子の出した結論に、晴臣は翻意させようと食ってかかることはなかった。
この選択を尊重して受け入れてくれるなら嬉しいと微笑んで、聡子は袂から一枚の紙を取り出した。
「それから、この契約も、もうおしまいにしましょう?」
「それは……っ」
晴臣が目を瞠ってそれを見る。
先ほど母の文机から取り出した紙。彼と出会った日に二枚取り交わしたうちの、槙野家で保管していた分の、結婚の約束の紙だ。
「だって、あなたも仰ったでしょう? 『この婚約は必ず解消する』って。まさか……あの約束が嘘だった、なんて言いませんよね?」
彼に不満があるわけではない。それどころか、彼と一緒になれたら幸せだろうとも思った。
けれど、当主が捕まり、これから華族の地位も返上するだろう槙野家と、輝かしい未来が待っている彼とでは、あまりに不相応すぎる。
彼のために身を引いた――と言えば聞こえはいいけれど、結局のところ、聡子は彼を選んで自分だけが幸せになるよりも、槙野家に残って家族と苦労を共にする方がいいと思った。
聡子の希望で彼よりも家族を選んだ、ということでしかない。
「こんな身勝手な女のことは、忘れてください」
紙を半分にちぎって、重ねてちぎって、を繰り返して、書類はすっかり紙片の形になった。
元の形に戻すことはできない。これでもう読むことはできないだろう。
後で捨ててしまおうと思っていた紙片は、突風に攫われて巻き上がり、季節外れの桜の花びらのように舞い散った。
ひらひらと、地面にたどり着くまでに長い時間をかけながら。
「さようなら、お元気で」
最後の一片が土に触れるまで、その時間を惜しむように、聡子は彼と一緒にいた。




