真実の話
紘子を妾にした槙野男爵のことも、紘子を妊娠させておきながら傍を離れた肇のことも、冷ややかに評していた乳母は、朝子のことは懐かしげに口にした。
「わたくしが聡子お嬢様のお傍を下がったのは、朝子奥様が御子を授かった頃のことです。わたくしから言う立場ではありませんが、ずっと男児を産むように求められていた朝子奥様のことは、お気の毒に思っていました」
乳母にとっては、紘子は大事な主家のお嬢様ではあるけれど、客観的に見れば、槙野男爵の妾で、男爵夫人から夫を奪った盗人だ。
結婚して早々に夫が妾を迎え、壊滅的に不仲になった夫婦なのに、周囲からは「寝所をともにして早く男児を儲けろ」と騒がれていたなら、あまりに朝子が気の毒すぎる。
まして、なまじ表向きには朝子が聡子を産んだことになっていたから、「今度は男児を」「産めるのに長女を産んでから五年も開けているのは、夫人にやる気がないからだ」という、ひどい中傷に晒されていたらしい。
「そんな中、ようやく御子を授かったと聞いて……継子いじめはよく聞く話でしょう? わたくしは、朝子奥様が、聡子お嬢様を邪険にするのではないかと疑ったのです」
自分の子ができたことをきっかけに、妾の子である聡子をいたぶりやしないかと、乳母は心配したのだという。
生まれる子が男児なら跡継ぎはその子だ、聡子をひどく虐めないにしても蔑ろにはするだろう。
生まれる子が女児ならその子に婿を取らせて家を継がせればいい。聡子はもう必要ない。
そのように見立てたのは乳母だけではなく、家中が不穏な雰囲気で満ちていた、と。
「聡子お嬢様も不安で寂しかったのでしょうね、普段よりも甘えて泣き喚いて、朝子奥様にずっとついて回っていました。つわりで体調がお悪い中で、あれだけちょっかいをかけられるのは大変だなと思って、わたくしも何度か引き離しましたが。でも、朝子奥様は仰いました――」
ぐずる聡子を叱るでもなく、抱きしめて落ち着かせると、朝子はこんこんと言い聞かせた。
そのときの若かりし母の声なら、思い出した。
「――『お母様はね、聡ちゃんが一番大事なのよ。それは、この子が生まれてからも変わらない。この子よりも、聡ちゃんが大事。だから、聡ちゃんはその分まで、この子を可愛がってあげて』って」
ああ、覚えている。
母が嘘のない目でそう言ってくれたから、聡子は「自分は母に愛されている」と信じることができたのだ。
生まれてきた妹に「かわいい」と声をかけて、妹が大声で泣いているところだって、いつまででも笑顔で眺めていられた。
だって、母は聡子にそうしてくれたから。可愛い妹には同じことをしてやりたいと思ったから。
「それを聞いてわたくしは、朝子奥様に聡子お嬢様をお任せできる、お任せした方がいいと思ったのです。聡子お嬢様は朝子奥様の子です。戸籍の上でもそうなっているのですから、わたくしが近くにいて妙な疑いをさし挟む隙を作るより、その方がいい、と」
そう思っていたけれど、わたくしの見立ては間違っていたのでしょうか。
不思議そうに首を傾げる乳母に、聡子は何も言えなかった。
☆
その次の休日に、晴臣に連れられて槙野家に帰ると、聡子の姿を見るや否や、母は悲鳴のような金切り声を上げて掴みかかってきた。
「……お母様」
「聡子さんっ! あなた、今まで家に連絡も寄越さずにっ! 許しませんよ、婚前の外泊だなんて……!」
晴臣の部下から、聡子が晴臣と一緒にいることは伝えてもらっていたけれど、それは母にとっては『連絡』のうちに入らないらしい。
凄まじい怒気で怒られた後、母の矛先は晴臣にも向いた。
「晴臣さんも晴臣さんです! うちが没落した家だから、目下の家だからって、どう扱っても構わないと軽んじていらっしゃるのか! そのように侮られるいわれは、娘には何一つないっ!」
うちの娘は、手軽に呼びつけて良いように扱っていい遊び女ではない!
威嚇する気の立った猫のような母を見て、聡子は頭を下げた。
「ごめんなさい。……お母様、一つだけ、聞いてもいい?」
母なりに聡子を心配していたということは――それだけ愛されているのだとは、分かった。
だが、それならどうして、これまでの母は、聡子に辛く当たっていたのだろう。
「どうして、私を早くに嫁に出そうとしたの?」
あれが厄介払いでないなら何なのかと、わだかまる疑問を口に出せば、母は鋭い目を向けてきた。
「聡子さん。考える女は嫌われるのよ」
それは聡子にとって受け入れがたい考えだったけれど、重々しい口調から、少なくとも母は本気でそう思っているということは伝わってきて。
「持て余されて、余って、最後にはろくでもない男と結婚するように強いられるの。そうなる前に、良い相手を見つけられるうちに、嫁いだ方がいいでしょう? そうすれば、あなたは幸せになれる」
――あなただけは。
繰り返して言う母は、幸せになれなかった母自身の姿を見ていたのかもしれないと思った。
「後からなら何とでも言えるけれど、あのとき、あなたを嫁がせておけば、あなたは婚家の人間だから槙野男爵の事件にも関係ない、って言えたかもしれない。逃れられたかもしれない。あなたは槙野男爵の子じゃないから……っ」
「っ、お母様、気づいていたの!?」
秘すべき真実をさらりと認めた後で、母は悔しげに顔を歪めて、目尻に涙を滲ませていた。
「あなたは関係ないのに、関係ない子を、この家の事情に巻き込んじゃいけない……それなのにっ! わたくしは間違えた……っ、あなたまで、不幸にしてしまった!」
ごめんなさい、申し訳ない、と。
その場にうずくまって悔いて詫びる母に、それ以上何が言えただろう。
辺りには母の嗚咽だけが残った。
「お母様」
聡子は跪いて、母の背中を撫でる。
思ったよりも小さな背中だ。母は小柄な人だったのだと、ようやく認識した。
若い頃も背丈は今と変わらなかっただろう、母はこの小さく細い身体で数々の苦労を耐えてきたのだ。
「お母様の思う幸せと、私の幸せとは違うの。お母様の言うとおりにしても、私はきっと幸せだと感じられない。幸せには、なれない」
母の持ってきた縁談が、聡子を槙野家から切り離して、聡子だけは幸せになれるものだったとしても、残されて困窮する家族を思えば、その幸せを受け取ることはできない。
それで「自分だけは幸せになってよかった」と思えるような性分ではない。
「……でもね。誰かに幸せを願われるって、こんなに嬉しいのね」
ありがとう。私は幸せよ。
それだけ、何としてでも聡子を幸せにしようとする母を持てたことが幸せだ。だからこそ、彼女の傍にいて、力になりたいと思うのだ。
涙が止まらず身体を震わせる母を、聡子はそっと抱きしめた。




