勉強の話
――病気が伝染するのが怖いからって、妹を家から追い出すなんて言わないで。
聡子の切実な求めに、晴臣は首を振った。
「そうじゃない。君に伝染したら、妹さんはどうなる」
「私に? 妹がどうなる、って……」
彼が感染したらという心配ではないのかと、虚をつかれた。
晴臣はこの家にとってはよそもので、この家で何か嫌な目に遭ったなら、ここから離れることを迷わず選ぶだろう。病に罹れば療養も躊躇わないはずだ。
だが、聡子は違う。妹の病が伝染したとして、体調が悪くなってもこの家から離れられない。
結果的に、具合の悪い者が具合の悪い者の看病をすることになって、槙野家全員の生活が回らなくなって、やがては死――。
「共倒れになるだけだろう。いや、今だって、傾いた者同士がぎりぎりで体重をかけ合って、どうにか立っているように見えているだけだ」
「……っ」
分かっていた。槙野家が既に限界を迎えていたことは。
黙り込む聡子に向かって、彼は既に決まったことを宣告するように言った。
「医者も呼ぶ。療養が必要なら療養させる。離れるのが嫌なら定期的に面会できるようにする。必要な治療があるなら、俺は、君たちにどれだけ恨まれようが、それを施すべきだと思う」
明日には医者に往診に来させるからな、と言われて、聡子は唇を噛んだまま頷いた。
自分の無力さが情けなくて、口を開けば泣き言を喚いてしまいそうだったから。
「肺炎ですな」
さっそく翌日、槙野家を訪れた医者は、全員のことを診た上で、その日も熱にうなされて寝込んでいた爽子の病名を告げた。
どうやら、一番恐れていた結核ではなかったらしい。
「肺炎?」
「ええ。細菌が身体の中で悪さをして、肺が痛んでいるんでしょうなあ」
「細菌、というのは何ですか?」
初めて聞く単語だ。
話の流れから良くないものであることは分かるけれど、と気が急いて尋ねる聡子に、晴臣が説明を付け加えた。
「微生物の一種、大まかに言えば、目には見えないほど小さな生き物が、人間の身体に入って、中で毒を出して、病を引き起こすことがある」
「そんな恐ろしいことが!?」
「治療するにはその生き物を殺して駆除するのが主流だが、対応する薬があるかが問題だな」
語弊はあるが、要は虫下しの薬のようなものだろう、と聡子は理解した。
爽子の身体に悪さをする細菌とやらを殺せば、爽子は元気になるはずだ。
早く何とかしてくれと縋るように医者を見ると、医者は納得いかなそうに首を傾げていた。
「うーむ、肺に炎症が起きていることは確かです。とはいえ、肺炎の他に、関節痛やぶり返す発熱もある、元から病弱にしても、ここ数ヶ月急に体調がお悪いとなると……もしや、小さなお嬢様」
呼びかけられた爽子が頭を上げる。
彼女に向かって、医者は奇妙な質問をした。
「数ヶ月前に、何か生き物は触りましたか?」
それが肺炎と何の関係があるのだろう。
困惑した聡子は、引っ込み思案な妹を助けようとして、言葉を継いだ。槙野家では飼っている動物もいない、妹との接点もないはずだ。
「先生。爽子は外に出ることも滅多になくて」
「……ちょっと触っただけなの」
「爽子!?」
「お庭から可愛いネズミが部屋に入ってきたから、つい触ったら、指を噛まれたの。でも、咬み傷は何日かで治ったし、姉様には言わなかったわ」
予想に反して、小さな声は「触ったことがある」と認めた。
聡子が思っていたよりもずっとしっかりと、はっきりと順序立てて説明する。聡子の知らない妹の姿を。
「ふむ。それなら……鼠咬症でしょうな。あれは一度治まったと思っても数ヶ月症状が続くことがある。ああ、心配しなさるな、大きなお嬢様」
顔から血の気が引いたのが分かったのだろう。医者は聡子を安心させるように宥めた。妹の病は治る病だ、と。
「鼠咬症なら、サルバルサンが効きます。ただ、副作用がある薬ですから、ちゃっちゃと治してしまうがよろしい!」
数日分の服薬を処方され、その間も医者の往診を受けて様子を見てもらい、翌週には爽子はすっかり良くなった。
元気になった妹は、真っ先に聡子の元にやってきた。
「姉様、ごめんなさい……」
何のことを言われているかはお互いに分かっている。
その上で、聡子は妹からの謝罪にすぐさま「いいのよ」と返す気持ちにはなれなかった。
「爽ちゃん、私は……頼りなかった?」
「え?」
「困っていても、打ち明けてくれないくらい」
ネズミに噛まれたと教えてくれていたら。
もっと早く知っていれば、晴臣が紹介したほど良い医者ではなくても、原因を分かって薬を出してくれたかもしれない。
聡子にも妹のために何かできることがあって、妹に苦しい思いをさせずに済んだかもしれない。
悔いる聡子に、爽子は弾かれるように頭を上げて、ひしと抱きついてきた。
「違う、違うのっ! 姉様に言ったら、すごく心配すると思っただけなのっ! ごめんなさいっ!」
「爽ちゃんは悪くないわ。私が、自分が、情けないだけ」
家族を支えているつもりで、悩みも話してもらえなかった。むしろ「心配をかけてはいけない」と思わせて、気を遣わせてしまっていた。
うなだれる聡子と泣き出す爽子の愁嘆場に、頓着しない男の声が割って入った。
「まあ、過ぎたことを気にしても仕方ないだろう。無事に治ったんだ。それ以上、何を考えることがある」
「……それは、そうですが」
いきなり部屋にやってきた晴臣に「悩むだけ無駄」と言い切られると、素直に受け入れたくない気持ちになる。
彼の言うことは正しいし、彼の手配で爽子の病は治ったわけで彼が恩人であることも確かなのだけれど……素直に感謝の気持ちを向けるには、彼の態度はふてぶてしすぎる。
そのデリカシーの足りない男は、両手に積まれた冊子を抱えていた。
「ああ、そうだ。爽子嬢に伝えておくべきことがある」
「あたしに? 何ですか?」
きょとんとした妹が小首を傾げる。
なし崩し的に同居が始まったとはいえ、爽子と晴臣はまだ二人で話したこともないだろう。自分に何の用かと訝しむのはもっともだった。
「君――学校の勉強は進んでいるのか?」
「え」
その程度の仲の相手にしては、踏み込みすぎなことを、晴臣はまたもや口にした。
やはり、この男に気遣いを期待するだけ無駄なのだろう。
「来年から女学校に行きたいんだろう? 身体の調子が悪いときに無理をする必要はないが、それはそれとして、勉強が遅れてしまっていたら、学校についていけなくなるぞ」
「あう」
容赦なく現実を突きつけられて、爽子は言葉に詰まっていた。
長く病みついていたのだから仕方がないが、学校に通えていない爽子の勉強が遅れていることは、聡子としても心配していた。
だが、病に苦しむ妹を見れば、生きていてさえくれればそれでいいと思ったし、余計な心配をかけて病に心が折れてしまうのも怖かった。
いつか治ったら。いつか学校に通えるようになったら、その時に頑張ってくれればいい――というのは、ある意味でその未来が訪れる可能性が低いと思っていたからこそ、願いをかけていたところはあったのかもしれない。
だが、そうか。爽子はもう治っているわけで。
「既に十分元気そうだし、今日から遅れを取り戻そう。過去のことを悩むより、これからを考えた方がいい」
どさり、と目の前に積まれた書籍の山に、爽子が目を白黒させている。
姉様、と助けを求める目で見られたが、「病が治ったなら学校に通えるように準備を」というのは至極もっともな提案で、爽子のためにもなる話で。
「爽ちゃん、お勉強頑張りましょうね。私もお手伝いするから」
頼みの姉もこの件に関しては襲来者と同じ考えだと悟った爽子は、衝撃にぱかりと口を開け、絶望に顔色を青くした。
「もうっ! 姉様、なんであんな人と結婚しちゃうの!? あたし、絶対、反対だから! 絶対、ぜったいっ、あいつを追い出してやるんだから!」
その後、晴臣からさんざん扱かれてふてくされた爽子が元気に喚いていたのは、また別の話である。




