答えの話
ええ、ええ。わたくしが聡子お嬢様の乳母でございます。――その女性はそう名乗った。
晴臣が過去に槙野家を出入りした者を調べ――特に、蔵にあの机が移されたのは聡子がまだ幼い頃のことだったから、それより前に出入りした者を重点的に探して――ようやく辿り着いたときには一週間は経っていた。
聡子が槙野家に迎えられたのは乳児の頃だ。生母の紘子は鬼籍に入り、戸籍上の母である朝子には子がなく乳も出ない。誰か、他に乳をやる人間が出入りしていたはず――突き止められた乳母は、あっさりと「わたくしです」と認めた。
「お久しゅうございます。聡子お嬢様」
乳母だという中年の女性は、聡子を見るなり目尻を下げて、親しげに声をかけてきた。
名乗る前から聡子と分かったということは、彼女は本当に幼い聡子と面識があったのだろうが、一方的に知られているのは居心地が悪い。
聡子が気まずく身じろいで、覚えていないことを詫びると、乳母は何度も大きく頷いていた。
「無理もございませんよ。わたくしがお傍を下がった時、聡子お嬢様はまだお小さかったから」
「そうだったんですか? ……失礼なことを言ってごめんなさい、そんなに昔に乳をやっただけの子のことが、よくお分かりになりましたね」
「それはもう! わたくしは、聡子お嬢様がお生まれになる前からご縁がございましたもの!」
「生まれる前からの縁……?」
ますます訝しむ聡子に、乳母は「自分は元々、紘子の乳姉妹だったのだ」と告げてきた。
「紘子……さんは、乳母がつくようなお家のご出身だったのですか?」
「もちろん! 由緒正しい旧幕臣のお家のご出身です! 維新よりこちら、生活が苦しく、わたくしども元家臣の家の者はお暇をいただき、紘子様も遠縁に養女に出され、あのようなことに……わたくしどもにもっと力があればと悔やまれてなりません」
紘子が養女になった先から売られて芸者になってからも、乳母たち一家は自身の生活も苦しいながら、連絡は取り続けていたのだという。
「ある時、紘子様から御子を授かったと知らされまして。その頃ちょうど、わたくしめも子が生まれた頃で、何かご出産のお手伝いができればと参ったのでございます」
紘子が「お腹の子は相思相愛だった人との子だ」と言ったから。
彼はとても立派な人で、店に通わなくなって捨てられたことはちっとも恨んでいない。ただ、どうしても彼からもらった指輪を手放すことができない、と紘子が泣き笑ったから。
「わたくしに言わせれば、槙野男爵も、その男も似たような屑だと思いましたけれど、紘子様が御子を愛していらっしゃるから、わたくしもその子を愛そうと思いました。……紘子様がお亡くなりになった後は、紘子様の分まで、と」
出産に立ち会っていた乳母に、死の迫った紘子は苦しい息の下で指輪を握らせたのだという。
これまで世話になった御礼として受け取って、と頼む彼女に乳母は初めて逆らった。
「受け取れるはずがありません。わたくしは、金など要りませんでした。紘子様が孤独にお亡くなりになったことも知らずに逃げた男にいつか思い知らせてやろうと思って、紘子様の御子のお嬢様のために使おうと思って、指輪を残しました」
そして、乳母は紘子の死後も、聡子の乳母として聡子とともに槙野家に移り、数年間居座った。
聡子の父親の手がかりがないか、聡子が槙野家できちんと育てられるかを見張るために。
乳母がどこか誇らしげに語る話を聞き終えて、聡子はぽつりと呟いた。
「……それほど、想ってくれていたというなら、どうして」
善意で尽くしてくれた人に文句を言う筋合いがないのは分かっているけれど――どこか、心中にもやりとわだかまるものがあった。
乳母は幼い聡子のために、いろいろと心を砕いてくれたという。それは事実なのだろうけれど、それならどうして、朝子が聡子に辛く当たるのを止めてくれなかったのだろう。
確かに、乳母がいたという頃、聡子が幼かった頃は、朝子も優しかったような記憶があるけれど――思い出を振り返った途端に、頭の中でちりりと火花が飛ぶような感触がした。
(何、今の? 私は、何かを忘れている……?)
思い出せないもどかしさに顔を顰めた聡子を見て、乳母は「聡子が乳母の不義理を責めている」と誤解したのだろう。
申し訳なさげな顔をしながらも、どこか鷹揚にけろりと言い放った。
「わたくしが槙野家を辞すとき、聡子お嬢様を連れ出すことも考えました。女中として槙野家で働き続けることも。ですが――朝子奥様が、あんまり聡子お嬢様を可愛がっていらっしゃったから」
「……え?」
「聡子お嬢様も朝子奥様にべったりで、お二人を引き離すことはとてもできない、聡子お嬢様をかえって不幸にすると思ったのですわ」
覚えていらっしゃいませんか、と乳母に問いかけられて、聡子は言葉に詰まった。
そんなはずはない。
朝子に――母にとって、妾の子である自分は疎ましいだけの存在で、可愛がる理由がない。
現に、近年の母は聡子を厄介払いしようとして、早すぎる縁談や年の離れた成金との縁談を設定しようとしていたのだ。
母が聡子を愛しているはずがない!
乳母は間違っている、朝子が体裁を気にして母らしく演じていた姿にまんまと騙されただけだ!――そのはずなのに。
『お母様はね、聡ちゃんが一番大事なのよ』
蘇った、耳奥に残るこの記憶は何だろう。




