デートの話
指輪の名入れについて、完成まで時間を潰して今日中に受け取ると、晴臣は言っていたけれど。
「夕刻まで待つとなると、かなり時間がありますね。帰ってもよかったんじゃ?」
車なら、ここから本郷の家まで三十分はかからない。
長時間待つよりも、今日の用事はこれで終わりということにして帰り、また別日に受け取りに来ればいいような気がする。
「せっかく来たんだ、飯も食おう」
どうやら、晴臣の目当ては指輪だけではなくて、外出ついでにレストランを訪れることにもあったらしい。
そういうことなら、と聡子も頷いた。
「いいですね。……それでもまだ、時間は余りそうですが」
「そうか? 飯を食う準備も必要だろう?」
「準備?」
ただ食事をすることに準備が必要だなんて初耳だ。それを常識のように言われても分からない。
困惑する聡子の手首を、晴臣が掴んで、ぐいと引いた。
「あのっ、こんなに、要りません!」
そのやりとりのほんの少し後、聡子は晴臣に涙目で訴えかけていた。
場所は藤澤百貨店の宝飾品売り場の下の階、婦人服の売り場まで連れて来られたはいいが、そこにある服はどれもこれも高そうだ。
最近よく売れているというワンピースを店員に渡されても、繊細なレースの生地を試着のときにうっかり破いてしまったら、と心配して気が気ではない。
試着室のカーテンの隙間から頭を出して、聡子は「こんなに豪華なものは要らない」と言い募った。
たかがご飯を食べるだけだろう、不潔な服やボロ着は店にも嫌がられるかもしれないが、豪華なものでなくていいじゃないか。
後ろ向きな言葉を並べる聡子に向かって、晴臣は無慈悲に首を振ってみせた。
「服は要る。それなりにめかし込んだ者も多い店だ。それらしい格好をしないと浮いて、時間を潰しにくい」
「うう……」
今の聡子の地味な着物姿なら、店から入店を断られることはなくても、気を遣わなくていい客と見なされて、料理を食べ終わった途端に退店を促されるかもしれない。
無下に扱わない方がいい客に見せることも必要だ――と言われて、とうとう観念した聡子は、すっぽんのように頭を試着室の中に引っ込めた。
「……どうですか?」
白みがかった爽やかな翠色のワンピースを身につけて、おずおずとカーテンを開いた。
細い糸で編まれたレースが撚り合わさって複雑な模様の生地を成したワンピースだ。
贅沢にも裏地に光沢のあるシルクを使っていて、身体に自然に沿うワンピースのシルエットを美しく見せていた。
シルクの裏地を背景にすると、その上のレース編みも引き立って見える。
「いいんじゃないか。なかなか似合っている」
営業トークだろうが大絶賛の店員に比べれば、晴臣の褒め言葉は言葉少なで簡潔で、さほど褒められた気はしなかった。
だが、それでも嬉しい。彼に、見苦しくないと、大人らしい背広の彼と二人で店に行ける格好だと思ってもらえたことは。
「そろそろ店に行こうか」
洋服を選んでいるうちにそれなりの時間が経っていたようで、聡子は少しの空腹を覚えていた。
晴臣も同じ気持ちだったのか、会計を終えるとすぐに、彼の行きつけだという料理店に向かった。
なんでも、元は女性に人気の薬局で、女性向けに珍しいソーダ水とアイスクリームも取り扱うようになり、それがあまりに評判だからと料理店まで開いたらしい。
「この時間だと、新橋芸者が稽古帰りに寄って、食べ終わって抜けるところだ。すぐに入れる」
「お詳しいですね」
晴臣の読み通り、三味線を抱えた着物姿の芸者衆が一団となって店を出るところに、店の入り口ですれちがった。
三十路すぎくらいの芸者に聡子が道を譲ると、芸者は会釈した後で顔を上げ、何かを見つけたように目を瞠った。
「――千紘さん?」
誰か近くにいる人への呼びかけかと思って周囲をきょろきょろ見回したけれど、芸者衆はそれぞれの帰路に散ったようで誰も見当たらない。
初めに聞いたときは聡子に呼びかけているのかと誤解するくらい、はっきりと言われたのだ。『千紘』は近くにいるはずなのに。
「今、何か?」
「あ……ごめんなさい。人違いをしてしまって」
念のため聞き直すと、芸者は聡子の顔を食い入るようにじっと見て、頭を下げてきた。
どうやら、その『千紘さん』と聡子を取り違えたらしい。
「いえ、お気になさらず。どなたか探していらっしゃるんですか? その、千紘さんというお連れの方とはぐれたとか?」
逸れたのなら、こちらには暇もあることだし、探すのを手伝ってはどうだろう。
聡子の申し出に、芸者はふるふると首を振った。
「違うの……千紘さんはずっと前に亡くなったもの……」
「え?」
「そうよね、違う……違うわ、私じゃない……」
芸者はそのままぶつぶつと呟きながら、ふらつく足取りで大通りへと出ていく。
彼女の後ろ姿を、晴臣は厳しい言葉で評した。
「なんだ? 様子がおかしいな。警察に通報するか?」
「通報って、そんな、亡くなった友人と似た人を見かけて驚くことくらい、普通のことでしょう」
構わずにお店に入りましょう、と入り口を手で指せば、晴臣は首を捻りながらも後に続いた。
「……友人のことを話しているようには見えなかったから、言ったんだが」
懸念の声は、聡子の耳まで届かなかった。
「わぁ、綺麗!」
店の中には丸みを帯びた形の木のテーブルが並んでいた。天井からは柔らかい光を放つ丸い灯りがたくさん吊られていて、天鵞絨張りの椅子はいかにも座り心地が良さそうだし、床のカーペットと合わせて空間を柔らかい雰囲気に統一していた。
「献立メニューはこちらをご覧ください」
「あっ、ありがとうございます! ……ええと、」
給仕に渡されたメニュー表の台紙を見ても、聞きなれない片仮名の料理名が原語の表記と一緒に並んでいて、どれがどれやら分からない。
混乱を見かねたのか、晴臣が口を出してきた。
「ここの名物は、カレーライスかクロケットだ。ああ、コンソメスープも付けた方がいい。アイスクリームもよそでは滅多に食べられないし、他に、ビーフシチューあたりも」
「待って!」
さらさらと説明されても、余計に分からなくなってきた。
途中で彼を押し止めて、聡子は選択を放り投げようとした。
「じゃ、じゃあ、晴臣さんのおすすめのもので!」
「俺の?」
丸投げされてメニュー表を見た晴臣は、ぼそりと呟いた。
「……全部頼むか?」
「いえっ! その、クロケットとやらと、スープをいただきたいです!」
彼に任せたらとんでもないことになる。そうだ、指輪もワンピースもそうだったじゃないか。
自分で決めるしかないと腹をくくった聡子は、印象に残っていたメニュー名を口に出した。
「美味しそう……!」
しばらくして席に届けられたのは、深く濃い黄金色の液体と、美味しそうなきつね色の揚げ物だった。
コンソメスープは一見して具も入っておらず、透明な汁だけ飲んでも、と思ったが、匙ですくって一口含めば、ぐっと強い旨みが舌に伝わる。
肉と野菜から出汁をとったのだろう、混ざり合う旨みの複雑さは、見た目からは想像もできないほどだった。
揚げ物の方も、普段見かける平たい揚げ物とは違って俵型な理由が気になって箸で割ると、中からとろりとしたクリームが溢れ出た。
おそるおそる口に運ぶと、舌触りも滑らかな乳の香りのクリームと、上にかかったトマトソース、外のさくさくの衣が、味も食感も一口ごとに変化させてくる。
こんなに美味しいもの、初めて食べた。
会話も忘れて無心に料理を口に運ぶ様を、晴臣はじっと見つめていた。
「……あっ! あの、すみません。アイスクリームまで」
「いい、ついでだ」
食後には、彼が追加で頼んでくれたアイスクリームにも舌鼓を打った。
ひんやりと冷たい甘味がすっと口の中で消えていくのを楽しんで、これはいくらでも食べられてしまう気がした。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
食事を終えた後、再び藤澤百貨店に戻って、刻印の済んだ指輪を受け取ったとき。
聡子が礼を述べて深々と頭を下げると、晴臣はいつになく穏やかな声で言った。
「……そうか。楽しんでくれたならよかった」
もしかして、彼は聡子を楽しませようとして連れ出してくれたのかな、彼も少しでも楽しんでくれたらいいのだけれど――なんて、都合のいい勘違いをしてしまいそうになった。




