父の話
晴臣に車で送り迎えされることにも、最早すっかり慣れてしまった。
「ありがとうございました」
「待て」
ある朝の登校時、聡子が礼を言って車から降りようとすると、手首を掴んで引き留められた。
驚いて彼の顔を見上げれば、何かを言い淀んでいるような気配がある。
「なんですか?」
「……今日は外せない仕事が入って、帰りの迎えに行けない」
「そうなんですね?」
それを聞いて、特段、不審には思わなかった。
日々の業務は普段通りにこなしながら、余暇に聡子の監視までさせられている晴臣は、ただでさえ忙しすぎる。
あまりの多忙で余暇をとることすらできなくなれば、自然と本業が優先になって、監視の優先度は下がる。
むしろ、聡子から目を離しても大きな問題は起こらないだろうと判断してくれたのなら、何だか彼に信頼されたようにも思えて、嬉しい。
「今日はくれぐれも、寄り道せずに、まっすぐ家に帰ってくれ」
「分かりました」
聡子とて彼を悩ませたいわけではない。それに頼まれたのは大したことでもなかった。
彼と出会う以前の聡子がそうしていたのと同じ経路で、帰宅すればいいだけの話だ。あえて指示に逆らう理由もない。
ただ――放課後、実際に家の最寄り駅まで着いてから、聡子は気づいた。
(爽ちゃんのお迎え、どうしよう)
以前とは違って、体調の回復した爽子は、規則正しく小学校に通うことができている。
迎えが無いなら無いで、爽子ひとりで何事もなく帰ってくるだろうけれど、まだ通学を再開したばかりで学校生活や友人関係に不安があるのか、妹は聡子たちが迎えに行くと、とても喜ぶ。
今日の聡子は徒歩で、妹を車の後ろに乗せてやることはできないが、迎えに行ってやった方がいいだろうか。
(……どうせ近場だし、これくらいは寄り道にはならないわよね?)
もしかしたら、妹は、今日も迎えがくるものと期待して待っているかもしれない。
小学校に寄ってみて爽子が既に帰っていたら、その時はその時だ。聡子は爽子の通う小学校へと足を向けた。
「こんにちは。爽子はまだ中にいますか?」
「ああ、爽子さんのお姉さん……」
結論から言えば、このときの聡子の判断は最善だったと、後から思い返して思った。
聡子が校門の近くにいた教員に声をかけると、教員は戸惑ったような顔で聡子を見た。
顔見知りの教員だ。彼も、聡子が爽子を迎えに来ることがあると、知っているはずなのに。
その反応を訝しんで、聡子が事情を尋ねようとすると、教員が先に口を開いた。
「――お父様と、ご一緒ではないのですか?」
「え?」
心臓がどくんと弾んだ。
どうして、今、父の名前が出るのだ。犯罪を犯して行方不明になった父の名前が。
しかも、まるで――父が、爽子の迎えに来るような前提で。
聡子の不安を裏づけるように、教員は言った。
「爽子さんなら、先ほど、お父様が迎えにいらしてましたが。……お姉さんは、それとは別々に迎えに来られたんですか?」
爽子さんはお父様に引っ張られるみたいにして帰っていきましたが、喧嘩でもなさっているのかと思いました。――能天気な言葉に、この教員が今年から勤め始めたことを思い出した。
そうか、彼は教員としての経験も少なくて、まして、登校しない期間の長かった爽子の家族の事情まで把握していなかったのだ。だから、気づかなかった。
音信不通の父に突然に押しかけられた爽子の困惑も反発も恐怖も、事情を知らない人の目には『どこにでもありふれた親子喧嘩をしているのかな』という程度に受け取られてしまった。止められることもなく、連れ出されてしまった。
爽子の身に起こった出来事を悟った聡子は、顔から血の気を引かせて、校門から駆け出した。
(どうして今頃? 今までどこにいたの? いや、そんなことより、どうしてあの子を連れて行ったの!?)
『先ほど迎えに来た』ということは、まだ遠くには行っていないはずだ。爽子が嫌がる様子で父に進んでついていかないなら、なおさら。
そうであってくれと祈るような気持ちで、聡子は爽子の名前を大声で呼びながら、辺りの往来を探し回った。
「離してよぉっ! 父様なんて大嫌い!」
「うるさい! 早く来いっ!」
やがて、そのか細い声が聞こえたのは、小学校から槙野家とは反対側に進んだところで。
これ以上遠くに歩かされることを拒んでか、道端の標識にしがみついた妹が、汚らしい身なりの男に細い腕を引っ張られていた。
「爽ちゃんっ!」
「姉さまぁ……っ、ひぐっ、ぐすっ!」
慌てて割って入り、妹を背中に庇う。
べそべそと泣いてしまっている爽子は、聡子の上衣にぐちゃぐちゃの顔を押しつけて、温い涙で濡らした。
「……お父様」
二年ぶりに目にする父は、痩せこけていた。顔の髭も髪も伸び放題に乱れていて、記憶の中の父の姿とはまるで違っている。
だが、娘として見間違うことはあり得ない。紛れもなく父本人だ。
「おかえりなさいませ。今さら、何をしに帰っていらしたのですか」
もっと率直に言うなら『どの面下げて帰ってきたのか』と言ってやりたいところだった。
父の無事を喜ぶだとか、父にも何か事情があったのだろうと心配するだとかの段階は、とうに越えている。
父の犯した罪と責任逃れの失踪によって、事情も知らずに残された聡子たちがどれほど苦労したか、知っているのか。知っているなら、そのとき助けもせずに、今になって現れた理由が心底理解できなかった。
だから尋ねた。もしも、問いかけに、父が『苦労をかけてすまなかった』と謝ってくれたのなら、まだ聞く気にもなれたかもしれないけれど。
「金が要るんだ、娘を連れていけば金を用意してくれる先があるのにっ! 華族の娘なら、高値がつく……っ」
「は?」
父の口から溢れた『今さらになって娘に会いにきた理由』はあまりにも――全く期待もしていなかった想像のさらに下をいく、身勝手極まるものだった。
理解できずに頭が真っ白になって、それから、父の言葉と、爽子が無理に連れ出された状況を、じわじわと照らし合わせた。
つまり、あろうことか、この男は――。
「爽子を、どこぞに売るつもりですか。それが、人の親のすることだとお思い?」
聡子の可愛い妹を、まだ幼い妹を、芸者の置屋か悪くすれば私娼を抱えた銘酒屋あたりに連れていく。
そうすれば、父には前払いの『給金』が渡されて、店に置き去りにされた娘は、その分の借金を自分の働きで返さねばならなくなる。
何年もかけて、金を返すまで家に帰ることすらできなくなる――そんな過酷な生活を、爽子に強いようとしたというのか。
睨みつける聡子に、父は『誤解だ』と弁解するどころか、血を上らせた真っ赤な顔で、わあわあと喚き立てた。
「うるさいっ! 家を継げない娘など、親の役に立つのが役目だろう! この二年、儂がどれほど不自由な思いをしたと思うっ! 外にも出られず、食べ物一つ手に入れるにも使いを介して、無駄金を払わされてっ!」
「お父様が『無駄』と仰ったお金を持ち出したせいで、私たちは二年間、ずっと苦しい思いをしてきましたが」
槙野家に多少なりともあったはずの現金は、父の賭博に費やされ、残りは摘発を知った父の逃走資金として持ち出されて、残された母子は父が失踪するや否や、生活に困ることになった。
ほんの少しでいいから残しておいてくれたらよかったのにと、この二年間のうちに、聡子が何度願ったか知らない金を、父は自分の潜伏先に物を運ばせる手間賃として使っていたのだ。
そして、その金も尽きたから、娘を金に換えようとしている。――ああ、もう駄目だ。
この父に、父親らしいふるまいを期待した方が愚かだったのだ。こんな男を身内とは思わない。
聡子は、怒りに震えながら、父だった男に最後通牒を突きつけた。
「馬鹿なことはやめてください。お父様がここに来たことは、すぐに警察に突き止められます。少しでも罪が軽くなるように、自分から出頭し……」
「うるさぁいっ!」
父のことは晴臣たちに引き渡す。
どうせ罰からは逃げられないのだから、罰が少しは軽くなるように手助けするのが、縁を切る子としての最後の務めだ――という殊勝な考えは、大声に遮られた。
「口ごたえするなっ! 儂はお前の父親だぞ。お前はいつから、父親に指図できるくらい、偉くなった?」
「偉いつもりはありませんが、お父様の娘であることを恥ずかしいとは思いますわ」
「お前っ!」
当然だろう。父のせいでこれまでどれほど肩身の狭い思いをしてきたと思っている。今のやりとりにどれほど失望したと思っている。
この身勝手の極みのような男を、血の繋がった父だと思いたいはずもない。
決別を告げる聡子の言葉に激昂する父を見て、てっきり殴られやしないかと、聡子は思った。
だが――。
「娘のくせにっ、……いや、お前は本当に、儂の子なのか?」
予想に反して、父は聡子に暴力を振るおうとはしなかった。
何か幽霊でも見たような顔で、聡子の顔を凝視している。
「千紘に似た顔だが、どことなく、あの小癪な若造の面影があるような……まさか、千紘が儂を裏切ったのか?」
「は?」
「チクショウ、あの女っ! 大金を積んで、身請けしてやったのに! 恩を仇で返しやがって!」
「待ってください、何の話をなさっているの?」
また、千紘。少し前にもその名を聞いた。
銀座の料理店で新橋芸者が口にしていた、聡子と似ているらしい人の名前。
その人物を、父も知っている?
それに――父は、千紘を身請けした、とも言った。その千紘と、また別の誰かとの面影が、彼女と縁もない聡子の顔にあるとは、どういう――。
「……気が変わった。お前だ」
「お父様?」
「生粋の華族の娘の方が、高く売れると思ったが、お前の方が男受けするだろう。何せ、男を誑かすアバズレの娘なのだからっ!」
父は何を言っているのだろう。
聡子は、父と母の娘なのに。末端ではあっても生まれながらに華族の娘なのに。
――でも、考えてみれば、色々とおかしかった。
そろそろ嫁に行くべき年齢の聡子と、まだまだ幼くて宴席に侍ることもできない爽子を比べて、どうして父は、爽子の方を売ろうとしたのだろう?
聡子も爽子も同じ両親のもとに生まれた娘のはずなのに、高く売れる生粋の華族の娘と、そうではない娘がいる、と。アバズレの娘というのは、誰のこと――?
「感謝しろっ! 元々、花街で育つはずだったお前が、元いた場所に戻るだけだ。ただし、千紘に無駄金を払わされた分も元を取るまで、劣悪な店に売ってやるがなっ!」
殴りかかる父の拳がやけにゆっくりに見えた。
知らされた真実、自身の出生の秘密は、到底受け入れられるものではなくて。呆然として立ち尽くすしかない聡子に拳が降る、その刹那。
「俺の許嫁に何をしている」
血飛沫が放物線を描いて飛んだ。
間近に迫った拳に、銀色の刃が振り下ろされて、耳障りな苦悶の声が、その場に倒れ込んだ醜悪な肉塊から上がっていた。




