思惑の話
槙野男爵を確実に捕まえる算段をつけたところで、庁舎に終業の鐘が鳴った。
仕事が立て込んでいる時期なら、定時の終業時刻など関係なく業務が続くのだが、ここ最近の晴臣は鐘の音にも耳を澄ませるようになった。
「いけない、もうこんな時間か。迎えに行かないと」
今、霞ヶ関を出れば、ちょうど華族女学校の終礼後の時間に着く。遅れて聡子を待たせるのも良くない。
幸いにも今日済ませておくべき仕事や伝えておくべき報告はしたわけだし、と迷わずつま先を扉に向ければ、背中に声が投げつけられた。
「まめだねぇ。それも監視? 仮に槙野男爵が肇兄の事件に絡んでいたとして、聡子嬢は違うことなんて、もう分かっているだろうに」
完全に揶揄う声だ。
無理もない、もしも二辻が同じことをしていれば、自分だって『宗旨替えか』とこれまでの言動との差を指摘せざるを得なかっただろう。
それに、聡子が事件に関与していないこと――聡子を見張る理由がないことなんて自明だ、というのも、二辻の言うとおり。
言い返せることなどあるはずもなく、晴臣は会釈を返して、足早に部屋を出た。
「あっ! 聡子さんの旦那さん!」
「聡子さん、旦那様がお待ちよ!」
華族女学校の前に車を停めると、すっかり顔見知りになった女学生たちがさざめいた。
こちらから何も言わずとも、彼女たちは聡子に晴臣が来ていることを伝えてくれる。
皆に注目された中を、そそくさと駆け寄ってきた聡子は、今日も困ったような顔をしていた。
「もう、私のことなんて、わざわざ迎えにいらっしゃらなくても……って、これも監視の任務でしたね。お勤めご苦労様です」
晴臣に手間をかけさせたことを謝っているようでいて、実際は『晴臣に自分の生活に関わってほしくない』と思っているのだろう。
彼女の生活を掻き乱している自覚は、当然ながら晴臣にもある。……彼女をやむなく監視していると言えなくなった今では、掻き乱すことに正当性がないという自覚も。
聡子は目立つことを嫌がっているようだから、居心地の悪い思いをさせているとも知っている。
「……指輪、つけないのか」
知っているけれど、ハンドルを握った晴臣は、顔を正面ガラスに向けたまま、ちらりと彼女の左の薬指を盗み見た。
そこには今日も、きらきらと輝くダイヤモンドはない。
「ちゃんと、身につけてはいますよ? 首から提げて」
知っている。
これまでにも何度も同じやりとりをして、聡子は指輪を持ち歩くことは認めたけれど、指輪を買って帰ったあの日以来、一度も指につけてはくれなかった。
「若い女は、ああいうものを欲しがるし、ひとにも見せたがるものだろう。せっかく贈ったのだから……」
「それは、人によるでしょう。学校は勉強をしに行く場所です。なにも、見せびらかさなくても」
「……そうか」
往生際の悪い言葉はたやすく論破された。
聡子が正しい。そんなことは分かっているのに、晴臣は、彼女が自分の贈った指輪を薬指につけた姿を見たくて仕方がなかった。
「それに、目立つ指輪を人に見せたら、無くしたときも気づかれやすくなるでしょう? 『あの指輪はどうしたの?』って。……婚約を解消した後、指輪をお金に換えてから、そんなふうに聞かれたら……気まずいじゃないですか」
「……っ」
指輪を贈ったときに、彼女には『慰謝料や手切れ金だと思え』と言った。そうとでも言わなければ、受け取りそうになかったからだ。
実際、品質の良いダイヤモンドを使った指輪は、石だけでもそれなりの値がつくだろう。
婚約解消の『慰謝料』や『手切れ金』の相場としては、これだけでも十分だろうとは思う。――そもそも手を切ること自体が嫌だというのは、晴臣の勝手な感傷にすぎなくて。
「指輪とは別に、生活に困らないくらいの金は渡すようにする」
もしも、指輪以外に十分な金を与えたら、聡子は指輪を手放さないことを選ぶだろうか。例えば、指輪のデザインが気に入ったという理由で、手元に残しておこうと思う、とか。
いや、そんなことはないだろう。金なんていくらあっても困らないのだから、金は金として受け取って、指輪も換金して終わりか。
今も指につけてくれないくらい、気に入ってはいないようだし、きっと手放してしまうだろう。
そもそも、聡子は晴臣のことを好いてはいないのだから、晴臣からの贈り物を喜ぶはずもなく、かといって真面目な彼女は気のない相手から貢がれることも良く思わないらしい。
今だって、首を振ってきっぱりと断ってきた。
「いえ、追加のお支払いは結構です。もう十分すぎることをしていただいています。家のことをしてもらうのにもお金がかかるのに。風間さんたちも受け取ってくださらないし」
「彼らには俺から支払っている。そして、俺は俺の暮らしにかかる支払いをしているだけだ、気にするな。そもそも、君たちには支払う余裕もないだろう」
「……そうですね。すみません」
彼女の様子から、違った意味で捉えられたのは分かった。
自分の口下手が歯痒い。伝えたかったのは『どうせ君たちには支払いようがないのだから、好意に甘えておけばいい』ということで、殆どそのとおりに口にしたのに、聡子は気に病んだように、しゅんとして俯いてしまった。
それを見ていれば、分かる。
彼女は、晴臣に甘えるつもりはなく、むしろ恩を着せられているような息苦しさを感じている。
晴臣と婚約しているのは、互いの利害の一致があるからやむを得ず、でしかない。
――じゃあ、その利害の一致が無くなったら、どうなる?
(もしも、槙野男爵がこのまま捕まらなければ……)
晴臣は、槙野男爵が聡子たちに接触してくる可能性を考えて、彼女たちを見張らなくてはならない。……見張るために、聡子の傍にいる理由ができる。
それなら、聡子も『仕方ないな』と受け入れざるを得ないから、婚約を続けてくれるはず――。
(違うっ! 何を考えている、俺はっ!)
槙野男爵はすぐにでも捕まえるべきだ。
賭博事件の件でも、辰巳肇の件でも、彼に聞きたいことは山ほどある。内務官僚としても肇の弟分としても、晴臣が彼を許して見逃す選択肢はあり得ない。
だが、その場合、聡子との関わりは――一直線に結びつきそうになる思考を散らすように、晴臣は頭を振った。
「どうしました?」
「なんでもない。……爽子嬢は、今日は小学校に行くと言っていたな」
「え? ああ、そうでしたね」
「迎えに寄るか」
「いいんですか?」
可愛がっている妹のことを口にすると、聡子はぱっと表情を明るくして、車内の気まずい空気が和らいだ。
槙野家の近くにある小学校に寄ると、放課後に校庭で遊んで帰るところだったらしい、聡子の妹と目が合った。
すぐにこちらに駆け寄ってくる。
「姉様!」
「爽ちゃん、お疲れさま。晴臣さんが、迎えに寄ってくださったのよ。お礼を言いなさい」
「……どーも、ありがとうございます」
聡子に抱きついた爽子は、じろり、と晴臣を睨めつけながら、口先だけの御礼を口にした。
「いや、こちらこそ」
「こちらこそ……? 本当にありがとうございます、晴臣さん。っ、きゃっ!」
「姉さまぁ! あたし、学校のお話、たっくさん話したいことがあるのっ!」
会話に割り込んできた爽子は、ぐいと聡子の腕を引っ張った。そのまま、車の後部座席に姉ごと座り込んでしまう。
学校であった出来事を大好きな姉に伝えたいのも本当だろう。だが、主たる部分はきっと、大好きな姉との時間を奪う憎い男から取り返したいという気持ちからの、幼い仕草だ。
爽子から嫌われていることは、晴臣とて分かっている。それでも今は、彼女に感謝の気持ちしか湧かなかった。
「そんなことがあったの? 久しぶりの学校なのに、爽ちゃんは凄いわねぇ」
爽子と話す彼女を、ミラー越しに盗み見た。
心を許した相手と身体の力を抜いて話すときの、優しい笑顔を。




