傷の話
気の昂りのままに喚き立てたせいか、吐き出してみると、ふっと頭が冷えた。
「お気遣いいただいて、ありがとうございました。もう大丈夫です、全部分かりましたから」
晴臣に向かって不満をぶつけても、八つ当たりでしかない。晴臣はせっかく、聡子が尋ねたことを包み隠さず教えてくれたのに。
それなのに、彼に感謝するどころか八つ当たりをして、これからも世話になって、迷惑をかけ続けるばかりなのも心苦しい。
聡子は立ち上がって、袴の乱れを整えた。
「そろそろお暇します」
「どこに行く気だ」
「それは……」
どこに行こう。
槙野家には戻れない。聡子は元からあの家にいるべき人間ではなかったと分かった。嫌っている聡子の姿を見せて、母の心を乱したくもない。
だが、身寄りもなく一人で生きていくとして、何をどうすればいいのか、見当もつかない。
何の仕事でもいいから、志乃に働き口を紹介してもらうことはできないだろうか。
藤澤家の豪邸は深川にある。ここから一時間ほど歩けば着く距離だが……約束もなく訪ねても、門を通してはもらえないだろう。
どこぞで夜を明かすとして、宿代の足しにするために、聡子が差し出せるものは――行きついた考えを隠して、微笑みを浮かべてみせた。
「穂村様のご迷惑になるようなことは、けっしてしないとお約束します。大丈夫です」
「聡子、」
「ああ、そうだ、婚約も今のうちに解消しましょう! 槙野男爵が捕まって、これから裁かれることになるでしょうし、犯罪者と縁があるとなったら、穂村様にもご迷惑ですよね。私ったら気づかなくて、ごめんなさい! さぁ、早く――」
「……嫌だ」
「え?」
彼が何かを呟いた口の動きが見えて、聞き返した途端、聡子の身体は大きなものに包まれた。大きくて、温かいものに。
シャツのポケットの布地が頰に触れて擦れ、晴臣に抱きしめられていることに遅れて気づく。
「嫌だ。どこにも行かせない。今の君を放っておけない」
「っ、ご心配いただかなくても、私は大丈夫――」
「大丈夫なわけがあるかっ!」
耳の近くで大声で叱られて、思わず身体がびくついた。
聡子の怯えに気づいたらしく、「すまない」と詫びて身体を離した彼は、それでもまだ、聡子の両肩を掴んで視線を合わせてきた。
「自分の居場所だと信じていた家も、家族も、失って? それで傷つかない人間なんていない」
「……っ」
「どうして『大丈夫』と嘘をつく?」
「嘘、なんて……っ」
嘘だ。確かに、聡子は傷ついている。
でもそれは、晴臣には関係のないことで。このことで晴臣に「あなたがどうにかしてくれ」と縋るのはお門違いで、彼にとっても迷惑で――彼にまで、疎まれたくないと思うから。
だから、聡子が晴臣に助けを求めることはない。それでも彼に言われると、決めたはずの心がぐらついてしまう。
瞳を揺らす聡子に、彼はこんこんと言い聞かせるように言った。
「俺たちは婚約者だろう、何でも言ってくれ」
「ですからっ、婚約はもう、解消すると、申しました……っ」
「駄目だ。許さない」
「どうしてっ!?」
もう、辰巳肇の指輪の謎は解けた。槙野男爵も捕まった。彼が聡子を見張る理由はなくなった。
それなら、彼が聡子を必要とすることはない。
今の聡子は、彼に何も与えてやれない。彼から受けた恩に、返せるものがない。
「わっ、私は、何も知りません。知っていることは全部、もうお話しました。穂村様のお役に立てることは、ないと思います」
「そうだな。……俺も以前は、君から欲しいものがあった」
事件の手がかりのことだろう――と思っていたら、違うらしい。
彼は熱のこもった目で聡子を見据えた。
「君が君の家族に向ける思いやりが、君が屈託なく笑う顔が欲しかった。俺にも心を許して、俺のこともその目で見てくれたら、昔の俺が救われるような気持ちがする、と。でも、今は違う」
「今は」
「君は、君のために泣くべきだ。俺は、その泣き顔が見たい。それから君を慰めたい。……君の心に近づきたいと思った」
――今欲しいものは、君の心に近づく許しだ。
そう言って、再び彼に抱きしめられた。
シャツ越しにも厚みの伝わる胸板は頼もしくて、その温かさにほっと涙腺が緩みそうになる。
「ぅ……っ」
「君はいい子じゃなくていい。自分の心をごまかして我慢しないでくれ」
「ううっ……うわぁぁんっ!」
涙が一粒、彼のシャツにじわりと染みて。
一度涙の堰が決壊してしまうと、自分の力では引き締めることもできなくて、聡子はそのまま彼を手巾代わりにして、子どものように泣きじゃくった。
幼い頃はまだ、朝子も聡子に幼子としての可愛げを感じていたのか、泣けば慰めてくれたな、なんていう思い出が頭をよぎる。
もう取り戻せない幸せな幻想だ。朝子の懸命な我慢によって、かろうじて家族の体を成していた頃の。
「……晴臣さん」
しばらく泣き続けて、彼のシャツが絞れそうなほどになった頃、聡子はぽつりと切り出した。
「どうした?」
「私、心がもやもやでいっぱいになって、苦しいの。今は何も考えたくない。全部、忘れさせてほしいの」
――あなたでいっぱいにして、忘れさせてほしい。
呟くと同時に、強く抱きしめられた。
痛いくらいのその感触に棒立ちになっていると、顎を指先で捉えられ、唇を塞がれる。これが『キス』というのだと、初めて知った。
聡子があまりに惨めに見えたからだろう、彼は優しく慈しむように、聡子を愛してくれた。
純粋な慰めの言葉でしかないと分かっていても「綺麗だ」だの「好きだ」だの「愛している」だのと繰り返し言われれば、つい勘違いしてしまいそうになる。……彼だから、勘違いしたいのだ。
「君を愛している」
敷かれた布団で言われたとき、それが嘘と分かっていても嬉しくて、涙をこぼす聡子のまなじりに、彼は何度も口づけた。
まるで、聡子の涙を全て無くしてしまおうとするみたいに。
夜通し愛を囁かれて、聡子はいつのまにか意識を失い、気づいたときには明け方だった。
胸元に冷気を感じて見下ろせば、寝乱れて着物もはだけた胸に、彼から贈られた指輪がぶらりと揺れている。
慌てて着物をかき寄せて、帯を探していると、背後から二本の腕がにゅっと突き出され、聡子の腹の前で手を組むように回された。
「聡子」
「っ、起きてたんですか」
「ああ。君が逃げないように見張るために」
少し前に、肇の指輪を見ていた聡子にかけられたのと似た言葉だ。
けれど、それは、あのときよりもずっと温かい響きをして聞こえた。
彼の腕に引き寄せられるままに、彼の吐息を感じる距離に近づいて。
「責任は取るからな」
「っ!?」
耳元に落とされた告白に、驚いた聡子が身体をこわばらせていると、彼は続けた。
「君には俺がいる。家族なら俺と作ればいい」
だから離れようとするなと、乞うような、懇願するような言葉だった。




