母の話
晴臣の姿を見て、最初に『どうして彼がここにいるのだろう』と思った。
今日は外せない仕事があると言っていた。忙しいだろうに、また、手間をかけさせてしまった。
脅威が去った安堵に身体の力が抜けて、へなへなと地面にへたり込んだところを覗き込まれ、いっそう申し訳なさが募る。
「聡子さん。大丈夫か?」
「……ごめんなさい。私、言いつけを破って、寄り道をしてしまって」
「そんなことはいい。潜伏先の摘発に勘づかれて取り逃した俺たちの落ち度で怖い目に遭わせた。怪我はないか?」
怪我を負ったせいで立てない可能性を心配したのか、彼は鋭い視線を聡子の身体に走らせた。
何事もないから心配いらない、と頷いて返す。
「良かった。爽子嬢はどうだ?」
彼が聡子の後ろに声をかけると、小さな影が彼に駆け寄って、ぶつかるように抱きついていた。
「へいき」と口では言っているけれど、明らかに涙まじりのくぐもった声だ。
恐怖で泣いている妹を慰めてやりたいのに、今の聡子の混乱した頭では、とても言葉が出てこなかった。
「よしよし、怖かっただろう。もう大丈夫だ。爽子嬢は俺の部下……『部下』は分かるか? 仕事の仲間に、家まで送ってもらう。そして――悪いが、聡子さんには話しておかねばならないことがある」
別々にして申し訳ない、と詫びられつつ、晴臣の部下によって、地面で呻いている槙野男爵は手際よく連れて行かれ、爽子は別の部下に付き添われる形で家に帰ることになったようだ。爽子についた者は、事態が終結するまでの護衛も兼ねているらしい。
「聡子さん」
「ごめんなさい、足が」
その場に残された聡子の足が立たないのを見てとると、晴臣は聡子の背中と膝裏に手を回した。
病人の救護のように身体を持ち上げられて、そのまま彼の車の後部座席に乗せられる。
車内では言葉を交わすこともなく、車はすぐに古めかしい屋敷へと辿り着いた。
「ここは?」
「穂村家の、俺が祖父から継いだ家だ。仕事を片付けたら戻るから、それまではここで気楽に過ごしてくれ」
そう言われても、初めて来る屋敷、それもこんなにも立派な屋敷で寛げるわけもない。
母屋にある大きな和室に通されて、晴臣から言い含められているらしい使用人から、茶と茶菓子だの、夕飯だの、入浴と着替えだのを勧められたけれど、どれもする気にはなれず、聡子はぼうっと庭を眺めて過ごした。
日はとっくに落ちて、室内の灯りだけではろくに見えないくらいに辺りが暗くなった頃、晴臣はようやく帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
「すまない、待たせたな。……庭にそんなに面白いものがあるのか?」
「いえ。お仕事が大変だったのでしょう?」
気持ちは急いていたけれど、彼には他にもたくさんやることがあるのは分かっている。
急かすつもりはない、と緩慢に頭を振ると、晴臣は物言いたげに、聡子の隣に腰を下ろした。
「槙野男爵を警察に引き渡して、負わせた傷の治療を手配して、『切りつけるのはやりすぎだ』と始末書を書かされたり……いろいろとあった」
「お疲れさまでした」
「……君の言いたいことは、それではないだろう?」
――当たり障りなく仕事を労う言葉をかけるために待っていたのではないだろう?
説明はするつもりだから、と促されて、聡子は唇を湿らせた。
聡子が知らないこと、知りたいことはたくさんあるけれど、ありすぎて何を聞けばいいかが分からない。
それでも、一番に気になるのは――。
「父は……槙野男爵は、何者だったのですか。私にとって」
まずは、ここから話そうか。
聡子が生まれてこのかたずっと『父』と呼んできた人が、娘を『自分の子ではない』と言った理由について。
「今から二十年ほど前、若かりし頃の槙野男爵が、のぼせ上がっていた柳橋の芸者がいた」
「それが、千紘さん?」
「ああ。千紘は人気芸者で、宴席に呼びつけるだとか、まして深い仲になろうとするには、大金を積まないといけなかった。……特に、当時、彼女のために大金を出せる客が、他にいたから」
先日、銀座ですれ違った新橋芸者から話を聞き取ったのだ、と晴臣は言った。
千紘は教養深く溌剌とした美しい女性で、熱心に贔屓にしていた客がいた、と。
「だが、ある日を境に、もう一人の客はぱたりと店を訪れなくなって、大口のパトロンを失った千紘も弱気になったのか、そのときにもまだ熱烈に言い寄っていた槙野男爵の誘いを受けた。身請けされて、彼の妾になることも了承した」
「……そのとき、お母様は……槙野男爵の妻は、どうしていたの? 夫が芸者を身請けしようとしていると、知っていた?」
聡子にとってみれば、面識もない千紘の境遇や気持ちなんかよりも、当時の母のことの方が気にかかった。
夫が別の女に入れあげて、大金を出して身請けまでしようとして。妻である自分を蔑ろにされた怒りや悲しみか、夫への愛情ゆえかは人によって違うだろうが、その事実を知って傷つかない女はいないだろう。
「当時は、男爵が夫人と結婚したばかりの頃か。そのとき既に夫人が知っていたかは分からないが、知らなかったとしても、すぐに知ることになった。千紘が、妾宅に迎えられて数ヶ月で、女児を産んだから」
「……っ」
「そのうえ、千紘は産褥で亡くなってしまった。槙野男爵は遺された娘のやり場に困って……いや、これは俺の偏見だな、訂正する。妾腹の娘を男爵令嬢として育てることにした。その娘は、正妻の朝子夫人が産んだ子として、届け出された」
だから、今の槙野家は四人家族だ。父と母と、その間に生まれた娘が二人いる――ということになっている。
その方が父や家にとっては体裁がよく、綺麗な形に収まるからだ。その形に収めるために、母の気持ちを度外視するならば。
「……じゃあ、何? お母様は、夫が自分を裏切って妾にした憎たらしい女の娘を、自分が産んだ我が子として扱うように強いられたってこと?」
新婚の正妻である自分をよそに妾を囲われ、それを許せと言われるどころか、妾との子を実子として公に認めるように強いられ、その後も家の中でも実の娘として養育するように強いられた。
母の尊厳をどれだけ、何重にも傷つければ気が済むのだろう。
「……ああ、そうだ」
「それだけじゃないわよね? だって――その娘は、槙野男爵の子でもないんですもの!」
ましてや、聡子は実のところ『槙野男爵が妾との間に儲けた子』ですらない。
槙野男爵は『千紘と小癪な若造の面影がある』と言っていた。『小癪な若造』――当時、千紘を男爵と取り合ったという若い男が、聡子の実父なのだろう。
「槙野男爵と同時期に、熱烈に千紘のもとに通っていた男。千紘もまんざらでもない様子だったというから、おそらく、二人はとっくに深い関係になっていたんだろう。その男が――辰巳肇が事故死して、二人の蜜月が終わるまで」
元老と畏怖される有力者である辰巳公爵家の、溺愛された跡取り息子なら、贔屓の芸者の元に通うくらいの金は自由にできただろう。
肇が生きているうちは、槙野男爵には勝ち目がなかったことは言うまでもない。だが、肇は事故で死に、運は槙野男爵に向いてきた。
「ところで『千紘』の名前は、櫻千楼に勤めるようになってから付けた源氏名だそうだ。本名は、紘子」
「ひろこ……頭文字は『H』ね」
そうだ、あのときもおかしいと思ったのだ。
指輪に刻印された頭文字を聞いたとき、江戸の生まれの辰巳公爵がハイカラな今どきの慣行を取り入れるだろうかと不思議だった。
あれは、指輪を用意して肇に贈った者と、指輪に刻印した者が別だったからなのだろう。
「『H to H』『肇から紘子へ』……それが、この指輪に込められた意味だったんだろう。これは留学が決まってしばらく会えなくなる肇が、婚約の証としてか、彼女を自由の身にするための金としてか、留学前に贈ったものだった」
辰巳肇は親から贈られた指輪を粗雑には扱わない。――でも、愛する女性のために使うとしたらどうだ?
苦境にある女性に、自分との将来の約束を与えるために、彼女の望まない仕事を辞めさせるために、その指輪を使おうとした。
「その想いは、邪魔が入って、千紘には伝わらなかったようだがな」
例の新橋芸者は、当時、千紘の妹分として傍についていたのだと。
ある日の逢瀬の後で、千紘が大きなダイヤモンドのついた指輪を贈られているのを見て、羨ましくなってしまった。あんまり羨ましくて、その次に肇が訪ねてきたときに、意地悪をしてやろうと追い返してしまったことがある。
そのとき肇は切羽詰まった様子で『大事な話があるから紘子にほんの少しだけでいい、会わせてほしい』と頭を下げて頼んできたのに。
それから肇は来なくなって、千紘は元気を失い、別の人に身請けされた先で死んだ。肇も間を置かずに死んだと、噂で聞いた。
自分はなんて恐ろしいことをしてしまったのか。違う、違う。私のせいじゃないの! 私にも悪気があったわけじゃない、みんなが不幸な結末を迎えるなんて、ちっとも思っていなかったの!――新橋芸者はそう言って、泣き崩れたという。
「そういう経緯で肇兄の想い人宛てに贈られた指輪なら、槙野男爵は賭博の件はともかく、指輪の窃盗だの肇の死だのには関わっていないと見て、疑いも晴れた。聡子さんは、肇兄の娘としてこの指輪を堂々と持っていればいい。今後のことは、辰巳家にも相談しながら――」
「おかしなことを。肇さんと紘子さんとがきちんとした愛情で結ばれていれば、それは尊ばれるべきだって仰るんですか? ……じゃあ、どうして。紘子さんは、この指輪を売らなかったの?」
「え?」
事情を理解するにつれ、聡子の心にじわじわとこみ上げてきたのは怒りの感情だった。
困惑顔の晴臣のことまで憎らしく思えてくる。どうして、分からないのだろう。
「売って、お金に換えればよかった。そうしたら紘子さんは自分で自分を買い戻せた! お腹に赤ん坊がいたとしても、そのお金だけで生活できたはずでしょう! それなのにっ」
身分違いはあるにしろ、相思相愛だった二人はその想いに殉じることも選べただろう。
それなのに、紘子は、肇の心変わりを誤解して槙野男爵の庇護を受けることを選んだ。
その選択の方が、紘子自身や生まれてくる肇の子にとっては楽に生きられるからだ。――その裏で犠牲になる者には見ないふりをして。
「どうして……っ、関係のないお母様のことまで巻き込んで、不幸にしたの!?」-
この話に朝子は何も関係がない。
彼女には何ひとつ、落ち度も責められるようなところもなかった。
それなのに、身勝手な人間たちの思惑を、それぞれにとって都合のいい形に収めるときに生じた歪みは、全て朝子ひとりが背負わされた。
「……ふふっ」
口から乾いた笑いがこぼれた。
悲しみや絶望が大きくなりすぎると、もはや諦めて笑うことしかできないのだと、初めて知る。
「でも、よかった。私のせいじゃなかったのね」
「聡子さん」
「お母様が私を疎むのは、お父様の裏切りのせい。妾の子どもを押しつけられたせい! 本当のところはお父様の子どもですらなかったなんて、それは、お母様がお気の毒すぎるわ! ……だから、仕方ないのよ」
ずっと、おかしいと思っていた。何より寂しいとも思っていた。
どうして母は、年頃になった聡子を早くによそにやろうとするのだろう。そんなに聡子と一緒にいたくないのだろうか。……聡子のことが嫌いなのだろうか、嫌われるようなことをしてしまっただろうか、と。
「お母様が私のことを愛せなくても、仕方ない。本当によかった。私のしてきたことのせいじゃなくて……っ!」
聡子が生まれる前の経緯があれば、嫌われるに決まっているじゃないか。
母に愛されることはあり得ないのだという突きつけられた結論に、胸は痛んだけれど、それが自分にはどうすることもできない――自分に責任のない理由であることに安堵する自分もいた。




