家の話
『家族』というのは『家』を維持するための、共同体の構成員を指すのだと思っていた。――晴臣にとっては、そうだったからだ。
『本当に可愛げのない子ね。いいこと? あなたは、この家を継げないの。次男なんだから、兄を押しのけようとしないで』
晴臣の実母は、よく吐き捨てるように言ったものだ。
生家の伯爵家を維持するためには、晴臣の存在は害でしかないから、お前は『家族』ではないのだ、と。
『ぼく……僕はっ、兄様を押しのけるつもりなんてないよ! どうして、そんなこと言うの?』
実兄――伯爵家の長男のことは、兄として慕っていた。生まれてから一番近くにいた、年の近い同胞なのだから、親しみを覚えて当然だろう。
まだ晴臣が赤子に毛の生えたような幼子だった頃は、兄もそれに応えてくれていた。次第に疎まれるようになったのは、兄が小学校に上がった頃だったろうか。
家で宿題をする兄の隣で、兄の真似をして机に向かう――それは、兄を慕うがあまりの行動だったのに。
『嘘をおっしゃい! あなた、和臣に自分の優秀さを見せつけて、傷つけて、どうしてそんなに意地の悪いことができるの? あなたがいると、和臣が潰れてしまう!』
兄と張り合うつもりなんてなかった。
その頃の晴臣にはまだ分かっていなかったけれど、当主のスペアとして一生部屋住みの身でも、家のための縁を作るために他家に養子や婿に行けと言われたとしても、晴臣はきっと逆らわなかった。
それは、家族だからだ。
晴臣の家族である両親や兄が、晴臣がそうすることで幸せに過ごせるのなら、もちろん協力するつもりだった。
――でも、母は『年の近い弟である晴臣と関わること』自体が、兄にとっての害になっていると言う。
そして、家を継ぐ長男が潰れてしまえば、家ごと駄目になってしまうから、そうなる前に晴臣を引き離したいのだと言った。
『何を悲しむことがある。お前は、穂村家の長男になった。それだけで十分だろう』
娘ばかりで家を継ぐ男児がいなかった、母方の祖父の家に養子に出す――それは、外観を見ればよくあることで、特段悲しむようなことではなかった。
養子に出された事情の内実を知る祖父は、親に疎まれた晴臣を哀れみはしたけれど、孫を励ますためもあってか、『生家のことは忘れて、これからは穂村家の長男として生きればいい』と喝破した。
『お前の生まれた家も、穂村家も、これでどちらも生き残る。お前の兄もお前も、どちらも跡継ぎとして下にも置かれぬ扱いをされる。お前に損はないだろう? ……お前の母も、あれなりに、お前の幸せのことも願って家から出したのだろうから、許してやれ』
そうなのかな。
祖父の言うことは理屈では正しいような気がするけれど、でも――これが正しいとしたら、今、晴臣が抱えている寂しさと悲しさは間違っているということなのか。
この気持ちは、どこにやればいいのだろう。
『大人の事情で勝手に決めておいて、『お前は幸せ者だ、感謝しろ』と言われても、困ってしまうよ。……自分が恵まれていることや、これが恵まれた者の甘ったれた悩みであることは、僕も、重々分かっているのだけれどね』
晴臣が穂村家の跡継ぎとなった挨拶にと、祖父に主家に連れて行かれたとき、血の繋がらない旧知の兄貴分は、その前に会ったときと変わらず、晴臣を名前で呼んで、自分を愛称で呼ぶことを許して、甘い菓子を与えてくれた。
『跡継ぎだから、下にも置かれぬ扱いをされるから、それで幸せだとは限らないのにね。……家のためを思えばこそ、ままならないこともある』
『肇兄?』
『ああ、いや、何でもない。……そうだね、晴臣がもう少し大人になったら話そうか。そのときは君の知恵も貸してくれるとありがたいな。これからもよろしく』
憂い顔で苦笑いをしていた彼は、あのとき、何を考えていたのだろう。
彼は、晴臣が大人になる前に死んでしまって、晴臣は、彼が亡くなったときの齢を追い越した。
もう二度と、その答えは聞けない。
ともかく、晴臣にとって、『家族』や『家』とは、そういうものだった。
損得に結びついていて、家を維持するためなら個人の感情は置き去りにされても仕方ない、それで家族全員が得をするならいいだろう、と扱われるような。
『あなたにとっては、不便で、遠ざけたいものなのでしょうけれど、ここは私の家で、あの子は私の家族なの』
――聡子が言い放つのを聞くまでは。
彼女に辛く当たる母も、甘えたで手のかかる病弱な妹も、彼女に大したものを返してはいない。
このままでいれば、確実に家全体が共倒れで破滅してしまう。
それでも、聡子にとっては、遠ざけたくなくて離れがたいもの、それが『家族』なのだ、と。
(いいなぁ。俺も、それが欲しい)
率直に、羨ましかった。かつて諦めて捨てたはずの満たされない感情が騒ぎ出した。
この心の穴を、彼女で埋めたい。
彼女が『家族』に向ける情を、自分にも向けてほしい。――彼女の『家族』になりたい。
もちろん、よそものの晴臣がそれを望むのは図々しくておこがましいことだと分かるから、彼女に『得』があるように、施しは欠かさなかった。
妹の病を治して、母に主治医をつけてやった。
家政や家事は彼女の手から離せるようにして、若い娘らしい身を飾るものを贈った。
だが、聡子は御礼は言うけれど、困った顔をしてばかりだ。いまだに『晴臣がいれば便利だ』と傍に置こうともしてくれない。
躍起になっているうちに、良くない気持ちがむくむくと湧いてきた。
(彼女は俺のふるまいを苦々しく思っているのだろうが、生活のことを思えば、施しを拒めない。それでいい、打算でいい。そのまま、俺がいないと生きていけなくなってしまえば)
ずっと傍にいれば、情の一つも湧くだろう。
湧かないにしても、損得を考えて、晴臣が望む扱いの一つや二つはしてくれるだろう。
妹と話しているときのように自然に微笑んで、晴臣の浪費に小言を言いながらも一緒に出かけて、恐縮せずに素直に好きなものや嫌いなものを教えてくれるだろう。
そうすれば、晴臣はもっと、彼女の望むふるまいができるのに。
(そう思っていたのに、もう傍にはいられない)
槙野家に到着した車を風間が誘導して、風間夫人が『今日の晩ごはんはお嬢様の好物ですよ。大奥様もご体調がよろしいようで、お部屋に運んでおきます』と告げる。
喜んだ爽子が飛び跳ねて、彼女に腕を掴まれたままの聡子がふらついた。
彼女の身体の支えにと、晴臣が細腰に腕を回せば、聡子は羞じらうように『申し訳ありません』と目を伏せる。
かつて夢に見た光景とよく似た、作りものの団欒は、今にも晴臣の傍から離れようとしていた。




