仕事の話
ヒーロー視点です。
晴臣が内務参与官室に書類を届けに行ったとき、人はちょうど出払っていて、部屋の主であるところの内務参与官――すなわち二辻司が一人残っていた。
「ちょうどよかった。二辻閣下にお伝えしたいことがありまして」
「なに? 新婚生活ののろけとか?」
「……」
真面目な報告をしようと思った途端にこれだ。
激務の鬱憤晴らしか知らないが、混ぜっ返すのはやめろと、晴臣は冷ややかに彼を睨んだ。
「閣下、職務中ですよ」
「水くさいなあ。僕と君との仲、物心つく前からの腐れ縁じゃないか、晴臣。それで、若奥様とどうしてるって?」
「……司。語弊がある言い方はやめろ。結婚はしていない。ただの『婚約者という名目で容疑者を監視するための同居生活』だ」
「そうだっけ。まあ、どっちでもいいけど」
自分で結婚を命じておきながら、「どっちでもいい」といいかげんな態度を取られると、本当に傍迷惑なやつめと呆れの感情が湧き上がる。
こんなやつに人前で見せるような礼儀を尽くすのも馬鹿らしい。どうせ人目もないことだしと、晴臣は口調を崩して、本題に立ち入ることにした。
「そのことなんだが、司。柳橋の櫻千楼という料亭を知っているか?」
隅田川沿いに位置する柳橋は、江戸の時代から続く花街だ。
目の肥えた文化人たちが集まり磨き抜かれた伝統と格式ある街で、料亭の料理の味もその宴席に侍る芸者の芸も際立っているという評判だった。
晴臣には花街を冷やかす趣味はないが、洒落者で付き合いで出向く機会も多い二辻なら心当たりもあるだろう。見当をつけて聞くと、あっさりと頷かれた。
「ああ、柳橋の有名な老舗だね。上の世代のおじいさま方にはウケがいいから、お偉いさんの接待なら偶に使うかな。ただ、今は全体的に、柳橋界隈より新橋界隈の方が賑わってて……って、どうして料亭の話を?」
僕が聞きたかったのは君たちの新婚生活の話なんだけど。
いい年した大人の男のくせに、子どもっぽく唇を尖らせる見苦しい様子には見ないふりを通す。
晴臣はたった今聞かれたことだけに答えることにした。
「この間、聡子嬢を連れて銀座の料理店に行ったとき、様子のおかしい芸者と行き交った。その芸者が聡子嬢を見て、『千紘』という名前を口にしていたんだが」
「ふーん?」
「常連客らしいから料理店も芸者の名前を知っていて、そこから身元を探ったら、元は柳橋の芸者だったのが新橋に移ってきた者らしく」
「あー、あるよねぇ。芸の柳橋、なんて言われていたけど、今は新興の新橋の方が活気もあるし、芸者の出番も多くて稼げる。それで移籍したっていうだけなら、珍しくもない話だけど?」
江戸から続く柳橋と明治になって栄えた新橋とは、柳新二橋と並び称される東京の二大花街だが、伝統によって洗練された芸を持つ柳橋芸者は、新橋芸者よりも格上だと見なされてきた。
ところが、近年は、東京の中心部にある新橋の方が発展し、料理店も多く作られて、そこで三味線の芸を披露する芸者の需要も高まった。
その勢いは今でも止まず、新橋に演舞場を建設する計画まで進められていると聞いている。
少しずつ衰退しつつある柳橋から離れるくらい目端の利く者、「格」など気にせず実利を求める者――そういった芸者たちが新橋に移るのは、彼女たちにも生活があるのだから当然のことだろう。それには、まったくおかしなところはない。
「問題なのはここからだ。その芸者が柳橋で下積みをしていた頃に勤めていたのが櫻千楼で、櫻千楼にはかつて、『千紘』という看板芸者がいたらしい。若くして身請けされたそうだ」
芸は売れど身は売らぬ芸者、と言ったところで、その大半は家の借金の形に売られてきた娘たちだ。
いつまでも自分の芸と容姿が頼みの不安定な仕事を続けるよりは金持ちに囲われて庇護を受けたいと願う者も、大金を積まれて雇い先の店が乗り気になってしまい、断れずに泣く泣く妾になる者もいるだろう。
ただ、店としても、まだまだ稼いでくれそうな若くて評判のいい芸者を、早々手放すはずはない。看板芸者の身請けを希望する者には、彼女が店を辞める分の損失も補填できるほどの高額の身請け金を吹っかけたはず。
「へえ、そりゃあ随分高くついただろうね。若くて人気絶頂の看板芸者を身請けしようと思ったら、いくらかかるか……よほどのお大尽様でもないと無理じゃない?」
「槙野男爵だ」
「……え?」
突然知った名前を出されて、二辻は口をぽかりと開けた。
長い付き合いの腐れ縁の晴臣でも、見た記憶のない表情だ。彼の人生でも一、二つを争うくらいに驚いたのだろう。
気持ちは分かる。突き止めたときの晴臣もまさに同じ気持ちだった。
「どういうこと?」
「千紘は槙野男爵に身請けされて、男爵の妾になった。病弱な娘だったそうで、身請けから一年もしないうちに亡くなったらしいが」
「あらら、大枚はたいた甲斐がない。なるほど? それで、槙野男爵は家の金を食い潰していった、と」
「ああ」
一介の藩士でありながら男爵位を与えられるくらいには、先代の槙野男爵――聡子の祖父は才覚を評価された人物だったのだろう。その才覚で築いた財産を、わずか一代でぼんくら息子に食い潰されたと考えると、先代への同情を禁じ得ない。
おまけに、ぼんくら息子の悪行・乱行はそれで収まらず、今や指名手配された犯罪者にまで落ちぶれているなんて、故人はさぞかし草葉の陰で泣いていることだろう。
「でも、どうしてこんな話を? 妾の千紘は死んでいて、槙野男爵は失踪した。過去のスキャンダルは賭博事件には関係ないだろう?」
「槙野男爵は、千紘を囲うときに家を用意した。彼女の名義の家で、彼女が亡くなってからもそのままになっている」
「それが何か……まさかっ! そうか、だから、その妾宅は、二年前の捜査のときに槙野家の持ち物としては扱われなかった?」
「ああ」
察しがいい相手だと、話が早くて助かる。
気づいて狼狽し出した二辻に、晴臣は頷きを返した。
「名義が他人のもの、それも二十年近く前に亡くなって縁も切れた妾のものだから、二年前の槙野男爵の潜伏先の候補には挙がらなかった。――その家、売りに出されたわけでもないのに、妙な物音がするらしい」
果たして中に何がいるのやら――言い終わる前に、気の逸った二辻が、勢い余って飛びついてきた。
「槙野男爵を逃がさないように、今すぐ現場にっ!」
「三日前から見張りをつけてある」
「晴臣! 君はやっぱり僕の大親友だよ!」
「やめろ、気色悪い」
「ひどいなあ。でも、ありがとう、お手柄だ!」
行方不明だった槙野男爵は、かつての妾宅に潜伏している可能性が高い。
あとは大勢の警官を用意して、数で囲んで追い込めば、逃げ場もなく捕まるだろう。
(呆気ないな。槙野男爵が熱心に剣術や柔道の稽古をしていたとも聞かないし、結末は既に見えている)
維新から五十年も経って、元は武家の出であろうとも、武芸を修めた者など殆どいない。
昔気質の祖父に叩き込まれた晴臣だって、刀を取り上げられて持たされたサーベルで十全の剣術を振るえる気はしないが、反抗の術も持たない中年男を一人取り押さえるだけなら、素人警官の集団でも確実だろう。
それがこの時世に合った戦の仕方だ。
「……それで? それはそれとして、まだ僕の質問に答えてないよね? 銀座の料理店に聡子嬢と行って、何してたの? デート?」
万一にも槙野男爵を取り逃すことはないと聞いて安心したのか、二辻が話題をぶり返してきた。
どうやら、まだ聞き出すのを諦めていなかったらしい。
無視をしたり、下手なことを答えたりすると、延々と付き纏われて質問が続くだろうから、ここは簡潔に答えるべきか。
銀座には指輪を買いに行った。その指輪は、二辻やよその誰かに怪しまれた際に「きちんと婚約者らしく過ごしています」と説明するためのもので、いきなり聞かれたときに備えて毎日肌身離さず持ち歩く必要があり――つまり、まとめると、こういうことか。
「生活必需品の買い出しだ」
「うん、絶対嘘だよね!」
即座に否定されて、むっとした晴臣は二辻に視線を送った。
間違ってはいないはずだ。
せっかく贈った指輪を『女学校につけていくには華やかで目立つから』とつけ渋る聡子にも、同じように『常に身につけていないといけない必需品だ』と説得したし、根負けした彼女は今日も、指輪を通した細い鎖のネックレスを首から提げて登校していた。ちなみに、このネックレスもあまり武骨なものではよくないだろうと、晴臣が選んだものだ。
生活に必需なのだから、生活必需品だろう。
「うーん、でも、いいや! そんなにまにました顔のやつから詳細を聞きたくない!」
「にまにま? ……そんな顔、してたか?」
心当たりのないことを言われて、晴臣は右手でするりと自分の顔を撫でた。
口角は少し上がっているような気もするが、よく分からない。笑いを堪えられないほど愉快な話題をしていたつもりもないのだけれど。
「だってさぁ、そもそも、出先でたまたま彼女に話しかけた人がいたからって、そこまで調べるなんてねぇ。へえ? 聡子嬢のことだとそんなに気になるんだ?」
にやにや笑いの二辻を見て、英吉利の児童小説に出てくる妙な猫を思い出した。
見ているとむかついて、勘に障る笑みである。
「……自分の監視対象を狙う者がいれば、気にするのは当然だろう」
当然のことだ。だから、晴臣も気にしたのだ。
それだけなのに、いざ自分で口にした言葉には拭い去れない違和感があった。




