指輪の話
その夜も爽子はぶうぶうと文句を言っていた。
算術の問題について、解き方は分かっていたのにうっかり計算間違いをしたせいで、採点した晴臣にバツをつけられたらしい。
「あとちょっとだったのに! また、あいつにねちねち言われたの!」
「『あいつ』とか言わないの」
晴臣に細かい口出しをされて鬱陶しかった、という言いぶりは文句には違いないが、晴臣への憎悪というよりは、彼に口を出される隙を与えた自分の不甲斐なさへの怒りのようだ。
寝る前に爽子の髪の毛を乾かしてやりながら、「悔しいのは分かるけれど、乱暴な言葉づかいはやめなさい」と窘めれば、爽子は頰を膨らませて聡子を見た。
「ねえ、姉様! あんなにねちっこい人のどこが好きなの!?」
「ええと……」
怒りの矛先がこちらにも向いたらしい。
聡子と晴臣は好き合って婚約したわけではないのだけれど、その事情を妹は知らないし、わざわざ知らせて怪しませることもない。
あらためて真正面から尋ねられると答えられずに、おろおろとした聡子に、爽子はふんと鼻を鳴らして言った。
「お顔? お仕事が立派なところ? だったら、あたしがうんと勉強して、あの人よりももっと、お金をもらえるお仕事をするわ! そうしたら、姉様が結婚しなくても済むもの!」
だから、ずっと一緒にいてね、と上目遣いで言い募る妹は、ただただ健気で可愛らしい。
聡子が抱きしめて宥めているうちに、爽子は眠気を誘われたのか、健やかな寝息を立て始めた。
「爽子嬢は寝てしまったのか」
「すみません! すぐに退かせます!」
風呂上がりの晴臣が寝室に来たときも、爽子は多少揺すったくらいでは目を覚まさず、畳の上に転がっていた。
このままでは、晴臣の布団が敷けない。可哀想だが叩き起こすしかないかと思いあぐねていると、晴臣は聡子の肩に手を置いた。
「いや、起こすのも可哀想だろう。そのままでいい」
俺は隅でも寝られるから、妹を布団に寝かせてやれ、という言葉をありがたく受け入れて、布団を敷き終えたのだけれど。
寝心地のいい寝具に転がされた爽子は、夢の中で良いことでもあったのか、口元を綻ばせて寝言を溢した。
「今にあいつを追い出すんだから……むにゃ」
「っ、すみません!」
さすがに寝床を譲ってくれた人に対して、さらに爽子が追い出そうとまで企んでいると知れば、晴臣も愉快な気持ちはしないだろう。
青ざめて謝る聡子とは裏腹に、晴臣は口角を上げて、くつくつと喉を鳴らした。
「小さな子が、寝言で言うことだろう、可愛いじゃないか。……俺や司を見ていたときの肇兄も、こんな気分だったんだろうか」
「肇、兄?」
誰に聞かせる気もない独り言のようだった。
おそらく彼の年上の昔なじみである、辰巳肇のことを指しているのだろう。
だが、その呼び名は、今までに晴臣から聞いていた話よりももっと、肇に向ける親しみを感じさせるものだった。
「何でもない。おやすみ」
掛け布団だけくれと言われて渡しながら、彼が灯りを消す背中を、聡子はじっと見つめた。
――もしも、晴臣にとって、辰巳肇が兄のように慕う、家族同然の人だったとして。彼が肇の形見の指輪の謎を知りたいと願うなら、ぜひ協力したいとあらためて思った。
それは、槙野家の者が指輪を盗んだという疑いを晴らすためというよりも――それくらいしても返しきれないくらいの恩を、晴臣から受けたと思ったからだ。
「とはいっても、分からないわ、何も」
夜半、寝床から抜け出した聡子は、晴臣が枕元の文机に置いている指輪をそっと手に取った。
爽子と晴臣を起こしてしまわないように、灯りはつけられないが、差し込む月光の下でも大きなダイヤモンドは十分にきらきらと輝いている。
思わずその美しさに見惚れてしまった。
「やっぱり綺麗な指輪ね……ん? 指輪の内側に、何か彫ってある? ええと……」
「――『H to H』だ」
「わっ!」
手元の小さな文字を見ようと目を凝らして、集中していたのが悪かった。背後で起き出していた晴臣から声をかけられて、驚きに飛び上がる。
その拍子に、手から溢れた指輪は、文机の上をころりと転がった。
「おっ、起きてたんですか!」
「ああ。君がいつ、その指輪を掴んで逃げ出すかもしれないのに、見張って当然だろう」
なるほど。だから、初日から彼も不満げだった聡子と同じ部屋での寝起きをいまだに続けているわけだ。
彼自身の気持ちはともかく、容疑者を見張るには目を離さないこの形が一番いい。
悲しいくらい信用されていないことを寂しく思いながらも、晴臣が話す事情は、聡子の年頃の少女らしい好奇心を惹く内容だった。
「『辰巳兵衛公から息子の肇に』という意味合いだろう。指輪に贈り主と贈る相手の名前を刻むのは珍しくない。名前の代わりに頭文字を使うのも」
「へぇ……! こんなに細いものに彫れるなんて、職人さんって凄いですね!」
誰から誰への贈り物かを刻んで、世界に一つのプレゼントにする――と聞けば、ロマンチックに感じられる。
江戸時代の生まれの辰巳兵衛公までもしっかりその慣習を取り入れていると聞けば、年齢の割にずいぶんハイカラな人だなと思うけれど、根っからの新しいもの好きなら、そういうこともあるのだろう。
むしろ、晴臣は「初めて聞いた」という反応の聡子に訝しむ目を向けてきた。
「君は、指輪を店で買ったこともないのか?」
「そんなお金がうちにあると思います?」
日々の生活費の支払いすらやっとの槙野家に、アクセサリーを買う余裕があるわけがない。
当然、指輪に文字を刻印する慣習なんて、知るきっかけすらなかった。
「だが……贈り物として、誰かにもらったりだとか」
「どこにそんなものをくれる奇特な方がいるんです?」
ただでさえ貧乏で、当主は犯罪の容疑がかかって失踪していて、評判も最悪だ。事件以来、親族とだって疎遠になってしまっている。
そんな家の娘と進んで関わりたい者がいるはずもなく、ましてや高価な指輪を贈るわけがない。
「悪かった」
「謝らないでください」
謝られると、余計に惨めな気持ちになる。
とはいえ、聡子としても奢侈品に縁がないことはそれほど気にしてもいなかった。
「アクセサリーは素敵だなあ、とは思います。でも、私には手に入らないものを欲しがっても仕方がないでしょう」
「まだ手に入らないと決まったわけでは」
「いいえ、決まっています。私は、そう思うようにしているんです」
人間には分相応というものがある。
聡子にとって分不相応なものは手に入らない、ただそれだけのことだ。
ならば、最初から「手に入らないものだ」と思っておけば、悲しむこともない。
「おやすみなさい、晴臣さん」
この婚約だって、彼との生活だって、それと同じことだ。
今の暮らしを当たり前に受け入れてしまったら、この後「やっぱり無しね」と取り上げられるときに、きっと途方もなく悲しくなってしまう。
(大丈夫。私は何が分相応か、分かっているわ。勘違いなんてしない)
心が勘違いして浮つくことがないように、聡子は自分に言い聞かせた。




